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SFは、しんどい現実に向き合う距離を調整してくれる:長谷敏司インタビュー

SFは、しんどい現実に向き合う距離を調整してくれる:長谷敏司インタビュー

2001年にライトノベル作家としてデビュー。その後、難病にかかった人工神経制御言語の開発者を描いた『あなたのための物語』でSF作家としての地位を不動にした長谷敏司さん。2022年に刊行された『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、義足のダンサーが認知症の父親を介護しながらロボットとの公演に臨む長編小説で、第44回日本SF大賞を受賞しました。
未来の技術とともに、病気、死、老いと介護などを通して、人間性(ヒューマニティ)とは何かということを描き続けてきた長谷さん。『あなたのための物語』と『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』はそれぞれ、難病である潰瘍性大腸炎にかかったご自身の経験と、父親の介護をしていたご自身の経験が色濃く反映された作品でもあります。
そんな長谷さんに、物語を通した病気や死との向き合い方、そして重たいテーマをSF作品として表現するための力やスキルについてお聞きしました。


また、長谷敏司さんが、自身の病気の経験からどのように小説を書くための言葉を紡いできたのかを語るエッセイ「病気と創作」を寄稿した『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』をKaguya Booksから今春発売! 現在、公式オンラインストアで3月9日まで特典付きの先行予約を受け付けております。長谷さんとペアになって、病気の体験とそこから生まれる創作について語った、ミン・イアン「あなたのためのエッセイ」も必読です! 書籍と予約の詳細は【こちら】



当たり前の不幸を描きたかった

──難病を扱うフィクションは数多く存在しますが、『あなたのための物語』は冒頭から最後まで痛みが徹底して描写されていて容赦がないと言いますか、他の追随を許さない作品だと思いました。


長谷 なぜ SFで不満足な世界を書くのか、ということを伝えるために、苦痛から逃げずに書き続けたところはあると思います。我々は科学によってあらゆる苦痛を取り除くことはできていないし、科学では取り除けない苦痛が確かに存在する。潰瘍性大腸炎という治らない病気にかかって就職もできず、痛みの中でこの後の人生を何度も考えざるをえなくなった当時の僕にはそれがリアリティだったし、そこをベースラインにしないと、未来も人間もあまりに自分にとって楽天的に見えてしまう。なぜSFには健康な人ばかり出るんだろうと疑問もありました。


──たしかに、健康な人、科学者、頭のいい人などが多く出てくる印象です。


長谷 貧しい人もあまり出てこないし、出てきても最後には金持ちになったり、世界に大きく関わる役割を与えられたり……。なぜ当たり前の不幸が当たり前に描かれていないのか、違和感がありました。それを書いておかないと、僕にとっては未来を描くということにならなかったんです。


──SFの中に、自分のような存在がいない、という感覚があったんですね。


長谷 はい。僕は子どもの頃はあまり裕福ではなかったですし、周囲もそうでした。でもそういう人たちもSFにはほとんど姿を見せない。透明になっている。それは不自然だと思ったんです。そういう人たちが当たり前に生きて、同じようなことで苦しんでいることを、SF としてちゃんと書いておいた方がいいと思いました。もちろん、一般小説の中にはそういう人の困難が普通に描かれていますが、僕はそれ自体というより、未来が簡単じゃないということを書きたかったんです。


──『あなたのための物語』の主人公のサマンサは裕福で、死を介して、たった一人で世界と向き合っていると思いました。一方で『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、貧困の物語でもありますよね。2050年になってもお金がなく、認知症の父親のためにヘルパーが頻繁に来てくれるわけでもないし、受けられるサービスにも限界がある。


長谷 『あなたのための物語』では「死と向き合うこと」がテーマだったので、経済的な制約をつけたくなかったんです。どんなに恵まれた条件でも、死は同じようにやって来るという話にしたかった。だから物語の中では経済的に豊かな設定にしています。作品としての戦略ですね。
『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』の場合は、僕自身の体験として、お金が足りないからヘルパーに常時入ってもらうことができず、経済状況に見合ったサービスしか受けられなかった。そういう現実は読者の多くも同じ状況だろうと思い、経済的制限を避けて通れない物語にしたかったんです。実際、お金さえあったら、今でも介護はアウトソースできますよね。未来の技術がなくても、人間のヘルパーを雇えるから。使えるお金が限られているからこそ、介護中に自分の経済状態を一度見直したり、突きつけられたりするわけです。これは介護のしんどい体験のひとつで、それをきちんと描きたかったし、未来なら誰もがロボットにまかせられるとも思えなかった。そういう意味で主人公の護堂はお金持ちではいけなかったんです。


物語とSFは、人類を救うのか

──他のインタビューなどで、SFが希望であるとか、今できないことも未来では可能にできるのが救いだとお話しされていました。一方で『あなたのための物語』は未来においても治らない難病の話ですよね。SFが救いだったというのはどういうことなのでしょうか。


長谷 SFというものの持つ、物語の中に現実にはない大きなギミックを設定できて、それをテーマと絡めるという構造は、現実との距離を取りやすくて、書き手にも読み手にも救いがあると思っています。ただ、そのSFの構造を、希望を書くために使うかどうかはまた違う話だと思います。
例えば『あなたのための物語』は死と物語の話を書きたかったんですよ。 なぜかというと、僕自身が病人として、読書でひとときしんどいことを忘れることはできたけれど、病気の苦痛からこれで解放されたと感じたことはなかったからです。なので自分のことを救ってくれる小説が欲しくて自分で書き始めたところがあって。ただ、『あなたのための物語』を書き始めた時にはデビューから5年経っていました。そこからさらに刊行するまでに4年も書いた。そのせいで、自分を救うために物語を書き始めてデビュー前から数えて10年にもなっていて、やってみた結果はどうだったのかをどうしても意識してしまった。死の恐怖や死そのものを描く物語を書こうと考えた時に、自分の体験した答えだから、救われていないように書かざるをえなかった。書き始めた時からああいう形になることははっきり決まっていました。未来を信じているし、自分の書くもの、書く作業を通して自分を救いたいけれども、現時点で達成していないということは直視せざるを得なかったからです。
だから、未来は希望だけれども、自分の納得できるステップを作ってからでないと希望を信じられなかったんです。 盲目的に未来を信じるとか、SFだから信じるとなると、それは科学ではなくて信仰になってしまうので。救いのある未来はイメージできるんですけれども、未来を信仰してるわけではなかったので、未来に救われないことはあるっていうのが、執筆に5年近くの時間をかけた自分にとっての結論だったんです。


──『あなたのための物語』には、主人公のサマンサのために物語を執筆する《wanna be》(なりたい)というAIが出てきます。死や病を書こうとした時、なぜ相手としてAIを選んだのでしょうか。


長谷 『あなたのための物語』を書き始めた2005年には、生成AIどころか、いわゆるディープラーニングの技術も存在していませんでした。ですから、《wanna be》はAIであることに意味があるというよりも、“物語そのものの象徴”として位置づけていました。
僕にとって大きなクエスチョンは「物語は死を救いうるのか」という点で、書き始めた段階からその答えは暫定的にはわかっていました。だから、《wanna be》は「自分を救ってくれない物語」の象徴として存在しているんです。 《wanna be》が知能をちゃんと持っていたのは、もし自分のためだけの小説を書いてくれる存在や、対話してくれる存在であれば、ひょっとしたら少しはチャンスがあるかもしれない……とも思っていたからです。
でも、死があり、体調の悪化による認知の低下があり、苦痛のなかではいろいろ考えたことを思い出すことすら難しくなる。そうした現実の前では、物語は人間を救えない。死はそういうものだと、当時は結論づけざるを得なかった。その感覚、つまり死や体調不良の恐怖について自分が延々考え続けてきたことが、《wanna be》と主人公サマンサの関係にそのまま表れています。未来の技術がどれだけ発展してもなお救われないものがある、それを掴みたかったんです。当時の僕自身が、SFを書いていながら救われていなかったからです。


長谷敏司がインタビューの答えているところ


「病気と死」というテーマと向き合う握力

──ここであらためて、創作と病気の関係について、簡単にお聞かせください。


長谷 病気になるまでは「創作で生きていけたらいいな」といった漠然とした思いしかありませんでした。それが一気に具体的になったきっかけが病気になったことです。ゲーム系の専門学校に通っていたのですが、2学年目の秋に発症し、それが当時の就活にはあった健康診断書の提出が求められる時期と重なったんです。診断書を出すと必ず不採用になる。理由は書かれませんが、事実として落ちる。そこで、普通の会社員として働くのは難しいと実感せざるを得ませんでした。
それから、創作をするにあたって、病気というマイナスをプラスに変えたいという気持ちはどこかにありました。とはいえ、病気は個性なんて言えるような状態でもありませんでした。潰瘍性大腸炎は発症した頃、症状がしんどい病気なので、この後一体どうなるんだろうとか、生きるとか人生ってなんだろうとか、自分にどのぐらい残り時間があるのだろうとか考えざるをなくなったということが、僕自身のパーソナリティに大きい影響を与えていて、それがそのまま創作にも影響しています。


──ご自身の経験を踏まえた上で執筆をする時に、闘病記をエッセイで書くとか、純文学的な小説にするとか、いろんな選択肢がありうると思うんですけど、 なぜSFだったのでしょうか。


長谷 正直に言えば、しんどいので、病気と真正面から向き合いたくなかったんです。僕はライトノベルの賞からデビューしたんですけど、ライトノベルをよく読んでいたこともあって、しんどさを忘れられるものを書きたかったんです。ただ、いざ書き始めると、病気のことを忘れることができるのかというとそうではないですし、病気はすでに僕のリアリティとかパーソナリティに深く影響しているんです。だから気楽なものを書けるかというとそんなことはないし、それを信じることもできなかったんです。そこで、現実から適度な距離をとりつつ、逃げるわけでもない表現として、SFは非常に相性がよかった。


──大きな嘘を入れられることによって、むしろ向き合いやすくなる……。


長谷 そうですね。自分の距離で話ができるようになると思います。デビュー当時に、病気なんだから病気の話を書いてくださいと言われてたら、あまりにもしんどくて書けなかったか、もっと日和ったものを書いたと思います。それかしんどいテーマを握り続けられるような短い尺におさめるか。 ライトノベルやSFで筋力を鍛えたから、 『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』くらいの近い距離を選べるようになったというか。テーマを自分の苦痛から離した方が楽なので、長編で介護や人間性と向き合うような握力も体力もキャリアの中で鍛えたものだと思います。


──筋力っていうのは文章力ということですか。


長谷 文章力というより、「しんどいテーマから逃げずに握り続ける力」です。物語を書くとどうしても、もっと楽な選択肢や書きやすい選択肢が見えてくるんです。自分も読者も楽だし、その方が話も進めやすい。そこで踏みとどまって、これを書くことに意味があると思える握力が必要なんです。テーマを離さずにいられるかどうかが、長い作品では特に大きい。
例えば、現実の介護を題材に「人間性」を描き出すのは、かなり難しいと思っています。プロのヘルパーを主人公にして施設を舞台に物語を書くことはできます。でも、そこに希望を描こうとすると逆に嘘になってしまったり、その中の小さな希望を読者が希望と受け取ってくれる形になるかはわかりません。少なくとも僕自身は発明できなかった。
そこでどうしてももう一本軸が必要で、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』ではそれがダンスでした。ダンスが存在することによって、伝達可能もしくは理解可能な人間性を、一本筋を通して描けるんです。一歩間合いを離すためにダンスという別の軸が必要だった。介護中のダンサーという出し方よりも、義足のダンサーの話にした方が、読者に物語としての逃げ場、距離の取り方ができたと思います。 護堂が五体満足で健康で介護中だけどダンスしたいって話になると、親の介護中なんだから1〜2年はダンスを我慢すればいいと読者が感じてしまうかもしれない。けど、護堂は足を失って、AI義足というそれまでなかったテクノロジーで這い上がって舞台に立てそうなところまで復帰したという状態だと、2年間くらいは仕事を我慢して介護するべきとは思われにくい。
それがつまるところ、SFが対象とかテーマから距離を適切に管理してくれる力であるように思うんです。そういうSFの力を信じられるので、しんどい対象に寄ることができるんです。言ってみれば卑近な話だったりとか、希望を持ちにくいけど必要な話とか、SFではあまり出てこないような人にとっての未来を描く時に、そのテーマに寄っていく時の距離の管理は、SFだからできるという側面はあるんじゃないかと思います。


──言葉を使わないダンスという表現とのコラボだからこそ可能になったことはありますか。


長谷 コンテンポラリーダンスに限らずですが、人間の立っているだけの姿って、実はメッセージがないわけではないですよね。コンテンポラリーダンサーの立ち姿って不穏なものであったりします。それは、僕らが思ってるよりもずっと豊富に人間の肉体は雄弁にメッセージを発しているということです。僕らの普段意識していない言語の世界が存在するし、僕らに強い影響を及ぼしていると思っていて、ダンスを通してそこに人間がいるということの強烈さが出ればいいなとは思っていました。
介護をしてた時に、認知症の父親と同じ生活空間にいる状態がすでに不穏だったんです。そういうことを何かしら小説として捉えたいと思っていました。同じ部屋にいるだけで、何にもないはずなのに何か不穏さを感じてるという現象があるんだけども、それを小説として書くと、何かの前振りみたいに見えてしまうんですよね。でも本当に書きたいのは、不穏であるという事実なんです。 肉体の発するメッセージにまつわることを言語化して、それが中心であることをどうやって読者に伝えるのかに割と苦労していたように思います。これは、さっきの握力の話にも繋がります。物語としてこういうテーマを保持するには握力が必要なんです。


AIと人間の対話が生み出すもの

──『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(2022年刊行)と『あなたのための物語』(2009年刊行)は両方、AIと人間の関係の話ですよね。その間の年月で、人間とAIの関係は変化したと感じますか。


長谷 相当変わりました。ディープラーニングの成果がわれわれ一般人にも見え始めたのは2009年頃で、『あなたのための物語』の執筆当時はここまでAIが進化するとは思っていませんでした。2000年代のAIは完全に道具で、人間とAIの関係も「人間と道具の関係」として整理できたんです。2011 年に『BEATLESS』という作品でアナログハックの概念を考えた時にはディープラーニングはありましたが、それでもAIは道具で、特定分野以外では精度不足で人が補うような使い方でした。
しかし今の生成AI、大規模言語モデルは、適切な言葉をつなげるという形式で出力していくので、対話こそが基本です。出力される答えが、問いや要求として打ち込むプロンプトに明確に依存しています。つまり双方向性が構造の基盤になっている。これは当時まったく想像できませんでした。道具として要求通りに仕事を返す存在ではなく、要求を受け取る行為そのものがAIにとって出力の一部である。こうした双方向性は、『あなたのための物語』を書いた頃には考えられませんでした。世界の天才たちは予想していたのかもしれませんが、少なくとも僕には完全に想像の外でした。


──サマンサと《wanna be》は対話こそしますが、今の生成AIのように、問いによって応答が密に変化していく感じではないですね。


長谷 ええ。やはり物語の象徴なので、相手の応答でどんどん形が変わる存在ではありません。もしそういう描き方を思いついても、当時の技術状況では読者にはリアリティがピンとこなかったと思います。面白いけど、なぜそんなギミックを選んだのか理解できないものになっていたと思います。


──コンテンポラリーダンスのダンサーには、いろんなタイプがいますよね。 物語を作るダンサーや美しさを表現するダンサー……。その中で『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』の護堂は対話をしていくダンサーでしたが、これもAIと人間の関係を描くという物語的な要請なのでしょうか。

長谷  これはどちらかというと作品の成立経緯によるものです。もともとこの作品は、暗黒舞踏の系譜におられるダンサーで振付家の大橋可也さんとコラボして、公演で頒布する中編小説を書く企画が出発点だったんです。なので、コンテンポラリーダンサーを描きたいと思った初期衝動が、舞踏の系列のダンスなんです。重力であったり、人間の体自体の存在感を見せる、人間のリアルな肉体があって、そこに衝動が乗っていく……というような。バレエのような重力から解き放つダンスではなく、自分の体にかかる重力をむしろ舞台の上で表現するみたいな、そういうダンスに影響を受けて書き始めたものなのです。
中編版を公演で配布する時に、大橋さんがコラボで作られた舞台を見たら、小説よりもそっちの方がすぐれたSFだったんです。当時(2016年)にソフトバンクのロボットのペッパーと踊ってたりしていて、 肉体の不穏さとか、人間のダンサーの肉体とペッパーの肉体が比較されたり……。これらは小説として書くのは難しいけれども、これから未来に必ずやってくるものであって、それは間違いなくすぐれたひとつのSFであると思いました。それに対するアンサーを何かしらの形で出したいなと思っていて、 それが長編版『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』のスタートラインでした。


──ラスト、護堂とロボットたちのダンスシーンが印象的ですよね。


長谷 ダンスシーンは、振り付けが舞台として成立するように書こうということはずっと思っていました。つまり、小説のこれまでの展開を反映したものとして舞台演出が行われるという形で、公演のシーンをクライマックスにしようということです。坂からどんどん肉体が滑り落ちていったり、肉体がジャンプする振り付けの時に足場が先回りしていったり、そういった演出は物語中で起こってきたドラマを、ステージの形で見た時に見応えがあるように構成し直したものです。実際に頭の中で舞台をイメージして考えています。唯一考えていないのは、一人のダンサーがあんなに全力であの公演時間を踊りきることができるのかっていうことぐらいで、もうそこは僕にはあずかり知らないところなので。途中で、疲労困憊してるダンサーと動き続けるロボットを対比させてみせてたりしましたが、そういうところをちゃんとドラマチックに見せることによって、ロボットと人間の身体性の違いを説明にならないように見せられたらいいなと。


──単に状況の描写や説明にならずにドラマとして面白いように……。


長谷 ちゃんとドラマチックなダンスの舞台になるように。この舞台を観に行った観客が、物語の中のドラマに似たものを頭の中に想起してもらえるものになればいいなと思っていました。中編版でもダンス公演をクライマックスにしたのですが、実際の舞台の緊張感や存在感、エモーションには全く及ばなかったという反省点がありました。見せてもらったものに対してアンサーになるものを出すために、ドラマを十分に積み上げるという、小説だからこそできる前振りを潤沢に取って、舞台のシーンで爆発させるという形態を取ることにしました。
クライマックスシーンの最後は、登場人物たちも予期していなかった新しいAIの動きが歓喜のシーンとしてあるという構成になっています。これは、ここまでの物語でドラマとしては書かなかったし、文章として書くとあまりにも楽天的になりすぎます。でも舞台演出として作中で出てきた時にはエモいし、感動的ですよね。舞台上の空間、特権的な空間の中でならそれを素直に受け取れる、小説メディアだからこそのアンサーになるかなと。


──最後に、難病の方や介護中の方、つまり当事者からはどのような反応がありましたか。


長谷 僕に直接反応が届くことはあまりありませんが、検索すると、作品の感想と結びついた自分の介護体験をSNSなどで語っておられるかたはおられましたね。多分、介護について語る時は、誰かと積極的に意見や体験を共有するようなものになりにくいんだと思います。自分の内側に沈みやすいというか、人生や時間、親子関係を見つめ直すような、一人語りに近い言葉になりやすい。


──自分の中で向き合っていくという行為は、小説とすごく相性がいいのかもしれないですね。長谷さんの小説を読みながら、すごくしんどいけれどもどこかで救われるような思いになる読者の方もたくさんいるのではないかと思います。貴重なお話、ありがとうございました。

告知

写真:SFG

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井上彼方

井上彼方ライター

1994年生まれ。VGプラス合同会社代表。2020年に始動したオンラインSF誌Kaguya Planetでコーディネーターを務める。編著書に『社会・からだ・私についてフェミニズムと考える本』(2020, 社会評論社)。『SFアンソロジー 新月/朧木果樹園の軌跡』と『京都SFアンソロジー:ここに浮かぶ景色』(いずれもKaguya Books/社会評論社)の編者を務める。