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春の魚

春の魚

9,647字

「ここは、海だった」

彼女は、掠れた海風のような声でそう言った。生まれる前の記憶が()(おこ)されるような心地がして、僕は落ち着かなかった。一切の風が止む時間に、まるで蜃気楼のように揺らめいて、でも、真夏の陽炎のように確かに、彼女はそこにいた。

僕が人生を俯瞰できるようになるのは、もっとずっと後のことだ。それくらい、まだ何も見えていない頃に、僕の中に起こった、それは不思議なずれ(、、)のようなものだった。
潮の匂いのする(ひな)びた町で積み重ねていた、そこまでの時間は誰のものだったのか。今でも僕には分からない。

サワラ、と伯父さんは言った。

僕はあまり魚に興味がなかったけれど、それでも、それは馴染みのある魚だった。そもそも生まれたのは漁業の町だ。多分、大昔からそうだったはずで、今でも多くの住民が漁業を生業としている。そんな所に生まれ育てば、大して興味を持たなくても自然と魚の名前くらいは覚えるし、見た目も大体判る。

サワラも、だからすぐに分かった。大きくて、少しほっそりした銀色の魚だ。背に黒っぽい班模様がある。出世魚で、名前が変わる。サゴシ、ナギ、サワラ。そういうことも誰に聞いたのか忘れたけれど、いつのまにか知っていた。伯父さんは漁師だから、やはり伯父さんから聞いたのか。祖父ちゃんも漁師だったから、祖父ちゃんだったかも。ただ、祖父ちゃんはあまりお喋りな人ではなかったから記憶は怪しい。まあ、誰に聞いたのでもいいけど。自分の感覚で分かっていることは、サワラがとても美味しい魚だってことだ。煮ても焼いても美味しい。刺身も最高だ。だから気になった。
「サワラが、どしたの」

伯父さんが早朝の市から戻って来たところに、僕はいつも迎えに出る。平たい発泡スチロールの箱をいくつも重ねていたいかつい手は、不意に止まった。それだけ放り出されたような魚の名は唐突だった。手が止まったままだったから、こちらの声も聞こえなかったのかと思って繰り返してみたけれど、何か考え込んでいるようでなかなか返事をしてくれない。やっとゆるゆると手を動かし始め、箱を片付け終わると、ようやく僕が傍にいるのに気づいたのか、音がしそうなくらいかっちりと瞬きをした。漁師は皆そうだけど、日焼けた浅黒い肌にはたくさんの皺が刻まれていて、実際の年齢よりも老けて見える。目もとに寄り集まっている何本もの線は、その時、いっせいに僕の方を指してきたように思えた。
「サワラがな、獲れなくなるって話」
「獲れなくなる」

遠くの波の音に半分[攫][さら}われながら、ぼんやり繰り返した僕の声に、伯父さんは口の中で「んん」と濁った音を立てて返事を寄こした。
「なんで?」
「温暖化、とかの影響らしい」

それまで耳にしてきた〈温暖化〉は、もっぱら気温の話だったから、すぐにはぴんとこなかった。大人たちは夏になる度に「昔はこんなじゃなかった」と言った。夏休みでも、最高気温が三十度を超えることは滅多になくて、そういう日があると、けっこう大騒ぎをしたのだという。
「今じゃ、体温超える日があるもんねぇ」

夏が苦手な母さんは溜息混じりに何度も言う。僕らの世代にとっては、それくらいは普通だ。もちろん、暑くないわけじゃない。体温超えをやかましく言い立てる割に、母さんは我慢強い。すぐにはエアコンを付けない。逆に僕らはすぐに音を上げる。本当は、僕らも我慢できるんじゃないか、って時々思うけど、すぐに熱中症になるから、気合だけで乗り切れるような話でもない。いずれにしても、温暖化って言うと気温のことばかりを考えていた。海のことも聞かないではなかったけれど、それは南極の氷が溶けだして世界の海面が上昇するとか、そのせいで消えてしまう島があるとか、そういう話だ。そういえば、鮭とか、北の方の魚の話は聞いたことがあった。でも、身近に海に関わる仕事がある割に、なぜか、地元の魚に関わることを聞いたのはその時が初めてだった。

サワラの分布は北陸あたりの冷たい海と、瀬戸内や太平洋沿岸と二つあるという。北の海では漁獲量は増え始めているのだと、伯父さんはぼそぼそと言った。海水の温度が上がりすぎると、今までのように獲ることはできなくなる、ということだ。
「とうとう来たんだな」

しばらく黙り込んだあと、伯父さんはぽつりと呟いた。
「何が?」

訊いてみたけど、伯父さんは聞こえなかったように、下を向いたままだった。

這いのぼるように気温が上がってきて、波の音が聞こえなくなっていた。
「涛也」

呼ばれて、我に返った。
「学校、遅れるぞ」

海に気を取られていたのに気づく。音は、聞こえている時より、聞こえなくなった時の方が意識を取られる。ちらとこちらを見ただけで、伯父さんは軽トラに乗りこんで車庫へ向かってしまった。

朝凪はゆっくり味わってる暇がない。朝、のんびりできるのは既に仕事を終えた人だけだ。伯父さんや祖父ちゃん、漁師たちの日中は、何か少しだけ世間とずれている。もちろんそんな職種はごまんとあるけれど、中でも、自然と組み合っている仕事は、何かそういう感覚が強いと思う。

自転車で短い坂を下り、僕は平地の干拓地を飛ばしていった。ここは鉄道や主幹道路が通るラインから海に向かって出っ張っている町だから、どこへ行くにもまず、電車に乗るために隣町の駅に出なくてはならない。学校も中学までしかないので、高校以上の学校はみな遠方になる。運動部に入ったりして体力づくりを兼ねようという者は、遠い学校まで直に自転車で通ったりもしていたが、長い距離の上、きつい峠道をいくつも越さねばならず、それは生半可な道ではなかったから、普通の高校生は大抵電車通学だった。実際、遠い、というのはそれだけでも大変だ。早起きしなくてはならないし、その分早く寝なくてはならない。とすると、自由になる時間も勉強時間も当然少なくなる。勉強熱心な者たちはもちろん通学の電車の中でも勉強していたが、僕はそこまでする気にはなれなかった。電車に乗ると、寝るか、窓の外を見ているかだ。飛ぶように風景が流れていくのはいつ見ても飽きない。人が、本来持っている能力以上の速さで動くことを恐れなくなったのはいつからなんだろう。誰も疑問に思わないだろう、そんなことを、ぼんやり考えたりしていた。馬には随分大昔から乗っていただろう。舟に乗り始めたのはいつからだろう。生き物に乗っているのはなんだか受け入れやすいと思うのは錯覚だろうか。馬だってかなりのスピードが出る。でも、魚には乗らないな、などと思うのは、こんな町に育ったからか。人が乗れるような大きな魚もいないではないが、馬のように馴れはしない。馴れそうな海の生き物なら、イルカとかオルカくらいか。乗れるものなら乗ってみたい。ぴたりとその背にくっついていれば、水の中でも果てしなく潜っていられそうだった。人魚のように陸でも海でも生きられるような、そんな生き物になれそうだった。

毎朝夕、干拓地の真っ直ぐな道を走り抜ける時は、よく凪の時間に当たり、海辺から、陸から吹く風が止み、停滞する空気がのっぺりと澱んでいた。

ここは、昔、海だった。ちょっと見れば素人でもすぐに分かるほど露骨な高低が見て取れる。昔、海岸線だった場所から少し離れた所に島があり、そこにも多くの住民がいたので、古くから行き来は盛んだったらしく、やがて少しずつ干拓や埋め立てが始まり、その島とは陸続きになったのだった。地元のことは小学校の社会科で習うので、なんとなく誰でも知っていたが、今や余程の高齢者でないと海だった頃のことを覚えてはいない。元はと言えば、陸側である方もさらに大昔は島だったはずで、この町には(やすみ)(じま)という名が付いている。その昔、さる高貴なご身分のお方が立ち寄り、休まれたというのが由来だそうだが、もっと前には太郎島と呼ばれていたという。そして離れていたもう一つの島は次郎島と呼ばれていた。兄弟島なのだった。太郎の方の名は廃れたけれど、次郎は未だに親しげに呼び慣らわされている。その次郎島に、僕らは住んでいた。偶然かと思っていたけれど、この辺りには太郎や次郎が付く名前を持つ者が多い。若い世代は少ないけれど、僕らの親世代以上の男子にはよく付けられたらしい。うちもそうだった。祖父ちゃんは悠太郎、亡くなった父さんは聡次郎、伯父さんは洸太郎だ。でも、僕の名には太郎は付いていなかった。母さんが僕を妊娠していた時に、父さんは事故で亡くなったから、僕の名を付けたのは母さんだった。その時、他の誰も、〈太郎〉を付けろとは言わなかったのだそうだ。
「今からの子じゃしな。漁師になるとも限らんし、何も縛らんでええ」

普段あまり喋らない祖父ちゃんが、わざわざそう言ったのだと母さんから聞かされた。太郎や次郎を付けると漁師になるのか、と驚いたが、それは別にしきたりとかではなく、なんとなくついでのように祖父ちゃんの口に上っただけだったそうだ。でも、そんなふうなことを、少しは考えていたということだろう。まあ、当然のようにそうなってきた世代なのだから無理もなかった。

僕らの世代には、太郎や次郎は特に多くない。小学校の同級生には二人いただけだった。多分、余所の地域と同じくらいの比率のはずだ。

それでも僕の名に〈涛〉なんて字を充てたのは、やっぱりどこか海に関わるものを入れたかったからだろう。海で父さんを亡くしたのに、母さんは海を憎んではいなかったのだ。でも、祖父ちゃんや伯父さんに倣って漁師になれとも言われなかった。
「あんたの人生だからね」

母さんはそう言った。

朝はいつも忙しく大急ぎで走り抜けてしまうけれど、夕方、帰り道となると、自転車の車輪は慣性を持たされるのもやっとくらいの動きでしか動かなかった。疲れてもいたし、何より、夕刻という奇妙な時間が僕を捉え込んでしまうからだ。微かに風を確認してから、しばらくして風が無くなる。その時を、僕は待つ。まだ海岸に辿り着いてもいないうちから、戸惑うように空気が()わってくるのが分かった。

いつものようにのろのろと干拓道路を走っていると、歩道の端に誰かがぽつんと突っ立っているのが見えた。伯父さんからサワラの話を聞かされるちょっと前くらいから、時々見かける人だった。女の人で、少し時代遅れな感じのする、もっさりしたワンピースを着ていた。白、というか灰色に近い色で、夕刻になると風景に馴染んでしまって車から見えづらくなるような、そんな色の服だ。うっかりすると、僕も気付かないで通り過ぎようとしていたかもしれない。人がいるとは思えないほどじいっとしていて、動きは緩慢だった。僕は僕で、少し不躾かもしれないと思えるほど、じいっとその人を見ていた。別にびっくりするほど美しいとか、そういう感じでもない。ほっそりとしていて、髪は薄い色で長く、目は大きかったけれど、動物のように黒目勝ちで瞬きが少ない。眼差しはゆっくりと動いている。その目が僕を捉えた時、少しだけ速い動きが起こった。ぱたぱたと瞼が上下し、そして口が開き、彼女は言った。
「ソウジロウ」

僕は息を呑んだ。それは僕の名じゃない。父さんの名だ。
「それは」大きく息を吸ってから、やっとそれだけ言って、また息を吸った。「僕じゃないです。父の名前です」

父を知っているんですか? 僕が、似ているんですか? と、聞こうかと頭の中では考えていたが、とてもそこまでの言葉は出てこなかった。特に人見知りという性格ではないが、何だかその人は変わっていて、僕は臆してしまったのだ。
「父──」

彼女は掠れた声で繰り返した。なぜだか、目を(みは)っているように見えた。僕は、とりあえず頷いて見せた。父さんを知っているにしても、そんな年には思えなかった。すくなくとも十六年以上前に知っていなくてはならないはずだ。でも、彼女はそこまでの年齢には見えない。子供だったとしても、それでも父を呼び捨てにできるような歳ならば、もっと年齢が上のはずだ。自分と同じくらいか、違ってもそう幾つも変わらないようにしか見えなかった。
「海が──」

と、また掠れた音が零れた。

海? 海がどうしたんだろう。
「あなたは」と言おうとしたが、なぜか声が出せず、そうするとなんだか恥ずかしくなってしまい、僕は顔を伏せ、そのまま足に力を込めて自転車を漕ぎ、その場を去ってしまった。随分と離れてからそっと振り返ってみると、彼女はもういなかった。

その晩、父さんに間違われた、とだけ母さんに話した。
「あら、そうなの」母さんはなんだか晴れ晴れとした声を出した。「今までそんなこと言われたことなかったのにね。子供っぽさが抜けてきたってことかしら。まあ、似てはいるんだけど」
「似てんの?」
「似てるよ。祖父ちゃんも、洸ちゃんも、そう言ってる」
「そうなの」

そんなことは聞いたことがなかった。もちろん父さんの写真は見たことあるけど、自分の顏を見て、その写真に似ていると思ったことは一度もなかった。多分、それは、声とか仕草とか、そういったものを含めてのことなんだろう。
「祖母ちゃんなんか、生まれ変わりみたいだ、なんて言ってたくらいでね」

数年前に亡くなっていた祖母ちゃんには、自分でもわかるくらい溺愛されていたと思う。孫っていうのはとにかく可愛いものだと聞いたことがあるけど、死んだ息子の生まれ変わりみたいに思っていたなら、なおさらだったかもしれない。母さんの妙に嬉しそうな顔を見ながらぼんやり、そう思う。ただ、引っかかっていたことは母さんには言わずにいた。女の人で、しかも若い人だったこと。そして「ソウジロウ」と呼び捨てにしていたこと。

それからほどなくして、僕はまた彼女に会った。今度はあたふたとはしなかったけれど、彼女はまたしても僕を「ソウジロウ」と呼んだ。僕は、今度ははっきりと、少し強めに否定した。
「それは父の名です。僕は涛也といいます。聡次郎じゃない」
「……トウヤ」

僕は頷いた。

彼女は少し首を傾け、微かに笑って言った。
「海を、さがしてた」

海を、探す? 僕は声を出さずに口だけ動かした。
「……覚えてないのね」

なんだか憐れむように言われた気がして、今度はちょっとムッとしてしまい、僕はまた自転車を漕ぎ、その場を去った。今度はそれほど遠くに行く前に振り返ったけれど、やはり、既にその姿はなかった。もしかして幽霊にでも会っているのではないか。でも、あまり怖くはなかった。だからそういうものではないのだろう。でも、それなら何なのか。そして、海を探す、というのは。

三度目に彼女に会って、やはり「ソウジロウ」と呼ばれた時には、訂正するのも面倒になって溜息が出た。それにしても、いつ父さんに会ったのだろう。それだけはやっぱり疑問だった。いきなり次々にそんなことを聞き(ただ)すわけにはいかないし、歳を訊くのはもっと(はばか)られる。でも、名前くらいは尋ねてもいいだろうと思い、やっとそれを口にした。
「名前、訊いていいですか」

だが、彼女は何を訊かれたのかわからないといったふうで、ただ首を揺らせた。やはり、すこし妙な人なのだ。仕方なく、僕は勝手に彼女を〈凪〉と呼ぶことにした。いつも夕凪の時に会うからだ。僕を「ソウジロウ」と呼ぶ彼女は、懐かしそうに僕を見る。でも、あなたの記憶はおかしいんじゃないか。今の僕くらいの父さんを知っているわけがない。凪の存在自体に自分を引っ掻き回されているようで、落ち着かなかった。それでいて、僕の方も、なんだか懐かしいような気もしていた。そうした気分が伝染していたのだろうか。慣れて来て、彼女の顔をしみじみ見られるようになると、その顔が、今度はどことなく母さんに似ているような気がして、これまた落ち着かなかった。ますます母さんには言えない。

海、と二言目には掠れた声がそう言った。その音は、遠くの波の音を思わせた。凪いでいるはずの海の、その音。風がなくても、この町には必ずどこかに潮の匂いがあった。海岸線のあちこちに落ちている干からびたアオサのように、ここは海だと、じきに返す波がやってくるのだと、どこからか言い聞かされてでもいるようだった。
「ここは、海だった」

僕がいてもいなくても関係ないような声音で、彼女は言った。
「昔はそうだったけど。埋め立ててるから」なんだか言い訳みたいに言ってしまって、妙な気分になった。別に僕のせいじゃない。「もうずっと、前だけど」

初めて僕に気付いたように凪はこちらを見た。
「ずっと前」そう言うと、珍しく少し俯いて、うん、と小さく頷いた。「そう、聞いた」

聞いた。誰にだろう。父さんに聞いたのだろうか。
「だから、戻らないといけない」

戻る。どこにだろう。でも、そういうことを僕はいちいち訊く気にはなれなかった。そんなことを問い(ただ)していたら、多分、もう会えなくなるのだ。

煙るように夕暮れが滲み渡り、風が戻ってくると、僕は我に返った。

「若くなったのね」と、ある時彼女は言った。「もっと小さいソウジロウも見たかった。でも、もう戻れない」

僕は混乱していた。やっぱりこの人は少し変なのだ。
「凪、わけわかんない」

凪は、わかんない、ということが分からないような顔をして、首を揺らす。合いの手のように「海が」という声が零れた。そう言っていれば安心なのだろうか、と思うが、そんなふうでもない。むしろ、どうしていいか分からないような心許ない音だった。少しの間、耳を澄ませるようにひっそりと静まって、そして唐突に言った。
「子供が産めない」

聞き違いかと思って、何度も瞬きしてしまった。子供?
「ここでは」

何の話かと呆然としていると、彼女は見知らぬ場所を見渡すというふうに急に辺りを見回し始めた。
「ここは、海だった」

そうだけど。その視線を追ってもう一度首を巡らせ、広い干拓を見回して目を戻すと、凪の姿は見えなくなっていた。

ここは、海だった。

サワラは魚編に春、と書く。だから春が旬なのだと思われているけれど、そうじゃない。春に産卵のために薄い海へ上がってくるから、よく見かけるだけなんだと伯父さんは教えてくれた。それ以外の季節はもっと深い海に潜るのだそうだ。仕事だからということもあるけれど、伯父さんはやはり海のことに詳しく、色々教えてくれた。瀬戸内で産卵するので、よく獲れる。産卵にはここの海の温度があっているのだろう。でも、水温が上がってしまったら、もうこの海からは姿を消してしまうかもしれない。だから、獲れなくなる。

船の傍で道具を片付けながら、ぽいぽい言葉を放り出すように伯父さんは言った。
「聞いてはいたんだけどな」あまり実感がなかったのだという。「というか――。そう思いたくなかったっていうか」

サワラがいなくなる。産卵、できなくなる。

凪が言ったことがそれと重なって、僕は、黙り込んだ。「子供が産めない」と、彼女は言ったのだった。
「どした?」

黙りこんだ僕の顔を見て、伯父さんは言った。何となく誰にも言わないでいたけれど、その時、凪のことを話した。父さんに間違われたこと。何度も、ソウジロウと呼ぶこと。若くて、父さんを知っているはずがないこと。そして、急に子供が産めない、などと言ったこと。

伯父さんは黙って聞いていたけれど、僕が話終えて随分経ってから、ぽつんと言った。
「コウタロウの話はしてなかったか?」
「え?」
「してないならいいんだ」懐かしそうに言う。「凪だ。あいつもそう名付けてた。凪の時に会えるから」

僕はぽかんとしていたのだろう。そんな僕の頬を、魚臭い指でぴたぴたと叩いて、伯父さんは笑った。
「あれはな、幽霊じゃない。多分、人魚だ。海であったはずのところにぽんと(あらわ)れちまって、どうしていいか分かんなくなったんだ。その頃、ソウジロウと……俺に会ったんだ」

伯父さんが言うには、なんとかして海に帰ろうとしているのだと思い、二人は海辺へ連れて行ったのだという。でも、彼女は納得しなかった。ここではない、と言うのだと。もっと昔に戻れば、きっと帰れると、そう言って、それきりだったのだと。
「それなのに、未来へ来たのか」

覚えてないのね、という言葉が聞こえてきた。そうだろうか。僕は、覚えていなくてはならなかったのではないのか。
「母さんに、似てたろう?」

僕は黙って頷いた。

伯父さんは父さんのお兄さんだけど、結婚していなかった。田舎町だからよくお見合い話とかが持って来られるけど、大抵断っていた。「面倒だから」というのが理由だった。それでいいんだ、と小さい頃の僕はわけもなく思っていた。多分、結婚したらいなくなってしまう。自分たちと一緒には暮らせなくなると思っていたからだろう。伯父さんも僕を可愛がってくれていたから、そうなんだろうと思う。
「凪は、聡次郎を連れて行ったのだと思ってた」

僕は、覚えているのかもしれない。生まれ変わり、なんて言葉がどこかに引っかかっていた。父さんの記憶を、持っているのかもしれない。そんな感じがした。
「母さんはな、そりゃあ必死でお前を産んだんだよ。お前までなくしちゃ堪らない、って。なんか、必死でお参りとかもしてたな」

伯父さんは絡まった網を解きながら、懐かしそうに言った。山の上に小さい御宮がある。そこに通って祈願をしていたのだということだった。

「ああ、あそこね」と、母さんはうんうんと頷いた。「よくお参りしたのよ。でも、山の上だからねえ。けっこう急なのよ、坂が。なんで安産祈願なのにあんな急なとこにあるんだろ、て思ったよ。危ないじゃない、って」

でもまあ、妊婦にも適度な運動は必要だから丁度よかったのかもしれない、と母さんはからからと笑った。

聞いたことがないと思っていたが、急な坂、と言われて記憶の蓋が開いた。小さい頃に連れられて行ったことがある。山の中腹までは何度か友達と遊びに行ったこともあった。ただ、その上の御宮の方へは行かなかった。何しろ、安産の守り神だというから、そりゃあ、子供に用はない。次郎島で一番高い処だから、誰でも一度は登ってみるけれど、案外そう何度もは行かないものだ。

そこに、その御宮に行ってみたくなって、僕は山に登ってみた。なるほど、確かに急だった。ただ、勾配を和らげるように坂道は右に左にと曲がっていて、その曲がりにさしかかる度に、座るのに丁度いいような大きな岩や石、切り株などがあった。たまたまそこにあったのか、誰かが休みどころとして置いたのか。多分両方なのだろう。ここも太郎と同様、例の高貴なお方が〈お休み〉に寄った所だというから、そういったいわくがあるのかもしれなかった。ほぼ頂上、というそこへ辿り着いた時には息が上がっていた。休み休みでなければ、とても妊婦などに来させようとは思えない。

御宮は朽ちかけていて、おもちゃのような小さな祠の中にはぼろぼろの御札が見えていた。消えかけた文字で何か書かれてあって、「やす」が読めた。休み島のやすだろう、と思ったが、それは〈休〉ではなかった。〈安〉だ。そして〈産み〉だった。やすみ、ではなく、やす、うみ、なのか。

遠く、聞こえるはずもない波の音が響いた。

産んだのは誰なのか。何なのか。

もう、サワラは獲れなくなるのだ。サワラたちは、北の海へ行ってしまうのだろう。凪はソウジロウに会いたかったのだ。もっと、昔に。昔の海で。だからこの世の動きが止まる時間に、ふらりとやって来て、僕に会ってしまったのかもしれなかった。

凪、もしかしたら、僕は思い出すのかもしれない。父さんの顔で、伯父さんのように懐かしそうな顔をして、君を思い出すのかもしれない。

山の上からは次郎島を取り巻く海が一望できた。牡蠣(いかだ)が浮かぶ薄い色の海は穏やかで、何も変わらないように見える。真昼の海は凪いではいない。小さな波が陽を弾いてさんざめき遠目にも眩しく煌めいていた。

僕は、高校を出たら、漁師になることに決めた。(ぬる)んでいく海と、その先を見定めるために。

凪には、それっきり、会えなかった。

カバーデザイン:VGプラスデザイン部

化野夕陽「春の魚」はKaguya Planetの「気候危機」特集の掲載作品です。特集では気候危機にまつわる3編の短編小説を配信しています。また、「気候危機」にまつわるブックレビューやコラムを収録したマガジン『Kaguya Planet 「気候危機」特集』を刊行しています。

  • エラ・メンズィーズ「雨から離れて」
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化野夕陽

化野夕陽

舞台芸術を愛する物書き。阿瀬みちさんによる人魚アンソロジー『海界(うなさか)十二の海域とそのあわいにたゆたう』や、谷脇栗太さん企画編集のノンヒューマン歌唱アンソロジー『クジラ、コオロギ、人間以外』、井上彼方編『生物SFアンソロジー なまものの方舟』など、多数の同人誌に短編小説を寄稿している。近作は新潟にまつわるSF短編・掌編を集めた新潟SFアンソロジー『the power of N』。