蝸の角(下)
9,356字
時の流れは、白い駒が駆けるのを戸の隙間から覗くかのようであった。季節が移ろいゆく間に、黒三稜が沈魚落雁に出かけた数は十を超えた。二度怪我を負い、五度声を上げて泣いた。黒三稜の目から涙がこぼれるのは、いずれも大金を稼がんとする決意が揺らいだときであった。沈魚手になりさえすればたちまち富を得て、母や姉妹たちにまで楽をさせてやれるものと漠然と夢見ていた。だが、いざ身を投じてみると、沈魚落雁で一山当てるなど夢のまた夢であった。鱗葺きの屋根を叩く雨音が下宿の部屋に響く中、黒三稜は煩悶のあまり溜め息ばかりついていたが、気を取り直すべく久々に古い博物誌を開いてみることにした。しかしいくら頁を繰っても、目に浮かぶのは遥かなる地ではなく、先だっての海ばかりであった。
海で見た人夫たちは、一人残らず宝探しの手練れであった。聞くところでは、その大半が引退した沈魚手だという。だが、沈みゆく鯤から金になる部位だけを毟り取ることにかけては、いかなる者も敵わない。どの部位の鱗がもっとも高く売れるかを知り、どこを裂けば胃石が溢れ出るかも心得ていた。さらに甚だしきは、その刀捌きである。黒三稜が柔らかい鱗を一枚剥がそうと唸り声を上げている間に、人夫たちは鱗と鱗の間、筋と筋の間、骨と骨の間に鮮やかに刃を遊ばせ、硬い鱗を何枚も手にしている。その速さは、まるで虚空に剣を振るうかのようであった。そのため黒三稜のような青二才は、せいぜい轍魚と格闘した挙げ句、値打ちのない鱗を数枚と、小さな胃石をいくつか持ち帰るのが関の山であった。
それでも、何かしら手にして無事戻れるならまだ運がよかった。沈魚落雁に出て酷い目に遭うのは、市場で髭面に出くわすより容易いと言うくらいである。黒三稜は、轍魚の触手に掴まれて腕の骨が外れたこともあれば、筒の胃石が尽きて鱗の上へ頭から墜ちたこともあった。素人の失敗といえばそれまでだったが、熟練の沈魚手や人夫たちですら、ときには自分より酷い目に遭う。その事実が、黒三稜をいっそう怯えさせた。
まだ沈まないと無理に胃石を掘り出そうとして不帰の客となった人夫は、誰よりも年嵩で経験も豊かな者であった。黒三稜によく目をかけてくれた髪を編んだ沈魚手は、硬い鱗ほど轍魚がいないと豪語していたが、触手を首に巻きつけられて絶命した。かくして北の海から戻る船には必ず空席があった。村の誰よりも鯤に詳しい者ですら、実のところ何も知らぬに等しいのであった。
(万人が聖賢と仰ぐ凌葉でさえ知り得ぬことがあったのだから、いかんともしがたい。海は深く鯤は大きく、人の知らぬことの実に多いものだな!)
読みさしの博物誌をぱたんと閉じ、黒三稜は心の中で嘆息した。そしてそのまま床に横たわり、ぼんやりと親友・鳳眼藍のことを思い浮かべた。鳳眼藍もつねに黒三稜とともに沈魚落雁に出るが、黒三稜のように大怪我を負ったことはなく、涙を見せることも決してせずにいつも溌剌と笑っていた。それは、他の者のように鱗や胃石を持ち帰ることにまるで頓着しないためであった。鳳眼藍の関心は、昔も今もただ屠竜之技のみにある。海に出ればきまって最も大きな鯤に降り立ち、その形を観察して胃石の嚢に穴を穿つ最適の位置と角度を見極め、そこへ最も速く飛んでゆける経路を弾き出す。そのたびに、かつては狂人の夢想にすぎなかった屠竜之技も、次第に実質的かつ実用的な形を帯びていった。
「沈魚落雁をこの手でやってみて、はじめて沢瀉老人の算術が穴だらけとわかったよ。概念はもっともらしいが、現実に即していなかったのだ。とんでもなく膨らんだ数字を正して、ようやくその真価がはっきり見えたようだ。しかし、大きな鯤を沈める方法を手にしたとて、竜を仕留めるのに牛を屠る刀ではたちまち事を仕損じる。つまり、屠竜之技を完成させるには、竜を仕留める刀を拵えねばならない。君もそう思わないか?」
鳳眼藍が自分を捕まえては成果を誇らしげに語るたび、その瞳の輝きに堪えかねてもじもじと目を逸らす黒三稜であった。だが、鳳眼藍の輝く瞳と豪放な態度、胸に抱いた志に向かって突き進む一途さは、その姿が視界から消えてからもずっと脳裡にちらついて黒三稜の胸を揺さぶった。鱗をもう少し手早く剥がすにはどうすればよいか、といった程度の悩みしか持たぬ自分と、比べずにはいられなかった。
むろん、黒三稜にとって鱗剥ぎは重要なことであった。鳳眼藍と語った夜は寝床で恥ずかしさに身悶えしつつも、結局は鱗を剥ぐ方法のことを考えながら眠りに落ちた。だが、夢の中で黒三稜はしばしば鳳眼藍となり、いつか親友が完成させるであろう屠竜之技がいかなるものかを、先んじてわが身で思い描くのであった。
*
「黒三稜、起きろ! ついに完成したぞ! まず最初に君に見せなければ!」
まだ夜の明けきらぬ頃、騒々しい大声とともに押しかけてきた鳳眼藍に引きずられ、黒三稜は下宿を出た。はたしていかに素晴らしいものが待ち構えているのか、おぼろげにでも見当をつけようとした。その正体は「竜を仕留める刀」に違いない。沢瀉老人の算術を正してひと月過ぎてもなお、鳳眼藍がひたすら屠竜之技に用いる新たな装備の設計に没頭し続けていることを知っていたためである。だが、それがいったいどのような姿か、いかに巨大な鯤でも沈めるにはどのような構造が必要か、と考えを巡らせたところで、黒三稜の頭には何も浮かばなかった。とにかく実に大したものには違いなかろう、ということ以外には。
鳳眼藍が黒三稜を連れていった先は、浮萍の鍛冶場の裏手であった。全身に色とりどりの刺青を纏った鍛冶師の浮萍は、村に足を踏み入れたその日からずっと世話になっている人物である。それゆえ黒三稜とも顔馴染みで、むろんその腕前がいかほどかも重々承知していた。初日に誂えた装備が今なお新品同然で、これまで胃石の筒に穴が空いたり銛がぽきりと折れて困ったりしたことがないのは、ひとえに浮萍が丹精を込めた賜物であった。なにより浮萍は、いわゆる職人にありがちな偏屈さから無闇に客を叱りつけることも、気まぐれに仕事を投げ出すこともなく、黒三稜にはこの上なく付き合いやすかった。色とりどりの鱗や作りかけの装備が山と積まれた鍛冶場の裏庭で、鍛冶師は手を振って快く二人を迎えてくれた。
「どうぞ、こちらへ! 店が手狭なもので、失礼を承知でこちらでお見せしようと思いましてね。なにせ注文の品が妙な代物で、棚に収まらないんだから仕方がない」
「妙な、とはいったい何です。鮫のように革を食い破る刀でも拵えたんですか、それとも水中を泳ぐ船でも拵えたんですか?」
「黒三稜、君もずいぶん気が早いな! あと少しでも待たされたら、勝手に転んでしまいそうだ。鍛冶師殿、そこで何をしている。早く品物を見せてくれないか!」
鳳眼藍に急かされた浮萍が、庭の片隅に雑多に積まれた物を覆った布を取り払う。はたして、黒三稜が生まれてこの方見たことのない奇怪な装置がそこにあった。形は火砲に似ているが、ところどころ漆塗りの木と鉄板で複雑に補強され、一目で並々ならぬ堅牢さが見て取れる。片方の端には金属の筒がついており、反対の端からは銛が七本突き出ている。革紐がついているところを見るに背に担ぐ物のようでもあるが、青銅の把手がついていることから手で握って使う物のようにも見える。しかし、このような装備をいったいどこでどう使うのか、黒三稜にはとうてい見当もつかない。聞いたところ、これを拵えた鍛冶師当人の所感もさして変わらぬようであった。
「作ってくれと言うのでひとまず設計のとおりに作りましたがね、いったいこれで何をなさるおつもりで? 大きな道具には大きな志が宿るもの、まさかこれで歯を掃除しようというわけではありますまい。井の中の蛙大海を知らずと言えど、丹精込めて作った品はどれも我が子同然。どれ、こっそり耳打ちくらいはしてくれませぬか」
「天下にまことの秘密などないものを、耳打ちするもしないもあるものか! さあ、快く話すから二人とも聞くがいい。こいつは、簡単に言ってしまえば胃石の筒に銛を七本差した代物だ。担いで紐を引けば飛び上がれるところも胃石の筒と変わらない。しかし、銛の側が下になるように握って紐を放すと、胃石の爆ぜる力が逆を向いて銛のひとつを勢いよく撃ち込むようになっている。さらに巧妙なのは、銛を撃つときの反動で次の銛がおのずと定位置に掛かるようにしてある点だ。つまり、紐を七度放せば銛が七本続けざまに突き刺さるというわけだ」
「ほう、聞いても私にはいまひとつわからないが、驚くべきものであるには違いない。なるほど、これならどんなに巨大な鯤でも沈められそうだ。ほんとうにできるのか、鳳眼藍?」
黒三稜の問いに、鳳眼藍が胸をぐっと張って宣言する。
「いかに厚い革も豆腐のごとく貫き、嚢の膨れきらぬうちに大きな穴を七つも素早く穿つのだ。これなら、今まで浮いてきた中で最も大きい鯤の、実に七倍もの奴まで易々と沈められるぞ! そのくらいでようやく、屠竜之技を完成させたと胸を張れるのではないか? 七つの穴を穿ち竜を屠る、今日からこの品を〈屠竜七竅〉と呼ぶのがふさわしい!」
鳳眼藍の瞳はかつてないほど輝き、下宿を出た瞬間から黒三稜がひそかに期待していたとおりであった。凡人には想像すらおよばぬ壮大な夢を何年も抱き続け、ついにその手で掴めるところまで積み上げた者が、燦然と輝かぬはずがあろうか。黒三稜は、己にそのような光がないことを口惜しく思ったが、決して親友の光を妬んだり貶めたりはしなかった。ただ鳳眼藍の夢が叶ったことをわがことのように喜び、大したものだと褒め称えた。だが、そうしながらも黒三稜は、ふいに自分が心の奥底でずっと独りごちていたことに気がつき、その理由を訝しく思うのであった。
(最も大きな鯤の七倍、実に七倍か……)
*
ついに完成に至ったものの、屠竜七竅はしばらくの間、鍛冶場の蔵の中でひっそりと眠っていた。天下が穏やかなれば刀は錆び弓弦は緩む、とはまさにこのことである。ましてや古の聖賢たちの言うように、屠竜之技とはもとより無用を旨とするものであるから、なおのことであった。しかし、静寂の中で刻一刻とそのときが迫りつつあることを、黒三稜もはっきりと感じ取っていた。
沈魚落雁を始めたばかりの頃は、鯤一匹につき沈魚手が二、三人も取りつけば沈めるに事足りた。だが、近頃は三人が銛を撃ち終えても止まらず、慌ててもう一人が鯤に上ることもしばしば。そのような鯤は皮も分厚く、銛が曲がるほど押し込んでようやく貫けるため、苦労は並々ならぬものである。くたくたになって陸に戻った翌日には、鳳眼藍は必ず蔵へ足を運んで屠竜七竅に油を塗り直し、黒三稜もそのたびに手を貸した。その心意気は、さながら竜を呼ぶ祭祀のごとくであった。
祈りが天に届いたか、はたまた天地万物の摂理によるものか。ある初冬の朝、二人はついに待ちに待った知らせを耳にし、一目散に表へ飛び出した。丸木舟や灯台から絶え間なく吹き鳴らされる喇叭の音に、村じゅうがすでに大騒ぎであった。あたふたと店の戸に閂をかけていた麺屋の者が、黒三稜を見ていたく案じた面持ちで言う。
「逃げてください、逃げて。今まで見たこともない大きな鯤が上がってきたんです。津波が押し寄せて鵬が飛んできたら、この村はひとたまりもありませんよ」
「沈魚手が逃げたら、誰が鵬災を防ぐのですか。いや、それよりこの騒ぎは、いったいどれほど大きな鯤が出たというのですか?」
「二、三倍なんてもんじゃありません。これまでに出たいちばん大きな奴の、ゆうに七倍はあるっていうんですから。沈魚手が何人か船を出すそうですが、いったいどうやってあんな鯤を沈めるのやら」
麺屋の者のその言葉を聞くが早いか、黒三稜と鳳眼藍は港へ向かって駆け出した。道中の鍛冶場の前には、すでに浮萍が屠竜七竅を携えて待ち構えていた。二人してその大掛かりな装備を背負って走ると、避難する人々がみな一度ずつちらちら目を向けた。港に到着し、一隻しかない船に乗り込んだときも同様であった。出航を前にしてもなお帆船には空席が目立ち、ひと握りもいない沈魚手たちは、鳳眼藍の身につけている物が何なのかについて口々にささやき合った。そんなことは意に介さず、鳳眼藍は堂々と黒三稜の向かいに腰を下ろし、笑って言った。
「緊張することなど何もない。二度とお目にかかれないものを見せてやるから、どうか目は大きく開けていてくれ!」
しかし、沖に出た帆船の上で、巨大な鯤の姿をはじめて目にした瞬間、黒三稜はどうにも緊張せずにはいられなかった。先を行く船がわざわざ警告するまでもなく、鯤はすでに水平線を覆い隠すようにでんと居座っていた。その姿、さながら海の真ん中に聳える丸い泰山のごとし。体をびっしり覆った金属の鱗が鳴る音は、百万の大軍が槍や刀をぶつけ合って戦っているかのようである。何よりも恐ろしいのは、それが予想よりも早く鵬へと変わりつつあるということだ。体が大きいほど胃石の嚢も大きくなるせいか、水面から浮き上がる勢いが尋常ではない。舵手が船を止めたときには、すでに耳目口鼻のない塊全体が海面から飛び出そうとしていた。
まことに目もくらむばかりの光景に、沈魚手たちは船縁から飛び降りるのを躊躇した。鵬と化す寸前の鯤に迂闊に上り、降りる機を逸してしまえば命を落とすに違いないと思われたのだ。今すぐ舵を切って村へ引き返そうとまで言い出す者もいたが、鳳眼藍は違った。黒三稜が見守る中、一片の怯えもなく立ち上がると海に身を投じ、屠竜七竅からもくもくと噴き出した蒸気と轟音があとに続いた。重厚な鉄壁の頂に向かって、鳳眼藍と屠竜七竅は遥か高く飛び立った。黒三稜の心臓が三度打つより先に、その姿は誰の目にも見えなくなった。そして四つめの鼓動の瞬間、黒三稜は己の体が自ずと立ち上がっていることに気づいた。
波から跳ねる飛沫が、氷の欠片のように胸にばらばらと打ちつける。紐を引いた途端に吹きつける激しい向かい風に、肌が焼け焦げるようであった。だが、黒三稜は止まることも狼狽えることもなく、断固として方向を定めて速度を上げた。鱗の間から千条の滝のごとく迸る海水の流れに逆らい、半ば閉じた目の隙間から差す陽のかすかな光を追う。下方より轟く激しい雨音から察するに、鯤の身はすでに海から完全に離れたようである。しかし、見当もつかない場所からかすかに聞こえる爆発音が、それよりも速く黒三稜を天へと引き上げた。黒雲より高く、虚空の別天地に至るほどに──それが、仙人のように遊び暮らすためではなかったにせよ。
*
「鳳眼藍! 鳳眼藍、どこだ! 私も来たぞ! 私も、この黒三稜もここに……」
いよいよ紐を放して鯤の頂に足をついた瞬間、奇しくも黒三稜は、己の目に映る光景が絵に描いた仙界とさして変わらないと感じた。金色の桃や竪琴を弾く兎こそいないものの、仙人はたしかに霧を分けて舞っていたためである。少し歩こうとするだけですぐに息が上がる冷たい風の中、長剣を掲げた鳳眼藍は優雅に身を翻して轍魚の群れを斬り払い、背負っていた屠竜七竅を地に突き立てると銛を撃ち放った。膨れて張り詰めていた鯤の嚢がひとつ、たちまち蒸気を吐いて干し棗のごとく萎んでゆく。
続いて雷のように轟いたのは、まさに黒三稜が昇るさなかに聞いたあの爆音、すなわち鳳眼藍が屠竜七竅を担ぎ直して飛び立つ音であった。轍魚が伸ばす触手をかわして軽やかに舞い上がった鳳眼藍は、別の嚢のそばへ着地してふたたび刀を振るい、銛を打ち込む。鯤の昇天は依然として止まなかったが、その速度は銛を一本打つたびにわずかながら鈍ってゆくようである。ひとつ、そしてまたひとつ雷鳴が轟き、刃がぎらりと光る──稲妻が人ならばかくのごとくであろう。鳳眼藍が請け合うとおり、実に二度とない見物であった。黒三稜は、ただただその場で光景を余すところなく目に焼きつけようとした。ひとつ、そしてまたひとつ銛を放ち、屠竜七竅に最後の一本を残した鳳眼藍が、ふたたび跳躍するそのときまで。
しかし、太陽に届かんばかりに力強く跳び上がった鳳眼藍が、最後の的のそばに降り立ったとき、どうしたことかその脚は体を支えきれずがくがく震えるばかりであった。握る力も抜けたのか、剣が病にかかった草の葉のようにだらりと垂れた。仙人を思わせた身のこなしは影も形もなく、ぼうっと立って首を左右に振ることしばし、やがて霧の中にへなへなと座り込んでしまったではないか。それを目にした黒三稜もつられて肝が冷えた。息が切れたのか、それとも筋骨が衰えたのか。轍魚どもがもぞもぞと頭をもたげているというのに、指一本動かさず目も向けぬとは何事か! 地団駄を踏んでいた黒三稜は、やがて腹を据えて刀を抜いた。筒に残った胃石が、黒三稜の身を砲弾のように撃ち出す。
「五臓六腑も持たぬ虫けらどもめ! 私の親友を手にかけようというなら、どれ、まずこの私を倒してみろ!」
飛ぶ勢いにまかせて二匹の轍魚を斬り裂いたのち、黒三稜はごろごろ転がるようにして地に降りた。すかさず体を起こして剣を振るえば触手が千切れて四散し、ふたたび胃石に火を入れて突進すれば残りの轍魚も秋風に舞う落葉のごとく斬られてゆく。そこに仙人の優雅さなど微塵もなかったが、鬼気迫る目つきと身のこなしは実に勇将さながらであった。そうして縦横無尽に飛び回り、轍魚の群れを一掃すると、鳳眼藍は幸い大きな怪我もなく息をしているようであった。だが、いまだ座り込んだまま動かぬことに変わりはない。刹那の逡巡ののち、黒三稜はその強張った背から屠竜七竅を外して手に取った。
使い方はよく聞いて心得ている。だが、今は手当たり次第に銛を打ち込めばよい状況ではない。手間取るうちに、もはや鯤は空高く昇りつつある。胃石の嚢が裂けるほどの大穴を穿たなければ、奴は鰭を広げて冬風に身を任せ、たちまち空飛ぶ獣と化してしまう。己の放つ一本の銛に大勢の命がかかっていることを悟り、黒三稜は目をかたく閉じた。凌葉による鯤の体に関する記述の一節一節が、頭の中を目まぐるしく駆けめぐる。手練れの人夫たちの、刃を数回遊ばせるだけで鱗を剥がし取る姿もあわせて浮かぶ。やがて革の最も脆い部分を貫く折、その二つの理が絶妙に相通ずるのを覚えたとき、黒三稜はすでに屠竜七竅の紐を放していた。
次の刹那、穴を裂いて噴き出した蒸気の勢いは、かつて見たこともない凄まじさであった。素早く身を翻しながら黒三稜は成功を悟った。ほどなく風向きが変わる。それは鯤が上昇を止め、徐々に沈み始めたことを意味していた。そこでようやく緊張を解き、屠竜七竅を手放した黒三稜の足は、鳳眼藍のほうへと向かう。体を丸め、地面を見つめてわなわな震えるばかりの哀れな親友に、吉報を真っ先に伝えたかったのである。
「やったぞ、鳳眼藍。屠竜之技は成功したんだ。さあ、立ち上がってこの光景を見……」
「見てはならん!」
鳳眼藍が突然叫び、黒三稜の襟首を掴んで引く。その声と仕草は、まるで井戸に落ちかけた幼子を咄嗟に引っ掴むかのようである。恐ろしい力で引き寄せようとする鳳眼藍に、訝しく思った黒三稜が尋ねる。
「何を見てはならないんだ。これほど大きな鯤を自力で沈めたというのに、いったい何をそんなに恐れている?」
「黒三稜、君は知ってはならん。君には断じて知らせるわけにいかん。ほら、突っ立っていないでもっとこっちへ来い。なあ、私のすぐそばにいてくれよ」
嗚咽する親友の様子に気後れした黒三稜は、首を傾げつつもその前に屈み込む。鳳眼藍は黒三稜の頭を胸にしかと捕まえて顔を向けさせまいとし、先ほどのようにひたすら震えるばかり。大きく見開かれた目にはもはや光が一切なく、死んだ魚の目も同然であった。片や唇の間からは、同じ呟きが絶えず繰り返し漏れている。
「下を見てはならん、海を見下ろしてはならん。沢瀉の翁が目にしたものを、君は決して見てはならん……」
鳳眼藍の言わんとすることが、黒三稜にはわかるはずもなかった。屠竜之技が通じて巨大な鯤が順調に沈みつつある今、海を見下ろしたところでいったい何が変わるというのか? いくら頭を巡らしてもまるで見当がつかず、やがて黒三稜は考えるのをやめ、ただ鳳眼藍をしかと抱いて鯤が落ちきるまで共に座っていることにした。それだけは自分に間違いなくできることだとわかっていたのである。親友の体を体で支えながら俯くと、聞こえるのは呟きばかり、見えるのは足元ばかりであった。いかにも大きな鯤で、鱗一枚が茣蓙ほどもある。黒三稜の目に映る世界は、黒ずみ黄ばんだ鱗のざらつきがどこまでも広がるばかりであった。
ただし、その鱗の上でくねくねのたうつ灰色の塊がひとつ。見れば黒三稜が斬り落とした轍魚の触手の切れ端で、まだ生気が尽きていないようであった。切れ端には拳ほどの藤壺がひとつ付いており、鱗に触れると小さくかちりと音がする。そのたびに藤壺の端に奇妙なうねりが見え、黒三稜の視線は不意にそこへ向いた。よくよく見れば、動いているのは藤壺ではなく、その開口部に取りついて暮らす小指の爪ほどの蝸であった。殻は透き通り、身は乳のように白く霞み、一見白濁した水滴が付いているようにしか見えず、黒三稜は不思議で目が離せなかった。
だがいっそう奇妙なのは、その蝸の角である。丸い頭の上に突き出た二本の角の先には、砂粒をこねたような塊がひとつずつ付いている。角がすっと引っ込むとさらさら崩れ、伸び上がればいつの間にかまた寄り集まっているではないか。黒三稜は、その塊の正体がきわめて小さな蟹に似た蟲の群れであるとすぐに気づいた。すなわち、一匹一匹が塵ほど小さく、まともに目にも映らぬ蟲どもが、鯤の鱗の隙間に棲む轍魚の体に付いた藤壺の開口部に巣食う蝸の角の上──そこが雲の中か海の上かも知らぬまま──ひっきりなしに寄り集まってはまた散っているのであった。そのさまを黒三稜は取り憑かれたように凝視し続けていたが、俄かに悟るところあって心の内で静かに独りごちた。
(最も大きな鯤の七倍か。あの小さな蝸でさえ、その角に取りつく蟹の七倍よりはるかに大きかろうに、たかが七倍……)
それから黒三稜は、逃げるかのごとく海面に昇る鯤の体が日増しに大きくなる理由を考えた。そして、沢瀉の翁が本来いかなる大きさの鯤を沈めようと屠竜之技を算じ始めたのかを思う。今や遥か彼方に遠ざかったあの空から見下ろした刹那、沢瀉の翁は、そして鳳眼藍は、いったい何を目にしてしまったのか。それを直に見たことのない黒三稜は、心の内に思い描くことすら叶わない。だが明晰な黒三稜は、これだけは十分に想像できた──蝸の角ではなくそれを直に見ていたならば、果たしてどうなっていたか。
いよいよ鯤が北の海に沈むと、黒三稜がふたたび尋ねた。
「鳳眼藍、あれはいったいどれほど大きかった?」
答えはない。鳳眼藍はただ海を、遥か遠くまで伸びる水平線をじっと見つめるばかりであった。
(了)
告知
先行公開日:2026年7月4日 一般公開日:2026年8月1日
カバーデザイン:ファン・モガ
本作は、作家や翻訳者たちが、韓国SFの新しい風を紹介する企画「ニュー韓SFプロジェクト」の一環として翻訳された作品です。
ニュー韓SFプロジェクト
企画:ファン・モガ
翻訳・編集:廣岡孝弥、かかり真魚
構成・編集:正井
協力:VGプラス
イ
古い科学全集に包まれ、幼少期を過ごした。自分も作ってみようと思い、裏面紙に殴り書いた本が初の創作物。長編小説としては、サイバーパンク捜査劇『エラーが発生しました(오류가 발생했습니다)』と生態学スリラー『密輸:リースト・コンサーン(밀수: 리스트 컨선)』があり、短編集としては「世界はこうして終わる(세상은 이렇게 끝난다)」「証明された事実(증명된 사실)」「希薄な幻覚(희박한 환각)」など12作を収録した『証明された事実』を発表している。ほかにも多数のアンソロジーと雑誌に短編を掲載している。生物学の驚異や生物としての人間が持つ脆弱さと研究者の厳しい人生などをよくテーマにし、人間と科学が失敗したり挫折しながら危うい境界線へ挑む物語をよく書いている。『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、SF作家の林譲治さんと交換日記を行った。
廣廣岡孝弥翻訳者
廣岡孝弥翻訳者
1981年富山県生まれ。『トトノイ人』をはじめ、リトルプレスの制作やサポート業に従事。2021年第5回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」にて『モーメント・アーケード』で最優秀賞を受賞。ファン・モガ『生まれつきの時間』等の翻訳を手がける。
日本と韓国のSF作家による『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、韓国の作家の交換日記の翻訳を手がける。