ルナ
20,133字
わたしはイオと並んで立ち、準備運動をした。船外活動服を着る前と後に、フヨ・ハルマン(*1)の号令に合わせてみんなで準備運動をする。それが〈三無号〉(*2)の規則だ。分厚い船外活動服に皺を寄せてリズミカルに腰をひねっていると、おのずと窓の外に広がる宇宙に目が行く。無数の衛星と、その遥か彼方に見える星の群れ。衛星は太陽と星の光を受けて、ほのかに美しく輝いていた。腰についた、船外活動服と同じく真っ白なワイヤーが、わたしの動きに合わせて踊る。ワイヤーの名は〈命綱〉だ。
*1 ハルマン:年配の女性を呼ぶ際の「ハルモニ(おばあさん)」の済州方言。
*2 三無号:済州島は泥棒・門・乞食の三つがない「三無島」とも呼ばれる。
準備運動を終えたわたしたちは、お互いの命綱を点検した。ごわついたワイヤーを力いっぱい引っぱって張力を確かめ、あちこちねじったり輪っかにしてみたりして損傷がないかチェックした。イオが頭を傾けて、自分のヘルメットをわたしのヘルメットにくっつけた。そうすれば、通信機の機械音ではなく肉声で話せるのだ。
──準備できた?
──うん。今日もあれやるんだから、転んだりしないでよ。
──一度しくじったくらいで、ずいぶんしつこく言うね。
わたしたちはマンサリとビッチャン(*3)を手に、甲板の端へ歩きながらぺちゃくちゃ喋った。準備を終えたハルマンたちも、ゆっくりと集まってきていた。潜水は必ず二人一組で、決してひとりで行かないこと。これが三無号の第二規則だ。みんな規則に従って、二人ずつ並んで隊列を組む。その中にユロとパンの姿を見つけて、手を振った。
*3 マンサリとビッチャン:マンサリは採集したものを入れる網袋で、ビッチャンはアワビなどを岩から外す鉄製のノミ。
──準備ができた順に、飛び込め!
フヨ・ハルマンの勇ましい声が聞こえるやいなや、わたしたちは手をつないで駆け出す。わたしは無線のスイッチを入れて叫ぶ。
──一番乗り、行きます!
甲板の端まで一息に走り、視界を埋めつくす衛星群へ向かって跳び上がる。三無号の人工重力の外へ出ると、体が軽くなって心地よい浮遊感に包まれた。二人通信で冗談を言い合いながら一番近くの衛星までひとっ飛びして、ビッチャンを打ち込んで着地する。振り返ると、命綱を伸ばして流星雨のように飛んでいく海女たちの姿が見えた。それは、わたしが二番目に好きな光景だ。
海女の同期のわたしとイオ、ユロとパンの命綱は三十メートルで、三無号では二番目に短い。一番短いのは、船を修理するときを除けば外へ出ないパイロット・ハルバン(*4)だ。最上級のハルマンたちは三百メートル、場合によってはもっと長くなる。しかし、まだ二十歳そこそこの下級海女のわたしたちは、三十メートルを超えて進むことを許されていない。ハルマンの潜水を正面から見られるのは、最初に飛び込む瞬間だけだ。
*4 ハルバン:年配の男性を呼ぶ際の「ハラボジ(おじいさん)」の済州方言。
ハルマンたちは、まず着地するとわたしたちの何倍も速く衛星をかき分けて進む。わたしは口をあんぐりさせてその姿を見つめては、自動除湿装置の作動信号の音でようやく我に返るのだった。
──どうせ衛星群より先には行けないんだから、同じことじゃない?
イオにため息混じりに諭された。でも三十メートルと三百メートルは違う。ハルマンたちは頑として認めないけれど、三百メートルまで進めば、衛星群の彼方の星やほかの惑星が見えるかもしれない。わたしの一番好きな光景の座は、そのとき目にするもののために空けてある。
先を行くハルマンたちの姿を見て、できるかぎりついていこうと無理をしていた時期もある。しかし、命綱の長さを忘れて衛星をいくつも越えて泳いでいると、あるとき腰にずしりと衝撃が伝わって、何もない宇宙空間で止まって終わりだ。ついてきたイオがわたしの酸素を節約するため、ビッチャンで衛星に体を固定したまま命綱を引き寄せた。
そんなことがあるたびに、フヨ・ハルマンにきつく叱られた。二人一組を守れというのだ。でも、それが口実にすぎないのをわたしは知っている。わたしだって、ハルマンたちと同じくらい速く潜水できる。フヨ・ハルマンについていくとき、わたしは一度も遅れたことがない。二人一組が理由なら、わたしと他のハルマンを組ませればいい。それなのに、命綱を長くしてほしいと頼んでも、フヨ・ハルマンはこう言うだけだった。
──進むよりも大事なのは、戻ってくることだ。
ハルマンは、第一規則を肝に銘じろと言ってため息をついた。
海女の友であり、限界でもあるのが息だ。船外活動服ひとつに入る酸素は、最大で百二十分間呼吸できる量になる。一見すると十分に思えるが、その酸素が呼吸だけに使われるわけではないのが問題だ。宇宙空間で思いどおりに動くには、酸素を噴き出して推進力を得なければならない。腕と肩、太腿についた酸素推進器で方向を定め、足りない距離を埋める。
毎日潜水に出るとは言っても、衛星群には常に予期せぬ要素があって、酸素の管理は容易ではない。ハルマンたちでさえ、酸素が切れて息を止めたまま戻ることがよくある。さらに、衛星がぎっしり密集しているため、潜水は入るときより出るときのほうが厄介だ。非常時には命綱を引っぱって推進力を補うこともできるが、それでも衛星をすべて避けるのは不可能だ。深くまで入り込んで閉じ込められたら、一巻の終わりだ。だから上級の海女たちは、呼吸と推進の間の綱渡りで冷酷に推進を選びながら切り抜ける。戻ってくるとヘルメットとマンサリを放り投げ、こらえていた息を大きく吐く。喉の奥から、生存を知らせる音が鳴る。
ピューイ、ピューイ。
それを〈磯笛〉と呼ぶ。
三十メートルなら、酸素の管理を誤って使い切っても息を止めて戻ってこられる。だが、どんなに飛び抜けた才能があっても、百メートルを超える距離を酸素なしで戻るのは不可能だ。わたしたちが二十歳になった年、フヨ・ハルマンはみんなを集めて、潜水の危険性についてひとしきり説明してからそう結論づけた。もう大人なのになぜ下級海女のままなのか、わたしが問い詰めた結果だった。フヨ・ハルマンは、そんなふうに言えば同期が勝手にわたしを止めてくれると考えたらしく、その計算はかなり当たっていた。イオは張り詰めた顔になり、ユロはハルマンの言葉をしきりにメモし、パンはユロのメモを盗み見た。わたしは手を挙げた。
──でも、わたしが探しているものは三十メートルの範囲にはないんです。
わたしはビッチャンで衛星の表面を慎重に削り取っていた。それは青みを帯びたフォスフィライトだった。フォスフィライトは硬度も強度も低く、慎重に掘り出さなければならない。性に合わないことを十分も続けていると退屈になり、わたしはわざとフォスフィライトのなさそうな場所ばかりを選んで掘りはじめた。何か悩みでもあるの、とイオが尋ねたのは、あるときからわたしのマンサリにちっとも獲物が入らなくなったのを見たからだろう。わたしは、どう答えたものかと考えながらビッチャンを動かした。イオは採集量に敏感だ。正確には、採集量のことでパンとユロにからかわれるのを嫌っていた。何か光るものがビッチャンの先に引っかかった。フォスフィライトだ。いかにも、三百メートル進んでもフォスフィライトしか出ないという〈フォスフィライト・ライン〉らしかった。あぁ、もう。わたしはビッチャンを腰に差して、衛星に寝そべった。
イオは巨大なピラティスボールのような衛星に腰かけて、ぷかぷか浮かぶ機械の塊をひとつずつ手にとって調べていた。かつて衛星群と衝突して破壊されたという、人工衛星の残骸だ。うまく分解すれば、フォスフィライトよりも希少な金属や部品が手に入る。手先の器用なイオは、人工衛星の残骸を調べているときに何度か大当たりを引いたことがある。それ以来、見かけると手が伸びるようになったらしい。
──そろそろ交代しよう。
わたしは、マンサリにフォスフィライトを慎重に押し込みながら返事をした。潜水を始めてもう九十分、イオの番を最後にしてそろそろ帰る時間だ。退屈な採集から解放された記念に衛星を蹴って浮かび、ストレッチをしながらあたりを見回す。衛星は灰色に輝き、あちこちに埋まった鉱物が彩りを添えていた。衛星の彼方には、青い星が布団のように敷かれていた。
それなりに綺麗ではあるけど、いつも見ている同じような風景でしかない。三十メートルの範囲には、目新しいことなどまるでない。この二年で経験した一番の驚きが、蠢く銀褐色の石ころを見つけたことなのだから、もう何も言えない。わたしたちは不思議な石ころを拾って興奮していた。でもマニョン・ハルマンは、それを見るなり「石ころに電気部品がくっついてでたらめに動いてるだけだ」と断言した。そしてこれ見よがしに石ころを削って、内側のあちこちに絡んだ電線とモーターを見せつけた。その日の夜、わたしたちは生きるとは何だろうと考え込んだ。
そろそろ帰ろう、とイオに無線で言おうとしたとき、何かきらりと光るものが目に入った。衛星のかすかな光とは違う、鮮やかな赤い光だった。
イオが帰らなきゃと無線を入れてきたけど、わたしは軽く無視して光のほうへ近づいた。小さな衛星をいくつか取り除けて視界を確保すると、そこには人がひとり漂流していた。わたしたちと違って琥珀色の宇宙服を着たその人は、気を失っているようだった。難破した痕跡なのか、周囲には機械部品の塊が飛び回っていた。
──誰かいる!
わたしはそう叫んで、酸素を噴射して前へ進んだ。[酸素残量10%]というアラートが、左腕についたディスプレイ上で点滅しはじめる。ぎりぎりの量だったが、わたしは無視して琥珀色の宇宙服めがけて飛んだ。もう少し手を伸ばせば届く距離だと思った瞬間、骨盤に鈍い衝撃を覚えた。それ以上は前へ進めなかった。三十メートル。命綱に引っかかったのだ。
──帰ろうってば!
イオが無線でもう一度わたしを呼んだ。でも、目の前で危険に直面している人をそのまま置いて帰るわけにはいかなかった。こっちに来て手を貸して、と叫びながら、わたしは琥珀色の宇宙服に向かってホメンイ(*5)を伸ばした。届かない。腰に下げていたマンサリを振り回す。採集していた鉱石がマンサリからこぼれ、ビッチャンで叩いた衛星の表面のように飛び散る。しかし、そのマンサリも届かなかった。
*5 ホメンイ:サザエやタコなどを獲る際に使用する、鎌に似た道具。
いつのまにかそばに来ていたイオは、状況を悟って無言でわたしの肩をつかんだ。イオの手は震えていた。浮遊する鉱石と、初めて目にする琥珀色の宇宙服。イオは馬鹿ではない。
──無線を入れよう。誰か助けてくれるはず。
──潜水中のハルマンは、みんな遠くにいるでしょ。三無号からだと、いくら急いでも十五分はかかるし。
──でも、どうにもできないでしょ。
いや、どうにかできる。わたしはイオの肩をつかんで頭を突き合わせた。
──あの人をよく見て。少しずつ離れて行ってる。これは非常事態って言えるよね?
琥珀色の宇宙服は、さっきまでマンサリがぎりぎり届かない距離だったのに、もはやマンサリを二つつなげても届きそうにないほど離れていた。イオが視線を戻してわたしを見つめた。その目は泳ぎ、呼吸が荒くなっていた。わたしがやるしかない。この瞬間にも、琥珀色の宇宙服は遠ざかっていく。ぐずぐずしていると、取り返しがつかなくなる。
──ハルマンを呼んで。
わたしは三重にかかった安全装置を解除し、命綱のついたベルトを外してイオに渡した。腕のディスプレイが真っ赤に点滅しながら、けたたましい警告音を鳴らしはじめた。命綱を外すのは初めてだ。腰まわりが不安定になり、姿勢が崩れた。体を支えてくれる命綱を外したのだから、当然の結果だ。琥珀色の宇宙服が反時計回りにくるくる回っていた。だとすれば、わたしは時計回りに回っているはずだ。右腕を伸ばして酸素を慎重に噴射すると、やがて体の回転が止まった。琥珀色の宇宙服のほうへ両腕を伸ばして向きを定め、腕と水平になるように脚を伸ばす。そして腕を下ろして気をつけの姿勢になってから、空気を噴射する。命綱なしの加速は初めてだから、さらに神経を尖らせて姿勢をまっすぐに保った。じわじわと速度を上げなければならない。宇宙では、ひとたび速度がつきはじめると手のつけようがない。わたしは酸素を少しずつ噴き出しながら、琥珀色の宇宙服に接近した。最初は近づいているのか疑わしい速度だったが、もう二回加速するとあっというまに追いついた。
そのとき、フヨ・ハルマンの怒鳴り声が聞こえた。姿勢が乱れる。
──どうかしてんじゃないのかい! どんな理由があっても命綱は絶対に外すなって言っただろう!
──非常事態のときは外してでも生き延びろって言ってましたよね! 早く来てくださいよ!
わたしはそう叫んで無線を切った。体を動かした拍子に加速がついて、視界がまたくるくる回りはじめた。幸い琥珀色の宇宙服とはじゅうぶんに近く、わたしの手は空を切って三度目でようやくその脚をつかんだ。
酸素残量5%。
ますます激しく点滅するディスプレイを横目に、わたしは琥珀色の宇宙服を抱き寄せた。宇宙服の中には男がいた。ヘルメット越しに、黒い髪と角ばった顔が見える。ヘルメットをくっつけて、しっかりしてと何度も叫んでも、男は目を覚まさない。わたしが連れていくしかない。
イオのいるほうを振り返ると、イオの姿がさっきの半分に見えた。半分になったイオは時計回りにくるくる回っていた。どうやら、男を引き寄せた勢いで体の回転力が増したらしい。わたしは回転とは反対方向へ酸素を噴き出し、ゆっくりと体を立て直す。イオの姿はもうすでに、半分のまた半分になっていた。
酸素残量3%。
どれくらい酸素を残すべきか。イオがいるから、帰りは推進のための酸素が要らない。三十メートルなので、急げば十分もかからない。わたしが動かないで息を止めていられる時間は……
わたしは男を赤ん坊のように前に抱えてから、イオと反対の方向へ酸素を噴射した。猛烈に点滅していたディスプレイが消える。
酸素残量0%。
──ルナ!
イオがわたしの名を呼ぶ声が、かすかに聞こえた。声が波のように押し寄せたかと思うと、あっというまに遠くなった。
わたしは海に行ったことがない。一番古い記憶まで遡っても、わたしはいつも三無号の中にいた。ハルマンたちが背景のように広がる地球を指さして、青いところが海だと教えてくれた。だけど、海が出てくる映像を見てもちっとも実感が湧かなかった。水が球になってぷかぷか浮かんでいたり、容器の中に入っていたりせずに、広く深く溜まっているなんて。水が押し寄せて、足をくすぐっては消えるだなんて。それは、いったいどんな感じだろうか。そんな想像にふけっていた時期がある。その頃にたった一度だけ、海が出てくる夢を見た。
空は灰色だった。同期もハルマンもおらず、ただ海とわたしだけがあった。初めて目にする脚の分かれていない服を着て、黒い海の前に立っていた。足首の高さで波が満ち引きを繰り返しても、足に水が触れる感覚はなかった。経験したことがないからだろうか。初めて海を見たらはしゃぐものと思っていたのに、意外にも胸を満たすのは息の詰まるような感覚だった。遠くの水平線がふくらんで、どこからかピューイ、ピューイと口笛の音が聞こえてきた。
時間の流れはほとんど感じなかった。空を埋めつくす星を見て、夜になったことにやっと気づいた。空には明るい星が、黒い海の上には柔らかく震える星が見えた。宇宙が上下に波打っていた。わたしは小さく呟いた。
お母さん、お母さん。
青い目に皺くちゃの肌、細い金髪のアフロヘア。マニョン・ハルマンの顔だ。ぼんやりそう思っていると、聞き慣れた怒鳴り声が聞こえた。マニョン・ハルマンは、フヨ・ハルマンに次ぐ三無号の風紀担当だ。
──気がついたならさっさと返事しな、心配させるんじゃないよ!
それを皮切りに、「獲るものも獲らずに危険な真似ばかりして」「もうじき中級海女試験だってのに、これじゃ合格点でも通せない」「何かあったら勝手に判断しないでまず無線入れろって、何回言わせるんだ」だの何だの、また気を失ってしまいたくなるくらいの小言の嵐が吹き荒れた。記憶もあやふやな頃からマニョン・ハルマンに叱られて育ったせいか、ハルマンが怒るとわたしの目から涙があふれる。
──泣く資格があるのかい!
いつものようにそう言われながら、不思議と泣くのを止められなかった。ずっと忘れていた夢をまた見たせいだろうか。夢の中から続く息の詰まるような感覚が、まだ胸の奥に残っている気がした。あるときさっぱり忘れたはずの感情が、どうしてまた訪れたのか。
わたしや同期のみんなには、お母さんがいない。小さい頃は、漠然とハルマンたちがお母さんなのだと思っていた。でも、わたしがあの夢を見て、お母さんはどこにいるのと尋ねたとき、フヨ・ハルマンは善意の嘘をついたりしなかった。お前たちは、ある日ひょいとやってきた。経緯も事情も何もない、それがすべてだ。答えを聞いて泣いたわたしたちをなだめながら、フヨ・ハルマンはこう言った。お母さんがいる子には、たったひとりしかお母さんがいない。でも、お前たちにはハルマンみんながお母さんだ。だから、こっちのほうがいいんだよ。三無号が地球を何周もする間に、わたしたちはゆっくりとその意味を理解した。それからは、もう泣くことはなかった。なのに、どうして急にあの夢がよみがえったのだろう。どうして涙が止まらないのだろう。
わたしが泣きやまずにいると、マニョン・ハルマンもいつしか怒鳴るのをやめて慰めはじめた。きつく叱るつもりだったのがむしろ慰める形になって戸惑ったのか、おぼつかない口ぶりだった。そんなハルマンを見ていると、涙が止まらないまま笑顔になった。
──でも、人を助けたのは偉かった。勇気ある行動だ。だけど、お前が助ける人の命と同じくらい、自分の命も大切なんだ。それを常に肝に銘じておくんだね。進むよりも大事なのは、戻ってくることだよ。
マニョン・ハルマンは、わたしをぎゅっと抱きしめた。それから、男が目を覚ましたから元気になったら会いに行きな、と言い残して去っていった。ハルマンの腕に抱かれていた肩が痛んだ。わたしはもうしばらく泣き続けてからまた笑い、そしてふたたび眠りについた。
男はわたしの同期たちに囲まれて、ベッドに背をあずけて座っていた。ハルマンたちは潜水に出ているのか、パイロット・ハルバンとヒウォン・ハルマン夫妻だけが枕元でじゃれ合っていた。男も意識が戻って間もないようだった。入りづらくてドアのところででもじもじしていると、イオがわたしを見つけて部屋の中へ引き入れた。
いたずらっ子のような顔に、青緑の瞳が印象的な男だった。あなたを助けたのはこの子だよ、とイオがわたしを隣に立たせた。男は小さく唸りながら前傾して手を差し出す。よくわからないけど握ってほしいんだろうと、わたしはその手をつかんで手前に引いた。引っ張られそうになった男は、きょとんとした顔で手を上下に振った。パイロット・ハルバンとヒウォン・ハルマンがけらけら笑う。
──この子、握手が初めてなもんでね。
パイロット・ハルバンは、歯の足りない皺くちゃの口で言った。男はわたしを見つめながら、どうも君たちは何かが違うと呟いた。男が口を開いたことに喜んだパンが、どう違うのと尋ねる。すると男は、銀褐色……と呟いて口をつぐんでしまった。
パンはもっと質問したいようだったが、ヒウォン・ハルマンが割り込んで自己紹介を求めたせいで話題が逸れてしまった。男はわたしたちと同じ言葉を話していたけど、発音が穏やかで抑揚があまりなかった。名前はピョートル・ケルヴィン、ESAから来たという。ESAならわたしも知っている。ESAの人たちは、定期的に三無号まで圧縮酸素や食料なんかを寄越して、海女が集めた機械部品を持ち帰っていた。
──さて、ケルヴィンさんにはまず私たちと話してもらおうか。
ESAと聞いた途端に質問が山のように湧いてきたが、いつのまにか背後に現れたマニョン・ハルマンがわたしたちを部屋から追い出した。パンは口を尖らせて不平を言う。でも、マニョン・ハルマンに叱られて大きくなったわたしたちが、ハルマンの言葉に逆らえるはずもなかった。
──銀褐色って……わたしたちの肌のことかな?
パンがぼんやりした顔で切り出した。部屋を追い出されたみんなは、わたしのお見舞いにかこつけてフルーツジュースとトルティーヤをもらって部屋へ戻った。わたしたちは、小さい頃から一つの部屋を共同で使っている。
──そんな深く考えることないよ。ずっと宇宙で暮らしてるんだから、地球から来た人と肌の色がちょっとぐらい違うこともあるでしょ。
ユロにそう言われても、パンは不満だらけの顔を引っ込める気がなさそうだった。トルティーヤをむしゃむしゃ口に押し込む様子を見るに、よっぽど拗ねているらしい。トルティーヤを一瞬で平らげると、オレンジジュースを一息に吸い上げてゆっくり飲み込んだ。パンはいつも不満が多いけど、食べかすを飛ばしてはならないという三無号の食事の規則を一度も破ったことがない。
──悔しくないの? わたしたちは下級だからってこと?
──悔しいならマニョン・ハルマンに文句言えばよかったのに。
──あの魔女にそんなの通じるわけないでしょ。
うんうん、それはそう、とユロが相槌で答えてやると、パンはようやくテーブルの裏面に太腿を固定するマジックテープを剥がした。まるでそれを合図のように、わたしのことに話題が移った。パンとユロは、そのときの状況について聞きたがった。
男を助けた経緯を説明した。ここ最近で一番不思議な出来事でもあり、話しているうちに興が乗って、しまいにはほとんどお芝居のようになってしまった。その間、イオはトイレに行くと席を立ったが、わたしたちは盛り上がりが収束する頃にようやくイオがいないことに気づいた。イオはどこへ行ったのか、夜遅くまで部屋に戻ってこなかった。三無号の中では命綱を着けていないから、イオを探す手立てがなかった。
翌日、ケルヴィンがもじもじしながら訪ねてきた。その手には、カラフルな包み紙にくるまれた四角い物体がひとつ。
──お礼を言わなきゃと思って。
そのときわたしは同期たちと潜水に出る準備をしているところで、またあとで来て! と叫んで飛び出した。ケルヴィンはわかったと言って立ち去り、それを知った同期たちはわたしに流星雨のように言葉を浴びせてからかった。お礼はただの口実で、実はわたしに好意があるから来たのに、拒まれたからもう来ないだろうというのだ。
──変なこと言わないでよ。フォスフィライトでも掘ってれば?
わたしは真っ赤になって言い返したが、イオに『眠れる森の美女』を持ち出されるとどうしようもなく言葉に詰まった。眠りに落ちた人と、助けた人への無償の愛。おまけにマニョン・ハルマンによると、ケルヴィンは眠れる森のお姫様と同じヨーロッパの人だ。
──でも、ケルヴィンは男でしょ。
──性別なんて関係ないよ。それに、もとはどうだったか誰にもわからないし。
恋愛については考えたことがなかった。第一、愛という感情自体に馴染みがない。三無号には、その名のとおりプライベート空間がまるでなく、むつまじい時間なんてそもそも生まれにくいのだ。わたしにとって、恋愛は小説や映画に出てくる正体不明の何かでしかない。みんな同じものを見て大きくなったので、からかう同期もからかわれるわたしも知識は似たり寄ったりだ。いつしか「恋愛」は、同期たちが同じ冗談を繰り返し、わたしが同じ反応でやり返す一本の持ちネタになってしまった。
そんなお芝居が続いたのは、ケルヴィンが毎日わたしのところへ来たからだ。ある日は話がしたいとやってきて、また別の日は君の名前は本当にルナなのかと聞いてきた。『ソラリス』という本について知っているかと質問されて、聞いたこともないと答えたりもした。
王子様でもお姫様でも、こうもしつこく付きまとうお話は聞いたことがない。だから、ひょっとして言えない理由があるのかもしれないと思った。ふと気がつくと、わたしはケルヴィンと二人で向かい合ってトルティーヤを噛んでいた。同期たちは部屋の入り口でけらけら笑っていたが、マニョン・ハルマンのげんこつを食らってぶつぶつ言いながらどこかへ行った。
お礼を言うはずのケルヴィンは、その気持ちを潜水後の酸素ボンベみたいにすっからかんにしてしまったのか、トルティーヤがおいしいだの何だのたわいもない感嘆ばかり並べ立てた。愛でも感謝でも、命綱のようにずるずる引きずり回されるのはごめんだ。
──何しに来たの?
──言ったよね、お礼をしたいって。
──じゃあ、ありがとうとか言いなよ。トルティーヤばっかり食べてないで。
──心の準備をしてたんだ。
ケルヴィンは、最初に来たときに手にしていた四角い物体を差し出した。包みを開けると、中には本が入っていた。タイトルは『ルナ』、著者名にはピョートル・ケルヴィンと書いてある。顔を上げてケルヴィンを見ると、彼はこくりと頷いた。本を開いてみる。
ソラリスへの道は閉ざされてしまった。だが、それは全能にして不可解なソラリスの海を探究せんとする欲望のためではない。クリス・ケルヴィン以降、ソラリスに赴いた人間はいない。地球人は、いまやソラリスのみならず、いかなる場所へも行くことができない。宇宙規模に広がった地球を欲する者たちが、何もかも台無しにしたのである。宇宙に打ち上げるものが増えるにつれ、地球の周囲はごみで覆い尽くされた。さらにいくつかの宇宙企業の致命的なミスが重なり、予測できても回避は不可能な衝突が起きた。月やそれと同等の大きさの衛星が粉々に砕け、地球は衛星群に包囲されてしまった。
月が消えると、地球には多くの変化が生じた。海はもはや波打つことなく、夜は闇に沈んだ。一日が短くなり、人々は合わない時計とカレンダーを眺めながら、月の残骸が人工衛星や宇宙ステーションを破壊したというニュースを聞いた。何より人々は、味も形も変わり果てた海産物を口にしなくなった。海女は職を失った。
しかし、ふとした偶然をきっかけに、地球の軌道を回る衛星群には地球で作られるあらゆる先端機器の素材となる希土類や宝石が多量に含まれることが判明した。人々は、不幸中の幸いとばかりに口笛を吹いて歓喜の声を上げた。地球の資源が枯渇することを懸念し、火星で資源を採掘すべきだと主張する勢力は、その目標を衛星群に修正した。当初は宇宙飛行士たちが衛星群の資源を採取していたが、適任とは言えなかった。人件費が高くつく上に、資源の採取という単純労働への慰労金まで支払わねばならないのだ。宇宙飛行士に代わって最低賃金で働く人材が必要だった。
月の破壊を防げなかった責任を問われたNASAは発言権を失い、思いがけずESAが主導権を握ることになった。衛星群の彼方へロケットを打ち上げるには文字どおり天文学的な費用がかかるため、ESAは衛星群での資源採取事業に社運を賭けた。そのときESAの目に留まったのが、失業者となった海女たちだった。
テストの結果、海女は宇宙飛行士よりも作業効率が高かった。海女にとっても、衛星群での資源採取は潜水よりもはるかに安全で簡単だった。とりわけ「宇宙にいれば腰も痛くならないし、指も冷えないね」というある海女の証言が決め手となり、海女たちは活動の場を宇宙へ移した。もっとも、食い扶持が絶たれた彼女たちに選択の余地はなかったのだが。
こうして誕生したのが、三無号をはじめとする六つの〈プルトク〉(*6)だ。プルトク建造後は海女を自律型組織とすることで文化を保存したとESAは主張する。そう言うと聞こえはいいが、実態はそれ以降の体系的な支援を怠ったということでしかない。事業は費用を削れば削るほど収益性が高まる。海女の船外活動服は白い旧型モデルのままで、地球へ帰還する宇宙往還機が定期的に送られることもない。それもこれも、何もせずとも海女たちが問題なく働いたからである。海女の活躍によってESAは積年の資金不足からある程度解放され、人類がふたたび宇宙へ出ていく方法を研究している。
*6 プルトク:済州の海女が潜水の前後に体を温める、浜辺の囲い場。本作では宇宙拠点の呼称として用いられる。
──これを信じろって?
わたしは本から目を上げて尋ねた。ケルヴィンは肩をすくめてみせる。
──小説だからこそ語れる真実、とでも言っておくよ。
──わたしたちの暮らしを何だと思ってるの? わたしは自由な宇宙が好き。潜水はわたしの生きがいだよ。
ケルヴィンは、大げさに両手を上げてみせた。しかし、いたずらっ子のようなその顔は真摯な光を湛えていた。
──続きを読んでみて。お話はまだ始まったばかりだから。
ケルヴィンの言ったとおり、あらましを説明したところで小説はレヤという人物へ焦点を移して展開した。
レヤの物語はソラリス・ステーションから始まる。クリスに棄てられたレヤは、探査艇ごとソラリスの海へ墜ちる。だが海は、どういうわけかレヤと探査艇を完全に溶かしはせず、もう一度擬態させる。複雑かつ衒学的な変化を経て、レヤは探査艇に乗ったまま地球を目指して飛んでゆく。しかしその頃、地球は衛星群に包囲されており、レヤと探査艇は衛星を避けられずに難破する。レヤも探査艇もソラリスの海が擬態したものであり、大きな衝撃を受けると本来の粘液質の状態に還元される。そのさなか、一部はエネルギーを蓄えた電子部品や衛星に吸着し、エネルギーを利用してふたたび人間の姿に擬態する。宇宙を漂流する子どもとなったのである。
子どもは偶然、海女たちに発見され、彼女らの手で育てられる。成人するまで地球にもソラリスにも行けぬまま、彼女は自分がレヤだったことも忘れ、ただ海女の暮らしを学ぶこととなる。ところがある日、彼女が地球から来た科学者を助けたことで状況は一変する。科学者は、彼女が他の海女たちとは違うことを察する。母がいないこと、肌の色が違うことが科学者の興味を引く。そして何より、彼女が自分の命を助けたことが科学者の心を動かした。
彼はレヤに地球のことを教える。衛星群と三無号の軌道の中心にある青い星。彼の祖国ポーランドや、ハルマンたちの故郷である済州島、それにESAも、すべて地球にある。人間はもともと地球に生まれ、地球に暮らす。人が生きるうえで、地球はあらゆる面で宇宙より恵まれている。毎日のトルティーヤよりおいしい食べ物がいくらでもある。もちろん、三無号より重力が大きいため自由に飛び回ることはできない。しかし、それさえ諦めれば遥かに暮らしやすい場所だ。地球では、命綱を着けなくてもどこへだって行ける。
彼は、彼女に選択権を与える。彼とともに地球へ行くか、三無号に残るか。迎えに来る宇宙船には、あと一席だけ空きがある。宇宙船に乗るためには訓練が必要だ。彼女は選択を先延ばしにするが、どちらを選ぶことになるかわからないため、まずは彼のもとで宇宙飛行士の訓練を受けることにする。
──ふざけすぎだよ。
──何を言うんだ。この本は、十年も前に出た私の代表作だよ。フヨ・ハルマンという人も知ってたんだから。
──わたしはレヤじゃなくてルナ。今の状況が本の中身と似てるのはたしかだけど、それはただの偶然だし。
──偶然って……本当にそうかな? フヨ・ハルマンだって、君との出会いは偶然だったと言ってたけど。普通、孫や養子にした子のことをそんなふうには言わないよね。
──それで? 小説みたいにわたしを地球に連れて行きたいの?
──お望みならね。
それが、ケルヴィンの言うお礼だった。わたしはその状況をどう受け止めていいか皆目わからず、黙ってトルティーヤを食べるばかりだった。
──なんて答えたの?
パンがわたしの肩を揺さぶって何度も聞いてくる。
──ひとまず中級海女試験が終わってから返事するって言ったってば。
思わず後ずさりしながら答えた。同期たちはケルヴィンが出ていくなりなだれ込んできて、わたしを取り囲んで質問攻めにした。『ソラリス』のことだけは伏せて、一部始終を打ち明けた。みんなわたしが答えるたびに、愛が何かも知らないんだ、ほんとルナってそうだよね、と言って嘆いた。
いつもなら腹を立てるところだけど、実のところわたしはそのお礼に内心浮かれていた。宇宙船の席はわたしのためだけに空けてあると、ケルヴィンは念を押した。わたしたちは、生まれてから一度も自分だけのものを持ったことがない。自分だけの席、自分だけの秘密という言葉には、磯笛の音にはない密かな甘い響きがあった。
宇宙往還機に一緒に乗るには、自分で操縦はしないとしても離着陸訓練と最低限の緊急対応訓練が必要だ。小説に書いてあるとおり、どちらを選ぶことになるかわからない。わたしは、ケルヴィンと毎日会って訓練する約束をした。宇宙往還機は二週間後に到着することになっていた。同期たちは、それってもうデートだね、というようなことを連呼した。
ただ、イオだけはこの状況が気に入らないようだった。潜水の最中、いきなりヘルメットを押しつけて話しかけてきた。わたしが採集ノルマをこなし、衛星の合間を飛び回って自分流の「宇宙曲芸」を磨いていたときのことだ。
──あの男、感じ悪い。
わたしが素っ気ない反応を示すと、イオはなおも突っかかってきた。
──愛が何かも知らないくせに。
そこまで言わなくてもとは思いつつ、たいして気にならなかった。わたしだって、まったく妙な感じがしないわけではない。でも、その妙な感じまでまるごと自分だけのものにしたかった。残りの酸素が帰りの分きっかりになるまで曲芸をやるつもりだったけど、イオが無駄遣いはよくないと言って臍を曲げるので、わたしたちは酸素を20%も残して三無号へ帰った。
ケルヴィンの訓練は新鮮だった。二人一緒に三無号のまわりを素早くぐるぐる回ったり、命綱の巻き取りを最大限利用して速く泳いだりして、強い重力がかかる勘を養った。ケルヴィンが言うには、三無号の人工重力は地球の三分の一で、地球に適応するには重力訓練が欠かせない。三十メートルの距離では命綱を最高速で巻き取ることもなかったので、衝突すると痛くて危ないことがあるとわたしは初めて知った。
休憩に入るとわたしたちは話した。お互いについて知らないことだらけだった。わたしが聞いたのは、地球で一番おいしい食べ物は何か(韓国のピザ。普通のピザじゃなくて韓国で売っているプレミアムピザに限ると力説していた)、なぜケルヴィンがESAに入ったのか(ソラリスへ行って父が目にしたものを見たかったらしい。帰ってきた父は狂人扱いされていたが、何かを確信した人特有のまっすぐな芯を持っていた。まあ、現実的にソラリスへはもう行けなくなったけど)、地球の二十歳の女性は一般的にどんな暮らしをしているか(これはケルヴィンもよくわからないらしい。地球人は生き方が多様化しすぎて、もはや初対面の相手と何を話せばいいかもわからないほどだとか)、みたいなことだ。ケルヴィンは、主にわたしの気分や海女の暮らしについて聞いてきた。わたしの答えはケルヴィンの話に比べればつまらなかったけど、彼はいつも熱心に聞いた。
わたしが愛について尋ねたのは、気まずい空気をほぐそうとするお決まりのやりとりが、次第に心地よく楽しいものに変わりはじめた頃のことだ。わたしは相変わらず同期たちにからかわれる役回りだったけど、ひょっとするとケルヴィンの話を持ち出せば形勢逆転できるのでは、という期待も心の片隅にはあった。
──ケルヴィン、愛って何かな?
何でもないような顔で尋ねると、ケルヴィンはダンスを踊ったことはあるかと聞き返してきた。宇宙曲芸を披露しようかと思いかけて、やっぱり恥ずかしくてお茶を濁した。
──歌だったら、聴いて覚えたのが一曲あるけど。
そう答えてから、わたしは真剣な顔でイオドサナ、イオドサナ(*7)と歌って長く長く引き伸ばした。ケルヴィンは腹を抱えて笑った。パイロット・ハルバンが操縦しながらこんなふうに口ずさむんだと、わたしは言い訳のように付け加えた。
*7 イオドサナ:海女が舟を漕ぎながら歌った済州島の労働民謡の歌詞。海の彼方の理想郷「離於島」に由来するとされる。「サナ(사나)」は「暮らしているのか」の意味にもなる。
──つまり、踊ったことはないんだね。
ケルヴィンはそう言って手を差し出した。反射的にその手を握ると、彼は握った手をすっと横へ伸ばし、反対側の手をわたしの腰に添えた。そして体を引き寄せて胸のやや下をくっつけると、足を踏み鳴らして三無号の外へ飛び出した。
──拍子に合わせてついてきて。
ケルヴィンは「ワン・アンド・トゥー・アンド・スリー・アンド」と拍子を数えてわたしを導きながら、ゆっくりと結び目の形を描いて回った。ワルツというダンスらしい。何度か繰り返すうちにわたしもその流れに慣れて、拍子を聞かなくてもケルヴィンに合わせられるようになった。
──上手だね。
やがてケルヴィンは数えるのをやめて、鼻歌を口ずさんだ。普段から宇宙曲芸を磨いておいてよかった、と思った。
わたしたちはワルツにのせて、三無号のまわりをしなやかに回った。ダンスは、三無号が命綱でぐるぐる巻きになるまで続いた。
中級海女試験は、わたしや同期たちが二十一歳を迎える日に行われた。その日は、ケルヴィンの宇宙船が到着する前日でもあった。この日ばかりは他の海女による潜水が一切なく、ハルマンたちの監督のもと四人だけが潜水に出る。わたしとイオ、パンとユロは、二人ずつ組になって体をほぐした。フヨ・ハルマンも遠くから見守るばかりで、号令をかけることはない。わたしたちは、自ら一、二、三、四と叫んで体をひねり回した。
中級海女試験の日、わたしたちは初めて五十メートルの命綱を着ける。中級海女になるのは、他の海女の助けなしに自力で不測の事態に対処できるようになること──フヨ・ハルマンはそう言った。変動する状況をしっかり認識し、最善の対処をすること。そして、危険に陥ることなく採集目標を達成すること。それが中級海女試験の核心だった。
衛星群に深く入り込むほど衛星同士の間隔が狭まって、採集の効率がよくなる。おまけに掘り出せる宝石や鉱物の価値も上昇するので、獲れ高は跳ね上がる。しかし同時に行動半径も小さくなるため、衛星群を出る際に命綱の力を借りることも、来た道を引き返すことも難しくなる。まるでマジックテープでくっついたように。中級海女試験は、三十メートルより深く入らなければ満たせない採集量を要求する。制限時間はないが、助けを求めると失格になるので、できる限り酸素をうまくやりくりするのがポイントだ。
三十メートルより長い命綱を着けるとき、特に注意しなければならないことがある。それは「幻」だ。四十メートル以上深く入るとないものが見えたり聴こえたりする人は、潜水は達者でも下級のままでいることもある。幻に囚われると、判断力と状況対応力を失ってしまう。そうなったらすぐに助けを求めて、その場から動かないこと。
フヨ・ハルマンは、第一規則をもう一度大声で繰り返した。
──肝に銘じな。進むよりも大事なのは、戻ってくることだ。
飛び込みの号令がかかる前、心の準備のために与えられた時間にイオが声をかけてきた。答えずに顔だけ横へ向けると、イオはヘルメットをくっつけてささやいた。
──がんばろう。
イオがわたしに手を差し出した。いつも握って走ってきた手なのに、ケルヴィンとワルツを踊ってから妙にぎこちなくなった。ためらっていると、イオはしっかりしてよとばかりに差し出した手をぱっと振って、痛いくらい強く握ってきた。
──準備ができた順に、飛び込め!
イオには戦略があった。まず五十メートルの深さまで一気に入って、採集しながらゆっくり抜け出てこよう。戻るときは、三十メートル地点から出発したほうが時間も酸素も計算しやすい。それが彼女の考えだった。わたしも賛成した。
イオは普段と違い、先陣を切って進んだ。わたしはイオの速さに驚いた。あちこち飛び回るわたしとは違って、大人しく後ろにいるタイプだ。ところが今は、誰よりも前へ前へと進んでいた。思えば、イオはこのときからおかしかった。でもわたしは頭がごちゃごちゃしていて、そこまで考える余裕がなかった。
──どうする?
ケルヴィンは明日地球へ帰る。わたしは選ばなければならなかった。だけど心は衛星のように公転するばかりで、ちっとも答えに近づかなかった。このまま一緒にここにいちゃだめ? わたしは何度かそんな気配を出してみた。でもそのたびにケルヴィンは、フヨ・ハルマンみたいに却下した。帰らなきゃだめなんだ。それに、地球に行けば君が探しているものだってある。彼はヘルメットをくっつけてそう言うのだった。ケルヴィンの息はわたしに届かず、ヘルメットが白く曇った。
ケルヴィンを信じられないわけではなかった。ハルマンや同期たちは、口を揃えていい機会だと言う。地球の暮らしが気に入らなければ、何とかして戻る方法はあるだろうから、一度行ってみて損はないはずだと。ケルヴィンにいたっては、戻りたくなったら全力で力を貸すと誓約書まで書いてくれた。でも実のところ、わたしは本当に戻れるかどうかが心配なのではなかった。ためらうのは、自分が何を望んでいるのか確信が持てないからだった。
昨日最後の訓練が終わって、ケルヴィンに本を読み終えたか聞かれた。わたしは首を横に振って、あれからまったく読んでいないと答えたけど、実は嘘だった。何度も読もうとした。でも、本の中にわたしが経験した出来事を見つけるたびに、何とも言えない気持ちになって本を閉じるしかなかったのだ。レヤが科学者に一番好きな食べ物を尋ね、科学者がピザだと答えるくだりを読んでいると、妙な気分になって胸がむかむかした。
次から次へと連なる思考の円舞曲に気を取られて、イオにぶつかった。思わずごめんと謝ったけど、イオは聞こえていないみたいだった。よく考えると、ぶつかったのはイオが急に動きを止めたからだった。イオはぼんやりと、衛星の隙間の何もない、反射する光もなくひときわ暗い一点を見つめていた。
イオが寝ぼけたような声で言う。
──ルナにも見える?
わたしには何も見えなかった。何のことか聞き返すと、イオは突拍子もないことを口走った。
──お母さんがあそこにいる。
イオの見つめる先には何もない。これが幻か。肩をつかんで揺さぶってみても、イオは朦朧とした目でずっと暗闇を見つめたまま。その口からは、一つの言葉だけが漏れ続けていた。お母さん、お母さん。
これは危険だ。不合格になるのは残念だけど、イオが幻を見ている以上は他に方法がない。
──ハルマンを呼ぶね。
わたしはイオをなだめて無線のチャンネルを合わせた。イオが幻を見ているようだと報告しようとした瞬間、鋭い悲鳴が聞こえた。イオの声だ。イオはこちらをまっすぐ見つめ、やめろ! と大声でわめき立てた。どう見ても正気を取り戻したようには見えない。
──わたしは今回絶対に受からなきゃダメなの。ルナは地球に行っちゃえばそれでいいんだろうけど、わたしはひとりで下級に残ることになるんだよ。
──何言ってるの。まだ返事してないってば。わたしだってどうなるかわかんないよ。
──わたしたちにはこれしかないのに、ルナは違うんだって。
イオはとうとう涙を流しはじめた。船外活動服の中で泣いてはいけない。過呼吸になるし、水分でヘルメットの内側に湿気がたまって視界を遮ることもある。それをイオが知らないはずがない。つまりあれは、普段のイオじゃない。わたしは無線を入れようと、左腕のデバイスに手を伸ばした。するとイオが飛びかかってきて、その手をはたき落とした。
──このまま行こう。
──ほんとにどうかしちゃったの? そんな状態でどこに行くの。
──無線入れるなら、ヘルメット外しちゃうから。
イオは両手を首筋に当てて言った。今日は無線のチャンネルがひとつしかない。わたしがハルマンに報告すれば、それがそのままイオにも筒抜けになる。わたしは両手を上げて、ハルマンに無線を入れる意思はないと示した。
ひょっとすると、イオの言うとおりなのかもしれない。ケルヴィンについていく選択肢がなかったら、わたしは試験をこんなにあっさり諦める気になっただろうか? イオがおかしなことを言い放ったまさにその瞬間、心の奥底で実は少しだけ安堵したのではないか。絶対にそうではないとは言えないような気がした。
イオは、鼻歌を口ずさみながら先へ進んだ。初めて通る道なのに、向かうべきところが正確にわかっているような、確信に満ちた動きだった。イオが軽やかに進むほど、わたしの不安は膨らんだ。イオを連れて戻らないと。でも、いったいどうやって? 今回は、ケルヴィンを助けたときより厄介だ。無理に連れ戻そうとすれば、本当にヘルメットを外してしまうかもしれない。イオを説得するか、どうにかしてねじ伏せる以外に方法はない。とは言え説得は通じそうにないし、ねじ伏せるにしてもひとりでは無理だ。
そのとき、衛星が緑色に光った。フォスフィライト。顔を上げると、イオが向かう先にフォスフィライトの緑の光が滑走路のように連なっていた。フォスフィライト・ライン、たったひとつの無線チャンネル。これだ。
──イオ、このままフォスフィライト・ラインを追いかけても何にもならない。幻を見てるんだよ。ヘルメットを外すなんて危なっかしいこと言わないで、今すぐ戻ってきて。
わたしは叫んだが、イオは聞く耳を持たず、ただ前へ前へと進んでいった。イオの命綱が危うげに揺れていた。わたしはケルヴィンの言葉をひっくり返して言う。
──イオが何を探してるのか知らないけど、そこにはないよ。
すると、イオがぐるっと顔だけこちらへ向けた。胸はそのまま前を向いているのに、わたしと目が合った。首が折れてしまったのではないかと思って、鳥肌が立った。
──きょうだいを助けなきゃ。
イオが指さすほうを見ると、銀褐色の機械の塊が蠢いていた。間違いない、モーターがでたらめに動いているだけだとマニョン・ハルマンが言っていたあれだ。イオも一緒に聞いていたのに……。
──そのまま見てて。
イオは首筋に手を当てた。もうお手上げだ。やれることはやったから、これ以上刺激せずに時間を稼ぐしかない。
機械の塊が少しずつ形を変えた。最初はこぼしてしまったスープのように見えていたのが、だんだん膨らんで星形になった。そうして伸びた五本の腕のうち、一本がどんどん膨れ上がり、あとの四本はもぞもぞ動いて先が五つに分かれた。やがて機械の塊は、大きな頭とずんぐりした手足を持つ胎児になった。とても小さな赤ん坊だ。
赤ん坊は何やら身振りをした。ただ手足をでたらめに振り回しているわけではない。口をぱくぱくさせ、左右の腕を交互に回し、指を一本ずつ折り曲げては伸ばしていた。妙な規則性が感じられる連続的な動きだ。まるで他の誰かが、赤ん坊の手や胴体、口といったものの動かし方を探っているかのような。動作は次第に複雑さを増していき、やがて赤ん坊は口を何度かもぐもぐさせると、口笛の音を出しはじめた。
ピューイ、ピューイ。
わたしたちは赤ん坊のほうへ近づいた。ちょうどケルヴィンのときと同じように、宇宙にひとりで放り出された孤独な命を助けるために。しかし赤ん坊に手が届く寸前、何かが骨盤に引っかかった。五十メートル。
その衝撃で我に返った。宇宙空間には空気がない。
目の前に見えるものが本当に口笛を吹いていたとしても、音が聴こえるはずがない。あれは幻だ。だが、わたしがそれを伝える前に、イオは目を爛々とさせて言う。
──あなたじゃなくて、わたしだったかもしれない。
口がからからに乾いていた。イオがわたしを知っているのと同じくらい、わたしもイオを知っている。その瞬間、わたしはイオのことを理解してしまった。
何かずしりと重いものが懐に飛び込んできた。イオの命綱だ。
イオは赤ん坊めがけて飛んでいく。
イオが赤ん坊を抱え込む。
赤ん坊をしっかり抱いて、イオはくるくる回る。
ワルツを踊るようにして、回転はだんだん大きくなる。
酸素の筋が光を跳ね返し、宝石のように輝く。
赤ん坊がきゃっきゃと笑う声がする。
イオがどんどん遠ざかる。
イオが点のようになる。
わたしにできることはない。
ハルマンたちが姿を現した。ヒウォン・ハルマンがイオの命綱を受け取り、マニョン・ハルマンはわたしを抱え込んでしきりに大丈夫かと声をかけた。フヨ・ハルマンは残りのハルマンの先頭に立ち、五十メートルを超えて進んでいった。わたしはマニョン・ハルマンに連れられて三無号へ戻った。三無号の甲板に足を下ろしたわたしは、自分で船外活動服を脱げなかった。マニョン・ハルマンがわたしの背中を叩きながら、そう、ゆっくりね、とささやく。揺れる床を見つめて、わたしはぼんやりと言う。
──赤ん坊を見たんです。動く機械が赤ん坊になって、イオはあれがわたしたちのきょうだいだって。
──幻だよ。
──わたしたちと同じ銀褐色でした。
──ひとまず落ち着こう。イオのことは必ず助けるから。
マニョン・ハルマンはわたしの背中を二度叩いて、抱きしめてくれた。そしてルナを頼むよ、とケルヴィンに言うと、船外活動服の酸素を満タンにしてまた宇宙へ飛び出していった。
もう、わたしにできるのは待つことだけだ。それなのに、船外活動服を脱げなかった。酸素が60%残っていた。人をひとり連れて戻るには十分な量だ。そのせいか、わたしはこらえていた息を一度に吐き出せず、浅い呼吸を繰り返した。口笛の音は出なかった。
ケルヴィンを見ると、無事帰ってきてよかったという顔で微笑んでいた。無線チャンネルに繋がっていない彼は、まだ事態がよくわからないようだった。
──大丈夫?
ケルヴィンが近づいて声をかけてきた。彼は明日ここを出ていく。わたしは選択を迫られている。そのことが、糸車の針みたいにちくりと刺さる。ケルヴィンはわたしと目を合わせようとしたけど、わたしは目を逸らして顔をそむけた。すると、すぐ隣にかけられたイオの命綱が目に入った。
宇宙へと伸びるイオの命綱は、わずかに、ごくわずかに揺れていた。
告知
先行公開日:2026年9月5日 一般公開日:2026年10月3日
カバーデザイン:ファン・モガ
本作は、作家や翻訳者たちが、韓国SFの新しい風を紹介する企画「ニュー韓SFプロジェクト」の一環として翻訳された作品です。
ニュー韓SFプロジェクト
企画:ファン・モガ
翻訳・編集:廣岡孝弥、かかり真魚
構成・編集:正井
協力:VGプラス
ソ
宗教に心酔したり、スタートアップを立ち上げたり、ストリートダンスをやったりと、余計なことをするのが得意だ。スティーブ・ジョブスに憧れて電気工学を専攻するも、世界を変えるより大企業の社員になるほうが難しいことに気づき、小説家に転向した。ヒップホップのような文章を目指し、ユーモアを失わないよう常に精進している。
2022年、『ルナ』で第5回韓国科学文学賞中短編部門の大賞を受賞した。
著書に、短編集『波が着く未来』『翼の切除手術』、長編『永遠なる黄昏の恋人たち』『ユニバーサル・シェフ』、童話『茶目っ気』、ヤングアダルト小説『象の墓のケーキ』などがある。
廣廣岡孝弥翻訳者
廣岡孝弥翻訳者
1981年富山県生まれ。『トトノイ人』をはじめ、リトルプレスの制作やサポート業に従事。2021年第5回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」にて『モーメント・アーケード』で最優秀賞を受賞。ファン・モガ『生まれつきの時間』等の翻訳を手がける。
日本と韓国のSF作家による『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、韓国の作家の交換日記の翻訳を手がける。