マゼンタ・C・セレスの愛と革命(上)
11,791字
「リュジンはどんな人でしたか?」
私の質問に、同じテーブルについていた三人が視線を交わす。私は何気ない顔で箸を取った。私は箸の使い方を知らないが、私と結合した私以外の部分はそうではない。先ほど観察した食事作法にならい、名も知らぬ野菜の漬物をつまみ上げ口に運んでから、匙ですくった飯粒を噛む。こういう食文化は初めてなのに、まるでずっと食べ続けてきたみたいに舌が動く。舌や口内を噛むような失態は起きなかった。今や私の唯一の同僚となったアンソニー・G・フレーベルが、微笑みを浮かべて言う。
「うん、人を気まずくさせる質問かもしれないのはわかってるね?」
「もちろん。当事者のほうから自分がどんな人間だったか訊くことは、あまりないでしょうね」
匙にちらりと自分の顔が映る。目つきが鋭い。何も考えずに話すと、それだけで喧嘩を売っていると思われそうな人相だ。口角をわずかに上げ、柔らかい口調で話せるように気をつける。
食卓の端の席に座ったロレンツォ・カルヴァリューが、無愛想に言う。
「資料を調べなかったのか?」
「レコードに接続するには、アクセスカードが要るそうで。リュジンの昔の持ち物は、調査を名目にすべて押収されていますし」
ロレンツォは狼狽えた顔をして、ソリエ・セサイに目を向けた。
ロレンツォはこの事件の調査官補で、ソリエ・セサイが調査官だ。
ソリエは、眉をかすかにしかめて言う。
「生活に支障が出るのは把握できていなかった。すまない。二時間以内にアクセスカードを再発行する」
「ありがとうございます」
触れなくても柔らかさの伝わる癖毛のショートカットが、私を振り返る。
アンソニーが言う。
「有名者と一人称の個人は同一人物だ。どのみち、俺たちのリュジンは有名者リュジンと大して変わらないだろ。君がレコードで調べたほうが、効率よく情報を入手できると思うけどな」
「以前の私はそうだったんですか?」
「何が?」
「効率的なほうを好むと?」そう言いながら、片手で口元をそっと覆う。笑みを隠そうとするように。食文化から類推される文化圏では一般的な風習だ。「それとも、私と話したくないとか?」
アンソニーが吹き出した。
「まさか」
ソリエは首を軽く左右に振る。ロレンツォは唇をほんの少し歪める。リュジンとしては望ましい反応だ。今回のジェスチャーも成功。彼らは、まだ私をリュジンだと思っている。
「では話してください。リュジンが皆さんとどんな関係だったか知りたいので」
すると、アンソニーとソリエ、ロレンツォが、待っていたかのように話し出す。このうち、リュジンと同じ保安チームだったのはアンソニーだけ。だがソリエとロレンツォも、行政チームで保安チームをサポートしていたため顔を合わせることが多かったようだ。まず話されたのは、リュジンのちょっとした癖についてだった。左手の甲を右手で隠す、キノコを食べない、整理整頓が苦手、そういった些末なことだ。話すほうも、この手の個人的な生活感はレコードでは知り得ないと踏んでいた。私にとってはどれも欠かせないため、エピソードをひとつひとつ丹念に憶えておくようにした。
話は自ずと有名者リュジンに移っていった。最初のリュジン、つまり有名者になる前のリュジンは、およそ八世紀前のノプシア星系の人間だった。リュジンが生まれたノプシア星系は、大断絶を経て人口を支える主要技術を喪失した。その結果、駐留する連合地域司令部の管轄部隊とノプシア防衛軍の軍閥がそれぞれ軍事独裁へと転換し、わずかな資源をめぐって果てしない戦争を繰り広げていた。
大きな勢力を持つリュ・ソユン元帥の庶子として生まれたリュジンは、幼い頃から帝王学と軍事学を叩き込まれた。中央士官学校に入学後ノプシア第三防衛軍の少尉に任官され、ノプシア星系戦争に出征。奇跡に近い戦術を立て続けに成功させ、二十七歳の若さで元帥の直下の階級である大将軍に就任した。だが、天才的な指揮官と言えど、何もかも容易に進むわけではなかった。星系統一を目前に、家門内の派閥争いに敗れたリュジンは〈冬眠計画〉への参加を強いられる。医学と生理学、義脳技術を実戦で使用した星系でよく見られた冬眠計画は、有能な人物を冬眠状態にし、危機が訪れるたびに覚醒させて活用する発想に基づく。しかし、本来の趣旨よりも政治的な目的で利用されることが多かった。政敵を未来への流刑に処すのである。リュジンは眠りと覚醒を繰り返しながら、およそ三世紀にわたって家門と星系の内戦に利用された。そして五世紀前、ノプシア圏域へ侵攻した帝国遠征軍を退け、当然手にしていたはずの権力を奪還し、ノプシア星系を共和政に戻して植民地を全て独立させる。さらに二世紀が過ぎた頃、関門船が到着してノプシア星系が連合に加盟し、リュジンは自身の〈青写真〉を連合のレコードに登録することになる。「有名者リュジン」はこうして誕生したのだった。
不世出の天才指揮官を必要とする場所は無数にあった。連合は青写真に高額の複製権を課し、有名者に複雑な規制をかけた。「ひとつの星系に一人の有名者」というドッペルゲンガーのルールの範囲内で、資金力と規制遵守の体制を兼ね備えた数多の軍事組織が、リュジンの青写真を転写して協力を求めた。
リュジンは、無数の無名者の指揮官、あるいは自分と同じ有名者である将軍たち、ときにはもう一人の自分自身と対峙し、勝利をおさめた。リュジンの名は、ノプシア星系はもちろん連合が関門を繋ぐ二百五十余りの星系に轟いた。今やその名がただの有名者を超え、「古典」として定着していることを否定する者はいないだろう。
こうした知識はレコードを検索すれば出てくるが、話を聞く中で三人のリュジンに対する考えを読み取れた。ソリエの態度は憧憬を含んでいる。聞いたところ、いくつか児童向けの有名者テキストに触れて育ち、リュジンに憧れて戦艦に乗り込んだこともあるらしい。ロレンツォはいささか不機嫌そうだ。リュジンと同じ有名者だが、知名度ではリュジンに及ばないということらしい。一種のプライドの問題と見える。アンソニーは明らかに好意を抱いているが、ある程度は自制している。本人が目の前にいるからかもしれない。リュジンがアンソニーと長い時間を共にしてきたことを踏まえると、褒めそやされるのを恥じていた可能性が高そうだ。リュジンの知人を鏡に、私はリュジンの像を手探りで形づくっていた。
「自分がそんな人間だとは、信じられませんね」
「あまり心配しなくていい。この艦で君にそういうことは望まないから。自伝的記憶が消えたことで、作業記憶にも損傷があったはずだし。加速中はゆっくり休んでも大丈夫」
「その話ではなく」と私は軽く手を振り、不穏な言葉を口にする前の暗示として三人の視線を避ける。「私は七人も人を殺したんですよ」
食卓についた人々は、私の言葉を意識してゆっくりと動きを止める。アンソニーも、やはり私をじっと見つめるのみだ。悪いサインだろうか? そうかもしれない。だが、私はそう判断しなかった。私の疑問は正当だ。私の内面でリュジンという人物像はまだ完全には出来上がっていないが、記憶喪失以前の自分が犯した殺人に疑問を抱くのは普遍的な思考だ。
私は確信を持って言葉を継いだ。
「そうじゃありませんか? 有名者リュジンは、それこそ誰もが仰ぎ見る偉人なのに。理由もなく殺人を犯したりはしなかったはずです。とは言え、死んだ人たちを疑うのもおかしいでしょう。みな有名者だったんですから。殺されて当然の理由なんてなかったと思うんです。……厄介な話をしてしまいましたか?」
アンソニーが、私の左手に手を重ねた。
「そんなことはないよ、リュジン。やった記憶もないのに殺人を犯したと言われたら、気を悪くして当然だ。でも殺人者リュジンは、編集機で自分の記憶を完全に破棄した。だから、いまの君とは連続性がない。別人だってことだ。もちろん、艦には記憶の破棄を自殺とみなさない人もいる。とくに有名者の場合、まったく別の遠い星系から来ていたりもするから、文化的な差はあるだろう。しかし、団長が君を処罰しないと公言した以上、どうにもできないよ」
私はアンソニーの手を握り返し、目尻に涙が浮かぶのに任せた。予想よりも感情が動く。リュジンとアンソニーは、思ったより親密な関係だったのだろう。そう推測しながら、溝を流れる水を眺めるように感情を放っておいた。しかし、アンソニーが共感を盾に論点を逸らしたことも認識している。このまま流されておくべきか? その手には乗らないことにしよう。私は、アンソニーの手からそっと手を外した。
「ありがとう。でも、リュジンがなぜ人を殺したのか知る必要があると思います」
「それは……」
「そのぐらいにしておけ、アンソニー」
アンソニーの言葉を遮ったのは、ロレンツォだった。一見すると疲れた印象の、肌の色が濃い男だ。最初のロレンツォは十三世紀前の人物で、ヨトゥン星系で活動していた名うての秘密諜報員だ。ちらりと耳にした話では、数百年続くスパイもののシリーズがあり、有名者ロレンツォが本人役を演じたバージョンもあるという。しかし、名前も顔も知られたスパイの価値は限定的にならざるを得ない。艦での本来の役割は、暗号解析学と文献学のようだった。
「ここでリュジンに情報を隠したところで、ずっと隠し通せるわけでもないだろう。リュジンは好奇心が強く、その好奇心を満たさずにはいられない類の人間だった。そもそもリュジンがなぜ殺人を犯したかくらい、誰でも見当がついているじゃないか」
良い反応だ。話の焦点が、リュジンからリュジンの殺人へと自然に移った。つまりリュジンは普段から、感情に訴えて同調してもらうことで満足する趣味もなく、暗黙の圧力に負けて引き下がる気質でもなかったとわかる。もちろん彼らは、私がリュジンであることを疑ってすらいないのだろうが。
私は質問した。
「調査官補は、リュジンがなぜ人を殺したかご存知ですか?」
「レコードで有名者リュジンを検索したなら、君も察しがついたはずだ。リュジンは権力志向の人間だよ。どの集団でも常に最高位を要求した。グループの大小を問わず、有名者リュジンが裏で糸を引いて頂点に立とうするのは、この艦に限らずよくあることだった」
「殺人に至ったケースも?」
「正直に言えば……七人で済んだのは幸いだ」
艦船〈神聖冒涜〉の有名者をはじめとする乗務員は、階級こそあれ実生活では水平的な人間関係を志向しているようだった。ロレンツォの言葉が事実なら、リュジンはこの状況をあまり快く思っていなかった可能性もある。
「リュジンは反乱を企てたということですね」
食べながら聞いていたソリエが匙を置き、咳払いをした。ソリエは名目上ロレンツォの上官で、リュジンによる殺人を調査する臨時の職についていた。私はここ数日、ロレンツォとともにソリエと顔をつき合わせて面談を続けている。
「リュジンは具体的な計画を漏らさなかったから、明確な証拠はない。秘密などないに等しいこの小さな艦で、何か企てたなら証拠が残る可能性が高い。だが、今回の犠牲者のひとりがロレンツォに耳打ちしたことがあるんだ。リュジンが何か企んでいるらしいとね」
「廃艦の区画偵察に出る直前に聞かされたよ。リュジンは、隊員が区画偵察で艦を離れるタイミングを狙ったんだ。火器で武装しているのは保安チームだけだから、保安チームの隊員がリュジンの反乱に加わっていたら艦は危なかった。実際、リュジンが中継機を破壊したせいで殺人が起きている間は通信が遮断されていたし、通信記録も保存されていない」
「ところが、リュジンは他の乗務員までは説得できなかった。リュジンが思っていたほど隊員が同調してくれなかったんだ。そのうち口論や誤解、事故がきっかけで戦闘が始まったか、あるいは口封じのためにリュジンは他の隊員を殺害した。そして、艦に戻っても処罰されるのは目に見えているから、廃艦の編集機で脳をまっさらにして自殺したってわけだ」
確かに艦内の乗務員は、私と距離を置きこそすれ思ったより殺人を話題にしないようだ。気を遣っているのもあるだろうが、みな答えを出すのが容易だったからかもしれない。
私はぎこちなく笑った。
「そう推測されるということは、他の乗務員が問題を起こした可能性はないとお考えなんですね」
「遺憾ながら、そのとおりだ。保安チームの他の乗務員に問題がなかったとは言い切れない。だが、リュジンが権力志向で支配を好む質なのは広く知られた事実で、リュジン本人も自覚していた。片や保安チームの他の隊員は、短時間で殺人を企てたり、衝動的に殺人を犯したりするほど不安定ではなかった」
「少なくとも、リュジンほどではなかったな」
弁護するようにアンソニーが言った。
「言い換えれば、リュジンはそのリスクを負って転写してでも使いたい有名者だってことにもなりますね。団長はおそらく、運が悪かったと思っているんじゃないですか」
ロレンツォが付け加える。
「君の肩を持つわけじゃないが、有名者というのは一般的な人間より気難しいもんだ。精神的に不安定な場合もある。マゼンタ・セレスのように、デーモンだったりもする」
「いくらなんでも、リュジンをマゼンタと比べるのは無理がありますよ」
「マゼンタとは誰ですか?」
興味を隠せず、私は訊き返した。
ソリエが答える。
「マゼンタ・コンルシオ・セレス。およそ二十四世紀前に出生。有名者。出生地は太陽星系と推測される。帝国時代に活動し、皇帝の寵愛を受けた将軍として知られる。帝国の廃艦から青写真が発見されることが多い。だが連合の規定により、マゼンタの青写真のレコードへの登録、および廃艦からの転写は禁止されている」
「なぜですか?」
「マゼンタがデーモンだからだ。デーモンとは、転写した際に共同体に危険をもたらす特定の有名者を指す。マゼンタの場合、転写した共同体は平均六日以内に壊滅的な打撃を受けるとされている」
「壊滅的な打撃というと……?」
「共同体の構成員が全員殺害される、あるいは事故によって破壊されるということだ。ただし、連合の記録を見ても十分な証拠はない。ヨトゥン星系では、直近の五世紀でマゼンタを転写した事例自体がなく、伝説あるいは迷信として扱われている」
「……興味深いですね」
思わずそう漏らし、失言だったと悔やんだが、すかさずロレンツォが首を振る。
「やはり、記憶が消えても根は変わらないらしい」
私は説明を求めてアンソニーを見つめる。
「有名者は連合の全星系で転写されるから、そのぶん名の知れたライバルもいる。マゼンタは、リュジンが戦った有名な宿敵だよ。当時、有名者マゼンタは帝国遠征軍を率いてノプシア星系に侵入して、冬眠から覚めたリュジンが迎え撃つことになった。記憶を失くしても、リュジンの身体はその名前を忘れていないみたいだね」
私はゆっくりと頷いた。そういうこともあるのだな、と納得するように。
「まあ、気をつけないといけませんね。艦上で反乱を起こさないためには」
「心配するな。自伝的記憶が消えた以上、君は以前のリュジンとまったく別人なんだから」
アンソニーを見つめる。先が垂れるほど長いまつ毛の間から、その瞳が見つめ返す。彼は完全に私の味方だ。たった今人を殺してきたと告げても、味方でいてくれそうな気がする。ソリエは表には出さないが、私への疑いは晴れたと見える。でも、ロレンツォは?
「さあな。根本的な気質が変わるものかはわからない」
私はロレンツォと目を合わせた。単に私への警告として言っているようには感じられなかった。語気も鋭く、何食わぬ顔をしている。しかし、リュジンを本当に忌み嫌っているなら、あんな風には言わないはずだ。私はリュジンとロレンツォの関係を推察した。
「もし私がまた過ちを犯しそうになったら、そのときはお願いします、ロレンツォ・カルヴァリュさん。以前のリュジンの過ちを繰り返さないために」
ロレンツォは返事もなく目を逸らし、トレイを手にして席を立った。だが、失敗してはいないと確信できた。ロレンツォは消えてしまったリュジンを懐かしんでいて、私が同じ行動様式を示したことを密かに喜んでいるのだ。そして、その喜びを悟られまいと足早に去る。顔を背けて口元を隠す仕草がその証拠だ。
私はリュジンとしての役割を終え、自室に戻った。うまくやれたのは喜ぶべきことなのに、心が浮き立たない。むしろ、秋雨に打たれて地面に冷たく貼りついた落ち葉のようだ。疑問はひとつも解けていなかった。
リュジンは、宿敵だった私──マゼンタ・コンルシオ・セレスを、なぜ自分の頭に転写したのか?
* * *
通路は熱気を放っていた。六角格子に収まったクッションは、漂白されていて材質の判別がつかない。だが素足で通路に立ち入ると、足裏に伝わる感触はまるで人肌のようで、背筋に冷たいものが走る。位の高い貴族や皇室が用いるという肌素材だと見て取れる。人を踏みつけている気分がいくらか薄れると、足裏をふんわり包み込む感覚と人肌の温もりが、抱擁されているようで心地よかった。
翅をはためかせて先を行くリクビエルが、ちらりとこちらを振り返る。
「ちょっとした騒ぎがあったそうですね、マゼンタ」抱えられるほどの球体の真ん中に巨大な単眼が嵌り、背には大きな二対の翅が生えている。その胴体を覆う真紅の布と銀細工の装飾から、位の高い天使だとわかる。一般の天使は犯罪者を身体転換したものだが、位の高い天使は皇家に忠誠を誓った貴族の子弟だ。リクビエルは皇帝の代理人で、私とは面識があった。「攻撃を受けたと」
「大したことではありません、リクビエル殿。行進中に襲われましたが、皇帝陛下の親衛隊がそばにおりましたので速やかに対処しました」
「襲撃者の身元はわかっていますか?」
「その場を離れることを優先したため正確には確認できていませんが、聞くところによると反乱軍の輩の一人だそうで。その場で処刑されたものと承知しております」
「驚いたでしょう。昇天を延期しても構わなかったでしょうに」
「反逆者一味の間でスパイだと勘づかれそうになったこともありますし、逆に異端審問官から疑われて危うく処刑されかけたこともあるのです。このくらいの脅威は何でもありません。〈昇天〉は、私の生涯をかけた目標ですから。何より、皇帝陛下に無駄足を踏ませてはなりません」
天使はふたたび前方へ飛んでいった。
「〈恩寵〉はいかがですか、マゼンタ」
「まだよくわかりません」と、私は手探りで鼻のあたりを触る。「こんな施術で、陛下に対する私の想いが変わるものでしょうか」
昇天するには、単に帝国の高級官僚の地位を得るだけでは足りない。皇帝陛下の認める偉業を成さねばならず、さらにもうひとつ条件がある。昇天が決まれば、それまでに必ず受けなければならない儀式がある。それが〈恩寵〉だった。だが、恩寵についてはあまり知られていない。全身麻酔のもとで行われる簡単な施術ではあるが、そのことは外部には知らされず、昇天者たちはその秘密を守る。
天使が言う。
「宮外で、恩寵についてあれこれ噂が流れていることくらいは存じております。皇帝陛下に永遠の忠誠を約束する洗脳が行われる、といったような。ですが、お受けになったのですからご存知でしょう? そういった類の手術ではないと」
「ええ」
頭蓋を切開した痕はない。体内を薬物が巡っているなら、ホルモン調節の異常に対する身体反応が感じられるはずだ。鼻腔の内部を中心に軽い痛みと熱を感じ、腫れているようだがさほど酷くはない。気分にも変化はない。傷が癒えて身体が安定するほど長い時間が経ったのだろうか? 昇天の行進を終えて皇宮へ入り、施術が終わるまで時計を確かめていなかった。しかし、機会がなかったわけではない。時間の経過を確かめる行為そのものが恩寵と皇帝への不信を露わにすることであるため、それを避けただけだ。……何より、皇帝のことを思い浮かべても、いかなる感情の揺らぎも覚えない。
しかし、単に従順な犬と見なされるのも困る。犬を飼う人は、言うことを聞かない犬を手懐けたときにいっそう愛着を覚えるから。
「ですが、恩寵は洗脳に近い類の施術ではないかとも思うのです」
「なぜそう思うのです?」
リクビエルは、素知らぬ顔で訊き返した。
「恩寵を受けた者は、例外なく忠誠派に寝返っています。私が知る限り最も筋金入りの貴族派までもが」
「確かにそうです。しかし、もしそんなことができるなら、陛下はご自身の敵や武装商人、革命の星さえも従わせようとするのでは?」
「恩寵施術が広く普及すれば、その破り方も暴かれてしまいます。だからこそ、信用して任せられる者にのみ施術を許すのでしょう」
リクビエルは、こちらをちらりと振り返る。
「そのとおりです、マゼンタ。陛下は帝国を脅かす敵から守るために、そうした類の安全装置が必要だとお考えなのです」意表を突かれた気がした。予想よりはるかに早く本音を引き出せたのだ。「昇天者に数えられるほどの人物なら、そのような施術であることくらい予想がついていて、それでも施術を受けるのです。もし昇天者の中に反逆者がいたら、大遠征にいかに危険が及ぶかおわかりでしょう」
この広大な宇宙で、統一されたひとつの惑星、いくつかの衛星居住区を束ねた連合体、あるいは星系同盟の類を「帝国」とは呼べない。数千光年単位の隔たりを越え、数百数千の星系をひとつの権威のもとに置いてこそ、その名に値するだろう。関門は遥か離れた星との往来を可能にするが、関門船の届かない未踏の地は帝国の統制外にある。地球の精神と文明を失い、未開のまま断絶した先住民を、帝国は再び包摂する義務を負う。それゆえに皇帝陛下は大遠征を決定したのだ。大遠征は単純な方法だが、確実だった。皇帝陛下の声が届かないほど離れているなら、陛下とその腹心を複製して帝国外へ送ればいい。結果的に同じ統治者が同じやり方で統治するなら、それもまた帝国なのだから。
不必要にリクビエルの気持ちを刺激してしまっただろうか。私は、ゆっくりと舵を切ることにした。
「承知しております。昇天者は、帝国の民の誰もがうらやむ地位です。恩寵の施術が帝国の安寧に資するのであれば、何度でも受けましょう。私の懸念は、少し別のところにあるのです」
「別のところとは?」
「恩寵施術の成否が陛下への忠誠を示す指標になるとしたら、万が一うまく定着しなかった場合はどうなるのかと……」
リクビエルは、しばらく無言のまま飛んだ。幸い、この沈黙は別段私にとって不利なものではなかった。やがて昇天門に到着したからだ。門の前で振り返ったリクビエルが目を細める。間違いなく笑っている目だ。
「心配には及びません、マゼンタ。陛下の恩寵は失敗したことがありませんから」
扉が開き、隙間から昇天を祝う歌と音楽が漏れてくる。私は改めて身なりを整え、中へ足を踏み入れた。正面に見えるのは皇帝だ。だらりと伸びた黒い髪を除けば、簡素な装いだ。昇天の儀そのものは開催の可否のみが知らされ、外部には公開されない。だから不思議はない。帝国の古い礼法に則って挨拶をし、片膝をついて跪くと、伏せた頭の下に皇帝の素足が見えた。
「面を上げよ」
その言葉に従うと、間近に皇帝の顔が見えた。甘い香りが漂う。何が起きているのかすぐにわかった。リクビエルの言ったとおりだ。皇帝は私の顎を掴み、何も言わずにこちらを見据えた。
「何か間違いがあったのなら……」
「静かに。しばしそのままでいろ」
皇帝は顎を掴んだ手を広げ、指先を首筋に当てた。どう見ても脈を測っている。皇帝は誤魔化すつもりもないようだった。動かすことも隠すこともできない脈拍が、そのまま皇帝の指に伝わる。自ずと視線がその手に向くと、皇帝が言った。
「目を逸らすな」
私は言うとおりにした。皇帝の手首から立ち昇る肌の香りが頭を満たす。聖歌隊の歌う昇天歌が二番に差し掛かり、得体の知れない高揚感に鼓動が速まる。顔が弛むのを抑えるために、眉間に力を込めねばならなかった。意図せず目元に皺が寄る。皇帝は安心させるためか、あるいは嘲笑っているのか、口角を上げた。
「立て、マゼンタ・コンルシオ・セレス」
「はい」
皇帝は私の手を軽く握り、広いホールを横切って歩く。ゆっくりとした歩みだ。転ばぬように用心する。脳内でホルモンが湧き出るのを鮮明に感じ取れた。感覚が過剰になっているせいで、まるで泥酔しているかのような眩暈を覚える。
「対面するのは初めてだが、そうは思えんな。かねてより名は聞いていたぞ」
「憶えていてくださるとは思いませんでした」
「反乱軍の首謀者を討つことに生涯を捧げたではないか。ああ、無論……そのような者は多い。だが、成し遂げたのはお前だけだ。将軍たちがしきりにその名を挙げていたぞ」
「光栄に存じます」
「無論、お前を疑ったこともある。そのような類の報告も折に触れて上がってきたのでな。昇天門の設計図を持ち出したなどといったことが」
「幸い、潔白は証明されました」
「ああ。今となってはどうでもよいことだ。高位の天使が朕に耳打ちできるのは知っているか?」
私は頷いた。
「はい」
「話は聞いている。リクビエルが言うに、お前は恩寵のことを気にかけているらしいが、どうだ。まだ恩寵が定着していないと思うか?」
「……いいえ」
「そうだ。朕が授ける恩寵はそのようなものではない」皇帝が言った。「朕は、昇天者たちに愛を与える」
皇帝の言ったその単語のおかげで、私の混乱していた感情も乱れた精神も、すべて一点に収束して綺麗に整った。
「人間の鼻の中にはヤコプソン器官というものがあったが、用途を失って消滅した。ヤコプソン器官は、フェロモンを感知する原始的な器官だ。原始時代において、愛とは互いに異なる生物群系の結合だった。身体の諸器官から分泌されるフェロモンを感知し、その妥当性を見極めることに価値があったのだ。だが人間は社会を形成するにつれ、フェロモンで配偶者を探すよりも生存に有利な手段があると気づき、結果としてヤコプソン器官は尻尾のように退化してしまった。恩寵施術の主たる目的は、それを蘇らせることにある」
「……陛下のフェロモンを嗅ぐためですか?」
「そのとおりだ。施術を受けたヤコプソン器官は、特定のフェロモンのみを感知して受容する。お前の鼻の神経節は、ただの痕跡となっていた古の神経を辿り、人間が忘れていた愛を蘇らせる。キューピッドの矢、愛の妙薬だ」
私は混乱を胸に口を開いた。
「なぜ……そのようなことを仰るのですか? これは……」
「洗脳も同然だと言うのか? 心を操作されたと知れば、昇天者が朕に負の感情を抱くとでも?」皇帝はホールの突き当たりの、昇天門と呼ばれる機械の前で振り返る。「自分の口で言うのだ、マゼンタ。真実を耳にして、お前の愛は冷めたか? そうではあるまい。朕はお前を手にいれるため、それ相応の手を打ったにすぎぬ」
自分だけのためではない。そうわかっていながらも、否定のしようがなかった。もはや立っていられないほど脚の力が抜け、私は崩れるように膝をついた。
「仰せのとおりです。しかし、陛下を邪な欲望でお慕いすることは不敬にあたります。どうかお許しください」
「罪を赦す。どの昇天者も同様だった。どうしてお前だけを罰せようか」
私は皇帝の手を取って立ち上がる。見上げた皇帝の目尻が、いくらか下がっていた。皇帝は何かを期待していたが、予想の範疇を超えないと悟って興味を失ったのだ。
「昇天の儀を始めよ」
皇帝の命に従い、家臣たちが近づいて私の衣を脱がせる。すると、皇帝は興味深げにこちらを眺めた。
私は皇帝に言う。
「……陛下、どうかお下がりください」
「なぜだ?」
「無礼を……犯してしまいそうです」
皇帝は私の身体を見下ろし、小さく声を出して笑う。
「なるほど。その昂りは鎮めたほうがよいな」
皇帝は昇天門から離れ、私は機械の上に横たわった。家臣たちが私を機械に固定して縛り終えると、皇帝がふたたび近づいてきた。私の頭のそばに肘をつき、悪戯めいた笑みを浮かべて言う。
「すまないが、お前の愛とは裏腹に、朕を抱くことはできぬだろう」
「陛下、私ごときがなぜそのようなことを望みましょうか?」
「だが遠征船ではわからんぞ。そうは思わぬか? 朕は配偶者を昇天させることはない。新たな星系では、新たな皇家を継ぐことになるのだからな」皇帝は、私の頬を手の甲で撫でた。「無論、朕がこの話をした昇天者はお前が初めてではない。しかし、あれだけ無数の遠征船があるのだから、そのうちの一艘で朕がお前を抱くかもしれぬではないか。そうだろう?」
とんでもない冗談を口にしながらも、皇帝の姿はただただ美しかった。
「お前の顔は朕の好みではある。可能性が皆無というわけではない」
一縷の期待に、胸が抉られるようだ。昇天門が光を放つと、皇帝の姿が遠ざかった。昇天が始まる。
そして、瞬きする暇もなく眩い光が消え、高かった天井が飛びかかるように低く迫ってくるのがわかった。頭がずきずきと痛み、指先と爪先から燃えるような熱が這い上がる。何かがおかしい。
〈続〉
告知
- ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(上)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-1)
- ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(中)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-2)
- ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(下)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-3)
先行公開日:2026年8月1日 一般公開日:2026年9月5日
カバーデザイン:ファン・モガ
本作は、作家や翻訳者たちが、韓国SFの新しい風を紹介する企画「ニュー韓SFプロジェクト」の一環として翻訳された作品です。
ニュー韓SFプロジェクト
企画:ファン・モガ
翻訳・編集:廣岡孝弥、かかり真魚
構成・編集:正井
協力:VGプラス

ウィレ著者
ウィレ著者
2010年8月Naver「本日の文学」シリーズに「迷宮には怪物が」が掲載され作家として本格的にデビュー。以後ウェブ小説「魔王が多すぎる」「賢い文明生活」の連載のほか、様々な媒体に寄稿している。2022年には「殺す方が宜しい」で第2回BritG終末文学賞を受賞。BritG終末文学賞はゾンビとボディ・スナッチャーをテーマとしたSFやホラーなどのジャンル小説に特化した文学賞だ。さらに2023年には「両足で歩く男の怪談」で第11回SFアワードを受賞、2024年には本作「マゼンタ・C・セレスの愛と革命」で第12回SFアワードを受賞。作家名のウィレ(위래)は韓国語の上(위)と下(아래)を合わせて作ったペンネームだ。
廣廣岡孝弥翻訳者
廣岡孝弥翻訳者
1981年富山県生まれ。『トトノイ人』をはじめ、リトルプレスの制作やサポート業に従事。2021年第5回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」にて『モーメント・アーケード』で最優秀賞を受賞。ファン・モガ『生まれつきの時間』等の翻訳を手がける。
日本と韓国のSF作家による『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、韓国の作家の交換日記の翻訳を手がける。