マゼンタ・C・セレスの愛と革命(中)
10,309字
目は暗順応が働かず、暗闇ばかりを見つめていた。視界の片隅にある光を確かめようと身を起こしかけて、腰が固定されていることに気づく。初めて見る種類の施錠装置だが、ボタンひとつ押すだけで外れた。すると、何がおかしいのかがわかった。
私の身体はふわりと浮いて、大きくはない部屋の隅に投げつけられた。そして跳ね返され、部屋の中央を漂った。重力がない。唯一光を放っているのは四角いスクリーンだ。どこを見ても、見覚えのあるものが何もない。帝国の遠征船ではないことだけは確かだった。
記憶を失ってしまったのか? 遠征船が拿捕されたのか? それは不可能に近い。一隻の遠征船には、ひとつの星系が何十年もかけて蓄積した人的・物的資源が投入される。移動しているため「船」と呼ばれはするものの、規模と質量で見れば一億人以上が暮らす超大型衛星居住区に匹敵する。遠征船それ自体が侵略戦争のための旗艦であり、積載された戦艦だけでも二百隻を超える。今更のように、私は別の可能性に思い至る。
昇天してから、想像を絶するほどの長い時間が経っているとしたら? 昇天は、神経節と脳の構造を完全に複製できる技術だ。そして、複製された昇天者の意識は永久に保存できる。帝国が消滅したあとの時代にいる可能性も考えておく必要がある。
しかし、私が横たわっていた機械や部屋の大きさ、扉の形状、そして無重力状態に備えて部屋のあちこちに取り付けられたバーは、この部屋の利用対象者が私の知る生物学的人間からさほど逸脱していないことを暗示している。ということは、光を放つスクリーンも私が想定する種類のものである可能性が高い。
一見して、専門的な技能を要する代物ではない。直感的な形状の入力機器は、手を載せると無重力状態でも人間が操作できるように設計されているらしい。室内に光が乏しく重力がない状況は、あまりいい兆候ではない。だが、艦内に問題が生じた際に発せられる警報も特に出ていない。そのうち扉の向こうから誰かが入ってきて、今の状況を説明してくれるかもしれない。部屋を出るか迷った末に、私は入力機器に手を載せた。
まず探すべきは言語変換だった。スクリーンには何やらいろいろな言語が表示され、簡単なグラフやポップアップが並んでいたが、理解できなかった。帝国の存在そのものが歴史から忘れ去られるほどの未来でなければ、帝国語くらいは残っているはずだ。帝国の民である私が残っているのだから。
一般的な惑星で用いられる車両の幅は、遠い昔、人間が「地球」という小さな惑星に張りついて暮らしていた頃に定められた。車両は道路幅に基づき、道路の幅はそれ以前に存在していた馬の引く馬車に、馬車はすなわち馬の体格に、そして馬の体格は地球の生態環境と重力に基づく。その連続性を考えれば、この機器の操作パネルも大して変わらないはずだ。決まりごとや符号の中には、見慣れたものもいくつかあった。たとえば「X」は削除のための記号で、ユーザー設定は画面の隅に配置されていた。言語設定の変更にさほど時間は要さず、画面に浮かぶポップアップを読めるようになった。「対象が昇天門に存在しません。位置を再度調整してください」──別のテキストに目を移すと、扉が開いた。
破裂音とともに何かが耳をかすめ、痛みが走る。
「動くな、リュジン」
ゆっくりと目を向ける。開いた扉の前、私と同じ身体に張りついた宇宙服を着た男が、銃器と思しきものを構えて立っていた。他にも三つ、驚いたことがある。第一に、男の話す言語が一切わからないこと。そして、それにもかかわらず意味をつかめること。三つ目は、自分にも話せそうだと思ったことだ。
「……リュジン?」
「白を切るつもりじゃないだろうな。このまま拘束する、両手で安全バーを握れ。艦はすでに異状を把握している。後続部隊が来るまで大人しくしていたほうが身のためだ」
ひとまず従ったが、誤解は解いておくべきだ。
「私はリュジンという人間ではありません」
男は堪え性がなく、私の足元めがけてもう一発撃った。空をつんざく鋭い音。火薬によって発射され、余圧で自動装填される種類のものだ。大気の有無にも重力の有無にも関係なく使用できる、古典的な武器。私にはとても馴染みがある。
「次に口を開くときは言葉に気をつけるんだな。見え透いた真似をするなら、拘束せずにそのまま射殺する」
「なぜ私をリュジンだと思うのですか?」
「……本気で訊いているのか?」
「ええ」
いかにも心外だという表情が通じたようだ。演技なら見破られていただろう。
「その顔、その声。その宇宙服の名札が、お前をリュジンと見なす根拠だ。なぜそんなことを訊く」
今更のように自分の手を見下ろす。指先まで宇宙服に覆われ、何もわからない。顔を手探りしたところで判別できるはずもなく、途方に暮れたまま視線を彷徨わせた。消えたスクリーンのひとつに、かろうじて自分の顔が映り込んでいる。かすかな光しかなく目鼻立ちははっきりしないが、男の言うとおりだ。
長い黒髪が、無重力の中を泳ぐように広がっている。私はマゼンタの顔をしていない。宇宙服の左胸の名札には「リュジン」と記されている。今になって自分の声に違和感を覚えた。私は〈脳交換〉に思い当たる。帝国でも、免許を持つ外科医であれば難なく行える施術だ。未来だからといって、できない理由はない。
「この機械は、ひょっとして……人間の脳を操作できるのですか?」
よほど間の抜けた質問に聞こえたのか、男は面食らったようだった。
「なんてこった。本当に知らないのか? これは編集機だ。もちろんヨトゥン星系の最新版とは違うだろうが、技術的には十数世紀前の時点で頭打ちになっているはずだ。それ以来、この機械はほとんど変わっていない」
「初めて見る機械です」
私は嘘をついた。
「そうか、いいだろう……待てよ」男は片手で銃を構えたまま、もう片方の手を顎に当てて考え込んだ。「リュジンはこんな芝居ができる有名者ではなかった。危機を乗り切るため、頭に別の人間を転写した可能性も……なくはないな。リュジンでないなら、お前は誰だというんだ?」
私はしばし頭を悩ませた。嘘をつくことも、真実を話すこともできた。
男の使う言語、そして編集機やヨトゥン星系といった単語から判断すると、ここは私の知るどの星系とも合致しない。にもかかわらず、私の存在は完全には消えていない。ひょっとすると、この宇宙で昇天者の私の価値は健在かもしれない。真実を話すことにした。
「マゼンタ・セレスと申します」
「……マゼンタ? マゼンタ・コンルシオ・セレス?」
「私の名前をご存知ですか?」
「もちろん。これは幸いだったな、リュジンではないということだ。……マゼンタ。マゼンタか」
男は銃口を下げ、私ではなく室内をさっと見渡す。目元をかすかに震わせ、反射的に動かしていた視線を一瞬こちらへ向けてすぐに外す。私の注意を逸らし、緊張を緩めようという下手な芝居だ。私は騙されない。すでに、視線とは無関係に下がろうとしていた銃口が持ち上がりつつある。
私は爪先で床を蹴って飛びかかった。男は戦闘要員ではない。銃口を上げ、胸に一発お見舞いして仕留めようという態度を見ればわかる。私なら、まず足を撃つ。銃口を上げる間に敵が飛び込んできては困る。
間合いを詰め、間髪入れずに戸口に背をあずけて男の膝を横から蹴る。鈍い音がして男は均衡を崩し、銃弾が耳を掠めていく。不安定な体勢で発砲したせいで男はのけぞり、歯を食いしばって脚をばたつかせた。無重力であることを忘れた反射的な動きだ。銃を持つ男の前腕を叩き落として引き寄せる。男の腕が曲がり、銃口が自ずと男の顎に向く。予想どおり格闘術に不慣れだ。だからこそ銃を手放さない。銃を持っていれば勝てると無意識に信じている。その銃口が、今は自分自身に向いているというのに。
男が腕を伸ばせないように、息のかかる距離まで詰め寄って男の手を両手で掴む。男は怯えて頭を後ろへ反らす。馬鹿め。男の頭が壁にぶつかる。私は、左右の人差し指を引き金に掛けて引いた。破裂音とともに、銃弾が男の顎と口蓋を貫通する。口径が小さく、頭蓋に穴は空かない。男を放すと、口と鼻元で血が玉を結んだ。表面張力を破って飛び出した血の雫が宙に浮く。しばらく息を整えていると、単純な事実が見えてきた。
私の本来の身体の持ち主はリュジンという人物で、何かの罪を犯した。男はリュジンの罪ゆえに私が危険だと知りながら、殺そうとはしなかった。だがマゼンタの名を耳にするなり、何の説明もなく銃を向けた。ひょっとして私は、遠い未来に存在してはならない者として名を残しているのかもしれない。
* * *
私が憶えている時代から二十五世紀以上、帝国から二千光年以上離れた星系にいると知ったときは実感がなかったが、乗ることになった艦船〈神聖冒涜〉がリング型宇宙船だと聞かされて親しみが湧いた。人類はなお淘汰圧に屈することなく、無重力という極限環境を最も安価で単純な人工重力で解決し続けてきたのだ。
リュジンが殺人を犯す前からパートナーだったアンソニーは、私の命を救おうと積極的に動いていたようだ。その甲斐があったのかは定かではないが、私は七人も殺しておきながら処罰らしい処罰を受けていない。任務から除外されて拘禁状態に置かれ、調査官との面談に進んで応じる程度で済んだ。自分の処罰の軽さを指摘すると、アンソニーは犠牲者が全員有名者だったこと、そして〈神聖冒涜〉が次の廃艦に向けて亜光速移動に入らねばならず、私の殺人を論じる価値が相対的に下がったことを理由に挙げた。
〈神聖冒涜〉は探査船で、ヨトゥン星系の巨大企業であるジブラルタル工業に所有権があるものの、行政上は〈連合〉と呼ばれるゆるやかな星系連合が管理しているという。〈連合〉はヨトゥンをはじめ複数の星系を代表する強大な権力を持ち、単独では遂行できないプロジェクトを代行することもあった。〈神聖冒涜〉の任務もそのひとつだ。かつての大断絶の際にヨトゥン星系を目指し、ついに辿り着けなかった世代宇宙船群がある。この艦の目標は、それを探査・捜索し、資料を収集すること──すなわちレコードにあった。
レコードとは、特定の共同体の知識を統合した情報体系のことを言う。世代宇宙船や遠征船のような巨大な艦は星系単位のレコードを保管しており、それは大断絶で失われた知識を復元する希望でもあった。ひとつのワームホールを維持する関門が破壊されると「断絶」、複数の星系でワームホールが破壊されれば「大断絶」となる。ヨトゥン星系で九世紀前に起きた大断絶は、最も致命的な部類のものだった。それによって、ヨトゥン星系の人々にとって地球や太陽星系はもちろん、帝国さえもただの伝説になってしまったのだ。
連合の支援を受ける〈神聖冒涜〉は、長距離航行をするためそれほど大きくはない。乗務員の総数は二百五十名余り。乗務員が多ければ艦船の質量も必然的に増え、短距離の亜光速航行で加速・減速、停止に要するエネルギーも大きくなる。そのため〈神聖冒涜〉は乗務員の数を絞り、質を重視した。全体に占める有名者の比率を半数近くにしたのだ。
アンソニーによれば、ヨトゥン星系ではそれなりの戦艦でも有名者は通常三名から四名程度しか乗らないという。第一の理由は費用だ。連合は有名者の転写に莫大な費用を請求するが、これは有名者の青写真を作成する際の契約条件も高額であるためだ。第二の理由として、連合から各星系や惑星、衛星居住区の自治政府に至るまで、有名者を転写する際に提示する厳しい条件がある。有名者を私的に流用すれば揉めごとを招きかねず、有名者がデーモンではなくても文化的・社会的に共同体に溶け込めなければ問題が生じ得る。その点、多数の有名者を擁する〈神聖冒涜〉は、連合から無制限の支援を受けているに等しい。他の乗務員も大半は有名者個々人を補佐する人員で、事実上は有名者のみが搭乗する艦船と見ることもできた。
「少しちくっとするよ」
検診のための採血は、思っていたよりも単純だった。アンソニーは注射器で私の血を抜き、検査機に入れた。アンソニーは看護学専攻で、医務艦での勤務歴があるらしい。そのため、〈神聖冒涜〉ではリュジンを担当するパートナーとして配置されたという。リュジンは、遺伝的にいくつかの疾患に弱いようだ。
検査機を操作しているアンソニーに訊ねる。
「科学船なのに、艦内の医療設備が整っていませんね。編集機があれば、もっと簡単に検査できるのでは?」
「うちの艦にも編集機はあるよ。ただ、医務室には置いていない。誰にでも触れる代物じゃないんだ。きみのいた場所と違って、ヨトゥンでは治療機器でもないしね」幸い、アンソニーは私の誤った常識をリュジンのものだと勘違いしているらしい。「廃艦にあった編集機は何世紀も前に造られたものだけど、技術的には今のものとほとんど変わらない。編集機の技術は、大断絶以降発展していないからね。そこで問題が見つからなかったなら、ここではもう調べる必要がない」
編集機のデータを操作するのは難しくなかった。リュジンが自身の記憶を消し、その上に私の記憶を上書きしたのだから、私の記憶が転写された記録を削除すればいいだけの話だ。削除されたデータを復旧する方法がないわけではない。だが、廃艦の運用システムは艦内のプログラマーにとっても未知のもので、わざわざ復旧する必要性を感じないはずだ。アンソニーの言葉が正しいなら、私の犯した殺人自体が〈神聖冒涜〉の全体日程に比べれば些細なことなのだから。
「編集機はもう少し日常的に使うものだと思っていました。私に……かつてのリュジンに殺された有名者も、編集機で転写し直すと聞いています」
「それが可能なのは、契約条件がそうなっているからだよ。殺害された場合、任務継続のために転写し直せるという特約がある。特殊なケースってことだ。一般的には編集機を使うことはない。この艦は遠征船じゃないからね。何世代にもわたるなら別だけど、この任務は一世代のうちに終わる。生命延長法と冷凍睡眠を併用して長い時間を過ごすことにはなるけど、生きているうちにヨトゥン星系に還れるはずだ。有名者の大半は、消耗品の条件では契約しない。そんな契約は、低賃金労働者がするもんだ」
時代感覚についていくのが大変だった。私のいた帝国とは違って、編集機による人間の書き込みと転写にかかる費用は、ライセンス費を除けばほとんど原材料費だけらしい。それでも、人間は節約して使われる。
「帰還することになったら、有名者はどうなりますか?」
「そうだな。ジブラルタル工業は契約どおりの報酬を払うだろうし、探査船に乗っていた期間の未払い分を全額受け取れば、ヨトゥン内のいい場所に住処を構えられるはずだよ。もちろんリュジンは人気の有名者だから、ヨトゥン星系内だけでも何名か転写されていると聞いている。ドッペルゲンガーのルールを守るなら、少し足で稼がないとね」
「どんな暮らしになるのか、わかりませんね」
「知っているリュジンの中で、いちばん有名なのはプロゲーマーだね。正確には元プロゲーマーで、〈神聖冒涜〉に乗る頃には監督に転身する計画があったから今はそうなっていると思う。ヨトゥンは、リュジンのいたノプシアとは違って平和なほうだからね。とはいえ、有名者ほどの能力があれば、どこでも必要とされるはずだ」アンソニーは最後に、私の二の腕に再生軟膏を塗りながら言った。「だからこそ有名者になったわけだし。必要じゃない人間は、みんなレコードに記録されたまま忘れ去られたよ」
編集機が近くにないのは幸いだった。帝国でもそうだったが、今の技術では採血だけで意識の状態を確認することは不可能だから。
「検査はどうですか? 特に問題ありませんか?」
アンソニーは検査機を自分の方へ向け、じっと見つめた。
「大丈夫だ。医務室のコンピュータは薬を処方しろと言っているが、無理に飲みたくはないだろ?」
「ええ」
アンソニーが言う。
「リュジンについては、何か調べてみた?」
「はい。ソリエさんがアクセスカードを届けてくださったんですが、もともと有名者リュジンに興味があったそうで。それで、いろいろとお話を伺いました」
「そうか、たとえば?」
指揮官有名者は常に人気がある。通常、長期航行をする世代宇宙船や探査船はリング型になり、貨物船は積載量を最大化するため箱型になる。同様に、戦艦の場合は前方投影面積を狭くし、さまざまな大きさのワームホールを通過するため針型となる。形が同じなら機能も同じだ。大断絶による技術の停滞が原因で、戦術も固定化している。結果的に、戦闘の勝敗は指揮官の能力に左右される形になっていた。そのため、自治政府間の争いや連合に対する反乱、あるいは外敵との戦闘の際に、指揮官有名者はたびたび招集された。それが数世紀にわたって繰り返され、ついには指揮官の対戦成績の統計が公開されるほどになっていた。
リュジンの場合、そういった面で特に抜きん出ていたわけではない。保守的な戦術を好むため、どのような指揮官を相手にしてもおしなべて善戦する。だがそうなると、転写する必要性は相対的に下がる。リュジンの真価は、最高指揮官の座について複数の指揮官を従えるときに発揮された。用兵術と有名者のメタ戦略に優位性を示すリュジンの性質上、ヨトゥン星系において「リュジン対リュジン」の勝敗を分けるのは各共同体の資源運用術だった。時の流れに従って忘れ去られる有名者もいれば、新たに浮上する有名者もいる。長い歳月を経ても忘れられることのない有名者は「古典」と呼ばれる。リュジンは、まごうことなき古典だった。
その点、マゼンタ——つまり私が、なぜリュジンの宿敵と呼ばれるのかは疑問だった。私は帝国の基準では植民地出身の兵士で、その出自の利点を口実に帝国のスパイとして革命軍に入隊した。大隊単位の戦術までは自信があるが、艦内戦闘ならまだしも戦艦の指揮は私の能力を超える。レコードそのものは学習装置ではないため、このような問いに対する答えを見つけるのは容易ではない。リュジンに関しては、ソリエが豊富な情報を持っているのが幸いだった。私はそれとなく、マゼンタがリュジンの宿敵と呼ばれる所以を話すようソリエに水を向けた。
小顔のわりに唇の厚いソリエが、いつものぶっきらぼうな口調で言う。
「マゼンタがデーモンだからだ」
「どういう意味ですか?」
「マゼンタは、艦隊戦の指揮官として転写されるのではない。レコードを積んだ違法貨物、あるいは認可を受けていない実験室や隔離された科学船で、誰かのミスや思い込み、事故が原因で転写される。そして、ほぼ全てのケースで施設が破壊される。リュジンは星系の最高指揮官であることが多く、そういった事案の責任者になる確率も高い。だから、その二者の鉢合わせは偶然というには頻繁に起きる。ただし、星系の規模が小さく、使える資源や支援が不十分な場合、指揮官のリュジン自身も現場に突入することになる。その状況では、マゼンタとの勝率はほぼ互角だ」
「ですが、リュジンが最初に相手をしたマゼンタは帝国遠征軍だったと聞いています。そのときは、リュジンが苦もなく勝利をおさめたのですか?」
「いや。マゼンタは衝角戦術を使った。艦内戦闘となり、リュジンとマゼンタが直接ぶつかり合う激しい白兵戦に発展した。最終的にリュジンが勝利したが、リュジンがマゼンタの剣で刺し貫かれたのは有名な逸話だ」
帝国軍の指揮官は剣を身につけているため、ありそうな話ではあった。しかし、自分のしでかしたことだと聞いても今ひとつ腑に落ちない。そもそも、衝角戦術を使ったとは。
幸い、リュジンから自然に私の話を引き出すのはわけもないことだった。全体の勝率で見ると、リュジンと私の対戦で私が勝利するケースは相対的に少ない。だがそれとは別に、原因不明の事故で艦内の人員が失踪したり、艦船そのものが消失したりといった類の怪談じみた話では、私が容疑者として持ち出されることが多いようだった。つまり、リュジンが勝利したのはマゼンタが仕事を終える前に運よく発見できたケースにすぎない。そして宇宙のどこかでは、連合の許可を得ていないレコードから不法に転写されたマゼンタが人々を皆殺しにし、艦船を爆破しているというのだ。
言うまでもなく、私はこの艦船の搭乗者を皆殺しにしたいという衝動も抱いておらず、その必要性があるとも思っていなかった。私は、人々の語るような、伝説の中の狂った殺人鬼ではなかった。
「マゼンタという人物がなぜそうするかは、ご存じないのですか?」
「わからない。連合が主導した研究の資料がどこかにあるのかもしれないが、マゼンタは研究目的でも保管や転写が禁じられている」
「でも、宇宙は広いでしょう。マゼンタの青写真さえ手に入れば、編集機を備えた艦船から遠隔でテストできるはずです。編集機の使用情報が連合に送信されるとしても、連合が阻止できないほど離れていれば手の施しようがありません。そのくらい好奇心旺盛な人間は、宇宙に大勢いるのではありませんか?」
「どうだろう。そうやってマゼンタを転写したとしても、〈自滅器官〉があるはずだからな」
説明を聞いていると、もつれた糸が解けていくようだった。自滅器官は、有名者が青写真をレコードに転写する前に脳に埋め込まれる。意志導出式、口腔圧力式、眼球調節式、遅延式、自動条件式など方法はさまざまだが、発動すれば自殺するという結果は同じだった。自滅器官は有名者自身を守るための手段だ。簡単に言えば、契約条件を履行できない場所への転写や、極端なケースでは有名者を転写して拷問を加えるような場面で、そこから脱出するために体内に埋め込まれたスイッチというわけだ。そして、有名者の概念のない帝国で「昇天者」の名のもとに転写された私の場合、自滅器官は存在しなかった。
だから、私は他の誰かにとって邪悪な存在でなければならないのだ。連合によってデーモンに分類されれば、私は自滅器官を持たない事実を悟られずに済み、それ以降は転写された無数の自分が存在しないようにできる。言い換えれば、今の私がリュジンとして認識される限り、他者に死の脅威を感じる必要もなく、他の人たちを殺す運命を負うこともない、ということでもあった。
しかし、この解釈はまた別の疑問を生む。リュジンの目的が自殺なら、自分の自我と記憶を消去するだけで十分だ。いや、保安チームだったのだから、整備を名目に銃を確保して頭に一発撃ち込めば済む。リュジンは宿敵の私に、罪の代償を払わせたかったのだろうか? 有名者に恨みを持つことに大した意味はない。有名者は、自らを転写することで単独者としての生を放棄する。一人称の怨みなど、この宇宙の大きさに比べれば塵ほどにもならない。
もちろん、糸はまだもつれている。
夕食後に検査のため再度落ち合う約束をして、医務室を出た。私の部屋は両脚をかろうじて伸ばせる程度で、睡眠を取るか軽い事務作業をするか、あとは所持品を保管する程度にしか使えない。私は時計を確かめると枕をひっくり返し、スポンジの中から薬瓶を二つ取り出した。ひとつはシクロスポリン、もうひとつはステロイドだ。それぞれの表面には、荒い筆致で服用時間と用量が記されている。二つの薬の分子構造は異なるが、用途は同じ目的のもとに一致している。免疫抑制剤。自己免疫疾患や臓器移植に伴う免疫拒絶反応を抑えるものだ。リュジンはこの薬を計画的に所持していた。恨みを持つリュジンが私を苦しませて殺すつもりだったなら、あるいは、マゼンタの存在を隠蔽できないようにする目的だったなら、脳を移植して黙っていればいい。私の脳と脊髄神経は、リュジンの身体の免疫反応に耐えられず死滅するか、死を免れるため自分の存在が編集機で転写されたことを人に伝えていただろうから。薬を手元に用意していたということは、リュジンは私が生きることを望んだのだ。
もうひとつ真実がある。シクロスポリンもステロイドも、血液検査によって体内の血中濃度が判明する。にもかかわらず、アンソニーは私の血液の異常に気づかなかった。もしくは、気づかないふりをした。気づかないわけがない。私がこの薬を服用していることは、モニターにはっきりと示されている。アンソニーは何らかの方法で、薬について私に探りを入れたはずだ。文化圏が違うとはいえ、看護学専攻だったというアンソニーが、末端の兵士にも劣る生理学・薬学の知識しか持たないなどありえない。レコードを見る限り、ヨトゥン星系の人々が臓器移植を行わない証拠はどこにもない。だとすれば、単純な事実だけが残る。アンソニーは私に、看護学を専攻したと嘘をついたのだ。アンソニーは信用できない人間だ。
そして、リュジンもそれを察したはずだ。ということは、リュジンはアンソニーから薬を処方されていない。私はレコードを覗き、二つの免疫抑制剤を定期処方される可能性のある、または実際に処方されている有名者を探す。レコードで有名者を調べる作業は、記憶を失くして何もすることがない私のような人間が時間を費やすのにふさわしい。いくら時間をかけたところで、疑う者はいないだろう。検索記録を外部からチェックすることもできるが、私の目的が容易に露見することはない。しばらくすると、この艦に乗っている有名者がひとり、検索に引っかかった。
〈続〉
告知
- ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(上)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-1)
- ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(中)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-2)
- ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(下)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-3)
先行公開日:2026年8月1日 一般公開日:2026年9月5日
カバーデザイン:ファン・モガ
本作は、作家や翻訳者たちが、韓国SFの新しい風を紹介する企画「ニュー韓SFプロジェクト」の一環として翻訳された作品です。
ニュー韓SFプロジェクト
企画:ファン・モガ
翻訳・編集:廣岡孝弥、かかり真魚
構成・編集:正井
協力:VGプラス

ウィレ著者
ウィレ著者
2010年8月Naver「本日の文学」シリーズに「迷宮には怪物が」が掲載され作家として本格的にデビュー。以後ウェブ小説「魔王が多すぎる」「賢い文明生活」の連載のほか、様々な媒体に寄稿している。2022年には「殺す方が宜しい」で第2回BritG終末文学賞を受賞。BritG終末文学賞はゾンビとボディ・スナッチャーをテーマとしたSFやホラーなどのジャンル小説に特化した文学賞だ。さらに2023年には「両足で歩く男の怪談」で第11回SFアワードを受賞、2024年には本作「マゼンタ・C・セレスの愛と革命」で第12回SFアワードを受賞。作家名のウィレ(위래)は韓国語の上(위)と下(아래)を合わせて作ったペンネームだ。
廣廣岡孝弥翻訳者
廣岡孝弥翻訳者
1981年富山県生まれ。『トトノイ人』をはじめ、リトルプレスの制作やサポート業に従事。2021年第5回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」にて『モーメント・アーケード』で最優秀賞を受賞。ファン・モガ『生まれつきの時間』等の翻訳を手がける。
日本と韓国のSF作家による『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、韓国の作家の交換日記の翻訳を手がける。