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マゼンタ・C・セレスの愛と革命(下)

マゼンタ・C・セレスの愛と革命(下)

10,002字


下部にある休憩室は〈神聖冒涜〉内の最も広い空間で、必要に応じて家具を折り畳んで講堂として使用したり、ゴールやネットを持ち込んで簡単な球技を楽しんだりもできた。普段は非番または勤務明けの乗務員がテーブルを広げて腰を下ろし、カフェテリアとして使用している。ドリンクサーバーがリュジンを認識し、いつもの飲み物を出す。あいにくコーヒーだった。私は、コーヒーを好きだと思ったことが一度もない。しかしリュジンを演じる以上は口にするしかなく、最初の一口を飲み込んだ。鼻に絡みつく香り、舌に残るほのかな甘みと酸味、後を引く苦みが感じられる。記憶と思考は私のものだが、身体の神経はもちろん受容体までリュジンのまま残っているらしい。脳が交換されたというより、結合された形に近い。私の感じるコーヒーは、リュジンが感じていたままの味わいなのだ。私はコーヒーを啜り、親しげな素振りで軽く挨拶をして通り過ぎる人々に応じながら座っていた。待っていた相手が現れたのは、コーヒーをほとんど飲み干した後だった。
「ここで何をしているんだ?」

顔を上げると、ロレンツォが持ち前の無愛想な表情で立っていた。
「アンソニーさんが、そろそろ人と会ったほうがいいとおっしゃるので。ある日目を覚ますと殺人犯がうろついていた、というのでは、みなさんびっくりするでしょう。予定のない方々は、もう加速前の仮眠に入ったと聞いています」
「正式な許可は出ていないはずだが」

私は、ソリエから受け取ったアクセスカードを差し出す。本来は識別されない身分を示していた灰色のカードは、今や正式な乗務員を意味する青い帯をまとっている。ロレンツォはカードを一度裏返して確認すると、向かいの席に座って私に返してきた。
「前もって言っておくべきだな。乗務員の何人かに、リュジンが外部に姿を見せて大丈夫なのかと訊かれたぞ。説明しなかったのか?」
「できる方にはしましたが、私の顔だけ見て通り過ぎる方にはそうもいかなくて」
「それは責められないな」

やや寂しそうに見えるのを狙って、私は視線を遠くへ投げた。
「ここに座っている間、声をかけてくる人はあまりいませんでした。レコードを調べたところ、リュジンはそれほど友人のいない人間ではなかったように思うのですが。ここから導けることは、ひとつしかありません」私は、ロレンツォと目を合わせた。「リュジンが殺したのは、みんな自分の友人だったということですね?」

ロレンツォは淡々と私の言葉を受け止めた。
「そのとおりだ。他の研究や技術なんかのチームに比べて、保安チームは適性が違って軍人出身者も多い。そのぶん、交流がうまくいっていない印象があった。でも、保安チーム内はかなり仲がよさそうに見えたぞ。特にリュジン、お前はな」
「そんな人たちを、私が権力欲しさに殺害したというのですね」
「状況を見る限り、そういうことだ。この話はもう終わったと思っていたんだが」

私は演技をやめて、外套のポケットに手を入れた。そして脚を組み、背もたれに体をぐっと預けた。椅子が軋んでわずかに後ろへ倒れる。ロレンツォはいささか訝しげにこちらを見つめる。空気を変えて注意を奪うのが狙いだったので、成功と言える。ロレンツォは、私の言葉に集中するしかなかった。
「ロレンツォ・カルヴァリューは十一世紀前、サンクタム星系の衛星居住区ニュー・プロヴィデンスで警護の任務中、投げ込まれた手榴弾から守るために身を投げ出しました。防護服は着ていましたが、内臓にひどい損傷を受け、臓器の大半をドナーからの移植で置き換えることになりました。サボタージュで編集機がすべて破壊され、孤立した衛星居住区では、それが最善策でした。任務を果たしたロレンツォは、その後も複製臓器を移植し直すことはなく、免疫抑制剤を飲みながら活動を続けました。有名者として青写真を転写する際も、提供された臓器を維持していました。なぜでしょうか?」

ロレンツォは苦笑いを浮かべた。
「裏を探るのは、親しくなる方法としてあまりよくないな。それに、そこまで調べたなら理由もわかるんじゃないか?」
「当の本人が目の前にいるのですから、直接伺うべきではありませんか?」

ロレンツォは首を左右に振った。
「事故が起きたニュー・プロヴィデンスは俺の故郷だ。サンクタム連盟の植民地になる前は、暮らしやすい場所だった。臓器を提供してくれたのは、みんなニュー・プロヴィデンスを守るために死んだ軍人たちだ。それを取り替えるのは、独立のために戦うと誓ったニュー・プロヴィデンスの勇敢さを取り替えるのと同じだ」
「しかし、それは嘘です。あなたは免疫抑制剤を飲んでいないのですから」
「なんだと、なぜそう思う?」

私は、ポケットから免疫抑制剤の入った二つの薬瓶を取り出す。
「あなたはそもそも、薬を処方される必要がありません。有名者としての今後の人生を考えれば、それは大きすぎるリスクでしょう」
「だったら、なぜ処方されるんだ?」
「まず第一に、ロレンツォ・カルヴァリューという有名者を温かい印象にするため。ただ善良そうに見せるのではなく、歪んだ認識を植え付けるということです。情報の非対称性は、関係を築く上で有利に働きます。第二に、あなたが飲まなければならない免疫抑制剤を餌にして、誰かが交渉を持ちかける可能性があるから。あなたは交渉に応じるふりをして、状況を有利に進めることができます。そして第三に」私は時計を確かめ、決まった量の薬を口に放り込んで残ったコーヒーを飲み干す。「必要な人に譲ることもできる」

レコードの情報が操作され得る、あるいは不足した状態にあることは、すでに私の事例で確認できる。レコードは膨大な情報であるにすぎず、完全なものではない。そもそも、連合がレコードに完全な情報を求めているのかも疑わしい。宇宙で手に入る最良の知識がレコードのみだとすれば、それを操作できる連合は相手が誰だろうと欺くことができる。レコードの情報はあまりに膨大で、小さな星系でもすべての知識を実証して反例を見出すのは難しい。レコードに記されていれば、それを公認の知識として受け入れるしかない。レコードは、発見された人類の知識の総体として知られているのだから。

ロレンツォは何も言わない。

私は続けた。
「薬の処方記録が残ってしまうから、私が編集機でリュジンの身体に入ることを隠すためにリュジンとあなたが事前に示し合わせた。これは言い逃れのできない事実です。重要なのは、あなたは私が来たと知りながら、特に接触もせず黙認していたということです。私は、なぜここに来たのですか? リュジンとどんな計画があったのですか? なぜ私に何も言わなかったのですか?」

ロレンツォが口を開いた。
「俺はお前が誰なのかわからない。計画は、すべてリュジンが立てた」

ロレンツォが私の正体を知らないことを、幸運と受け止めるべきか。迷ったが、それが重要だとは思えない。
「ですが、黙認したでしょう」
「有名者の殺人か? 死んだらまた転写すれば済む話だ。大したことじゃない。団長の決定で艦長が問題にしないなら、もう終わったことだ」
「転写できるからといって、有名者の命が安いとはなかなか思えません。レコードであなたの記録を見ても、特異な倫理観を持っていると判断する根拠はありません。それなのに、大したことではないと言うのですね」

ロレンツォはため息をついた。レコードによれば、ロレンツォは正義感の強い人物だ。自分の信念を貫こうとするなら、どんな拷問にも口を割らないだろう。だが、自ら義に背くと判断したものであれば、言葉で揺さぶるだけで情報を引き出せた。
「ああ。リュジンと俺の計画だったのは事実だ。だが、リュジンが反乱を企てたこと、そして仲間の説得に失敗したことも事実だ。お前の存在は、計画の副産物にすぎない。その中で俺は疑いを持つようになり、お前に接触しなかった。そして、計画を破棄することにした。まさかお前が訪ねてきてこうやって話すことになるとは思わなかったが、考えが変わったわけじゃない」
「反逆を企んだということは、リュジンはこの艦を支配するのが目的だったのですね。私は、その代わりの駒というわけです」

そう言うと、ロレンツォが笑った。
「リュジン自身にもできないことを、他人に任せるとでも? できるなら他人に押しつけず、一人でやるだろう」
「では、リュジンはなぜ私に身体を譲ったのですか?」
「さあな。目星は付けられるが」ロレンツォは顎を撫でた。「ひょっとしてお前は、リュジンの友人か家族、あるいは恋人なのか?」
「関係性はそれに近いでしょうね」
「この艦は退屈かもしれないが、悪くない暮らしが保証される。ヨトゥン星系へ戻るときに支払われる保障額も、他とは比較にならないだろう。力を無駄にせず、静かに過ごしたらどうだ?」
「話を逸らしていますね。私が本題に入るのを恐れて」
「本題だと?」

妙に自信に満ちた態度に違和感を覚えた。行軍中に踏んだのが固い地面ではなく、ぐにゃりとした戦友の体だったかのような。それでも私は、ロレンツォを追い詰めるために言う。
「なぜ反逆を企てたのですか?」

ロレンツォは答えずに微笑む。すぐ背後から足音が迫る。ソリエだった。ロレンツォとソリエの視線が交差した瞬間、私は失敗を悟った。ロレンツォなら当然、誰かが私に近づけば警告するはずだと思っていた。しかし、そうではなかった。ロレンツォは、ソリエの姿を見てもおくびにも出さなかった。背後に誰かがいることを、故意に知らせなかったのだ。

ソリエは、私の肩に手を置いて囁く。
「リュジン、アンソニーが医務室で待っている」


* * *


医務室に入ると、アンソニーが注射器を手にしていた。
「アクセスカードのアラーム、鳴ったはずだぞ」
「聴こえませんでした。検査は夕食後にすることにしませんでしたか?」
「腕、いいかな?」

私は拒まずに採血を受け入れた。
「アンソニー、これは何の検査ですか?」
「言っただろ、簡単な健康診断だよ。リュジンの編集機を操作する腕は確かだったけど、何があるかわからないから。特に、脳みたいな敏感な部位は継続的にチェックしないとね。血液検査だけでも、こうやって検査を続ければ……」
「脳の問題なら、編集機で内部を撮影したほうがいいのではありませんか?」

モニターを眺めていたアンソニーが、軽く首を傾げて私を見つめる。目元の緊張がいくらか解けていた。私がロレンツォの前でそうだったように、アンソニーも演技する必要性を感じられなくなったのだ。
「ロレンツォの話をちゃんと聞いたと思っていたが。違ったか?」

私は覚悟を決めて言う。
「あなたは誰ですか?」

アンソニーが私に近づく。
「俺は、名もなきデーモンだ」
「……名もなきデーモン?」
「正確には、ヨトゥン星系のレコードに記された〈名もなきデーモン〉の項目にある、七十八番目の〈名もなきデーモン〉だ」
「では、アンソニーというのは……?」
「もちろん、俺は部分的にはアンソニー・グレゴリー・フレーベルだ。ひとりの人間の肉体と実体が一致するのは特殊なケースだ。だから、有名者の青写真には脳だけでなく身体の形態も記録されている。しかし編集機を使えば、脳と身体が一致しない……」デーモンは私を指差し、それから自分を指差した。「お前や俺のような〈キメラ〉を作れる」
「……いつから?」
「いつからか?」

デーモンは得意げに後を続ける。
「お前の知っているアンソニーの情報は、大きくは間違っていない。フレーベル・アカデミーの社員育成プログラムによって作られたアンソニーは、ジブラルタル工業の艦を転々としながら働いていた。リウン鉱業所、ヨンサン物流、ゼータドライブといった場所を渡り歩き、やがてこの〈神聖冒涜〉に乗ることになった。〈神聖冒涜〉の目的も、お前の知っているとおりだ。救難信号を追って廃艦を見つけ出し、忘れ去られたレコードを発掘して記録に残すこと。そして俺は、その忘れ去られたレコードのひとつに青写真として転写されていた。探査中に見つかった青写真のコピーは転写しない決まりだが、艦長だけが何を思ったか、俺を大変な価値のある有名者だと勘違いした。ヨトゥンでは青写真の転写も取引も違法だが、ほかの圏域はそうではない。広大な宇宙で、価値ある有名者の青写真を取引するのはよくあることだ。艦長は、他の乗務員が加速に備えて眠った隙に編集機で俺を転写した。俺を迎えたのは艦長と、その命令を受けた数少ない乗務員だった。その信頼を十分に得た後、編集機で一人ずつ脳を取り出し、俺の青写真から脳だけを転写させた。そして、艦が次の目的地へ移動するに従って順に目覚める乗務員を、俺の分身とともに一人ずつ同じ方法で処理していった。有名者は殺した」

私は、純粋な疑問を投げかけた。
「有名者を、なぜキメラにせずに殺したのですか?」
「文明に対する評価は、人口や規模、穀物の産出量ではなく、その文明が輩出した偉人によって決まるという。有名者は、一人ひとりがその時代を席巻した偉人だろう。その身体を俺が代わりに引き受けたところで、価値があるはずもない。そんなことをするくらいなら、利用してやったほうがいい」
「そう簡単に利用できるはずもないでしょう」
「それはそうだ。誰もが易々と騙されてはくれないからな。航行中に複製されて目覚めたことの説明がつかない場合もあれば、過去のデータベースにアクセスできない、あるいは編集機の使用記録が削除されている場合もある。特に有名者は、統制される環境に強迫的な執着を持っている。有名者は、問題を発見したり疑念を抱いたりするだけで、自滅器官を作動させて自殺した。これが問題だ。騙されない賢さを持ち、脅しをかければ自殺してしまう有名者を、どうすれば従わせることができるか?」

答えがわかる気がしたが、口にはしなかった。

私はデーモンを見つめた。デーモンは光を背にして私を見下ろしており、顔が影に隠れて顔立ちがよく見えなかった。
「その答えは〈愛の妙薬〉だ。あるいは、キューピッドの矢と言うべきか」
「どういうことですか?」
「有名者Aを転写し、部屋に閉じ込める。次に、編集機で脳だけでなく形態も操作したキメラBと対面させる。ただし条件があり、キメラBの姿を有名者Aが愛した人物に似せて作るのだ。有名者Aは当代きっての偉人だ。レコードを見れば、有名者Aが愛した者たちの情報も間違いなく残っている。ときには、配偶者や子の青写真が残されていたりもする。その場合、さらに円滑に進む。その青写真を転写して観察し、有名者Aに好意を抱かせる話し方や態度を手に入れたこともある。だが、有名者Aが思惑通りには恋に落ちず、疑念を抱いたり自滅器官を作動させたりした場合、次のキメラを送り込む。有名者Aの脳内に十分な量のフェニルエチルアミン、セロトニン、オキシトシンの分泌が観測されるまで、その過程を繰り返す。恋に落ちるまでということだ。個人同士の対面では終わらせず、対面する人数や空間、任務の状況といった変数を追加していく。最終的に、艦内で日々を過ごす中でも安定した分泌が認められれば、有名者Aのための〈愛の妙薬〉が完成する」

まるで暗号解読の総当たり攻撃だ。だが十分な時間と資源があれば、有名者Aが愛する誰かを作り上げることは可能だった。
「しかし、結局あなたがデーモンであることを隠している以上、真実が明らかになればその愛は疑われるのでは?」
「その仮定は間違いだ、キメラ。真実が明かされても愛が維持されるように作り上げるのが、この計画の目標だ」
「……〈愛の妙薬〉が露見しても、有名者があなたを愛すようにできると? そしてついにはあなたの計画に同調するというのですか?」
「骨は折れる。だが不可能ではない。お前がすでに会った艦内の有名者たちは、俺を愛している」
「……ロレンツォ・カルヴァリューも?」

デーモンは、疑う余地もないというように頷いた。

ロレンツォがなぜリュジンとの計画を放棄したか、理解できた。
「お前にもわかるはずだ。レコードを見ろ。歴史の中で、有名者は自らの意志に反して利用され、消費されてきた。任務を果たせば素晴らしい老後が約束されると言うが、成し遂げたことに比べれば微々たるものだ。だが、この場所はそうではない。愛する恋人、あるいは恋人たちとともにいられる。そして、この艦の中の一人称の有名者だけで終わる話でもない」
「何の話ですか?」

アンソニーは笑みを浮かべて言う。
「俺は、艦内でそれぞれの有名者に代入できる〈愛の妙薬〉を見つけ出した。そんな妙薬を探すのは、星系や圏域の影響力が届く倫理的負荷の大きな場所では不可能な類の実験だ。だが〈神聖冒涜〉という連合の強力な支援、廃艦探査という特別な任務、さらには俺を発見したことまで──思わぬ偶然の連続によって実現した。俺がヨトゥン星系に帰還すれば、〈愛の妙薬〉でどんな有名者でも意のままに動かせる。想像してみろ。民衆の心を掴む名士、何世紀も前に忘れ去られた古代の技術を復元する天才学者、手足のように軍を動かす不世出の指揮官が、何の葛藤もなくひとつの目標のために動くのだ。我々は、かつて古代に存在していたという帝国になるかもしれない」

しばしの沈黙ののち、私は口を開いた。
「私がその話に同意すると思うのですか?」
「そう挑発することはない」

アンソニーがモニターを私のほうへ向けた。そこには検査機の数値が表示されている。アンソニーは検査機に背を向けて腰掛ける。モニターを覗きもしない。
「実を言うと、こんな検査は必要ない。その顔と鼓動だけでわかる。ロレンツォが告発したときは、編集機で脳を入れ替えたと聞いて心配した。だが、リュジンは何か間違いを犯したらしい。感覚受容体が残っている以上、リュジンの身体はまだ俺を愛している。だから、キメラのお前も俺を愛するようになる。リュジンの記憶と意識が消えようと、たとえリュジンが他の何者かになろうと、リュジンの身体が愛すのが俺だという事実は変わらない。さあ、そろそろ教えてくれないか? お前が誰なのか」

その言葉はすべて事実だった。

私は、デーモンにはっきりと愛を感じている。空の杯が満ちるような充足感を覚え、私はかつてそうしたように、その名もなきデーモンの足元に(ひざまず)いた。


* * *


革命は失敗した。

革命軍は帝国軍によって完全に粉砕された。昇天者たちの手によって、今や別の宇宙に残された未来も保証されない。選択しなければならなかった。最後の抗戦を続ける意志のある者は、過半数に届かなかった。だが革命軍はその選択を尊重し、主な物資を引き渡した。残りの者たちは、私とともにその場に留まった。成功する保証のない、最後の計画のために。

雨が天幕を打つ音だけが聴こえる。天幕の中を照らす明るい灯を背に立つ仲間たちの姿は、はっきりとは見えない。

ひとりが言う。
「どのみち、適任者はお前しかいなかったから」
「本当にそう思う?」
「どちらの陣営からも信頼される二重スパイなど、帝国史上お前だけだろう」

別のひとりが言う。
「計画の直前まで疑っていたよ」
「今は違う?」
「だからここにいるんじゃないか」

最後のひとりが言う。
「マゼンタ。ただひとつの帝国ではなく、無数の帝国を倒すために我々は犠牲になるのだ。だから、そう泣く必要はない」

私は銃を握り、袖で涙を拭った。思えば、まるで子どもだった。頑張って冗談を言ってみる。
「私が皇帝に媚びを売る姿でも想像してみたら?」

全員が笑った。
「吐きそうだ」
「同じく。そんなことはしたくない」
「それが我々の願いだとしても?」

私は俯く。
「我々は間違っていないはずだ。無数の人間に愛されるには、フェロモン感知手術しかない。ヤコプソン器官に手を入れれば、前から持っていた信念も崩れ、不正義に抗う心も根こそぎ抜かれてしまう。だから方法はひとつしかない。愛を止められないなら、愛し方を変えるんだ」
「フェロモンの刺激でセロトニンとオキシトシン──つまり我々が〈愛〉と呼ぶホルモンが分泌されれば、お前の頭蓋骨の内側、前頭前野にある腫瘍が膨張し始める。緻密に計算された頭蓋内圧と脳の圧迫は、快楽殺人者の脳と同じ働きを引き起こす。それは愛する相手への暴力的な妄想をもたらし、殺人へのフェティシズムを生むこともあるだろう」
「だが、脳の構造はあまりに複雑だ。それを引き起こすように腫瘍が膨張する根拠はない。脳に移植する腫瘍の大きさや形、影響されるホルモンを変えながら、それが起こりうるあらゆる組み合わせを試す必要があった。お前が盗み出した昇天門の技術と、数えきれないお前の犠牲なくしては不可能だっただろう」

正確には憶えていない。ただ、そんな話をしたような気がする。

計画のために犠牲となり、愛し方を最後まで変えられなかった無数の私たち。帝国の目を逃れるためにひとり残らず焼却され、埋められるか生活廃棄物とともに捨てられた。
「計画は成功したよ、マゼンタ。皇帝の〈愛〉は、これまでただの一度も覆されたことがない。油断しているだろうから、お前ならきっと殺せる。そして、皇帝という中心を一瞬でも失えば、帝国は必ず揺らぐ。あの小さな遠征船の中ともなれば、言うまでもない。どこも地獄と化すだろう」

銃を装填し、最後の涙を拭う。これからは、ただひとつの感情を除いて表に出してはならない。幸い、もはや流す涙も残っていない。私は顔を上げた。
「それなら今すぐ私から逃げて。正面から撃った弾丸は疑われるから」
「別れの挨拶まで、お前らしく取り付く島もないな」

誰かが笑う。
「情に厚いのが心配だ」
「だから、この役目を引き受けたんだろう」
「ああ。〈愛〉を止めるな、マゼンタ」

仲間たちの笑い声が次第に鎮まり、やがて私の言葉に従う。


* * *


私はアンソニーの脚をそのまま引っ張った。デスクに腰掛けていたアンソニーは、息を呑んで後頭部を角に打ちつけた。アンソニーの捨てた注射器を廃棄物の中から拾い、アンソニーの口を塞いでまず腹部に突き立てた。私の手の中で悲鳴が上がる。注射針は折れやすい。骨に触れたり筋肉に絡まったりしないよう気をつけながら、アンソニーの腹にまたがって肋骨の間に何度も突き刺す。口から手を離しても声が漏れないことを確かめてから、身体を引き寄せて首の後ろに空間を作る。アンソニーが手探りで腰に手をやる。拳銃を持っているが、私のほうが速い。頭を固定し、注射器を首の後ろの神経節に突き刺すと、すぐに動きが止まった。

脳内に湧き出るホルモンのせいで、私は軽く震えた。身を起こしながら、ふらついて倒れぬよう意識的に足腰に力を込め、手の甲で口元を押さえた。涎が垂れそうだ。私は興奮を鎮めるため、リュジンのことを考えた。

リュジンは、アンソニーを完全に愛してしまうと殺せなくなると判断した。だから私を転写した。ロレンツォは私が計画の副産物だと言ったが、ひょっとするとリュジンにとってはこれこそが計画だったのかもしれない。リュジンは、保安チームの隊員を残らず始末した。あとの乗務員は武装しておらず、ただの研究員にすぎない。その上、次の廃艦へ向かう加速に備え、相当数の乗員がすでに仮眠に入っていた。まるで、私のために舞台を用意してくれたかのように。

革命軍の任務についても考えてみる。帝国は今や忘れられつつあり、これまでの革命は成功したと見える。無数の皇帝が倒されたことだろう。仲間たちに恥ずかしくはない。だが、皇帝が死んでも私の名は忘れられていないようだった。

最初のリュジンにまつわるレコードの記録は、いくぶん曖昧に終わっている。連合の最前線に立った指揮者たちが誰なのかもはっきりしない。確かめる術はないが、リュジンが私に死すべき運命を与えたのかもしれない。ただ、リュジンがいつ私の秘密に気づいたのかはわからない。愛してしまった相手を殺そうとする、というこの事実は、他でもないその相手でなければ容易には知り得ないはずだ。私は、苦痛に歪んだアンソニーの顔をしばし見下ろした。

残念ながら、真実を知ることはない。愛の最中に脇目を振ることはできないのだから。私は、アンソニーの銃とアクセスカードを抜き取った。こういったリング型宇宙船に適した行動指針と戦術がある。レコードで見た、ヨトゥン星系で広く受け入れられている艦内戦闘マニュアルを逆手に取るのもよさそうだ。デーモンがどう行動するかについても検討の余地がある。デーモンは、まだアンソニーが失敗したとは思っていない可能性が高い。少なくとも、ほんのわずかでも行動を遅らせるために編集機でアンソニーを複製するかもしれない。そう考えると、思わず鼻歌が漏れた。聴き覚えのないメロディだ。

私は、次なる恋人を求めて医務室を出た。

告知

  • ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(上)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-1)
  • ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(中)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-2)
  • ウィレ「マゼンタ・C・セレスの愛と革命(下)」(廣岡孝弥 訳)](https://planet.kaguya-sf.com/stories/mazentacseresunoaitokakumei-3)

先行公開日:2026年8月1日 一般公開日:2026年9月5日
カバーデザイン:ファン・モガ

本作は、作家や翻訳者たちが、韓国SFの新しい風を紹介する企画「ニュー韓SFプロジェクト」の一環として翻訳された作品です。

ニュー韓SFプロジェクト
企画:ファン・モガ
翻訳・編集:廣岡孝弥、かかり真魚
構成・編集:正井
協力:VGプラス

ウィレ

ウィレ著者

    2010年8月Naver「本日の文学」シリーズに「迷宮には怪物が」が掲載され作家として本格的にデビュー。以後ウェブ小説「魔王が多すぎる」「賢い文明生活」の連載のほか、様々な媒体に寄稿している。2022年には「殺す方が宜しい」で第2回BritG終末文学賞を受賞。BritG終末文学賞はゾンビとボディ・スナッチャーをテーマとしたSFやホラーなどのジャンル小説に特化した文学賞だ。さらに2023年には「両足で歩く男の怪談」で第11回SFアワードを受賞、2024年には本作「マゼンタ・C・セレスの愛と革命」で第12回SFアワードを受賞。作家名のウィレ(위래)は韓国語の上(위)と下(아래)を合わせて作ったペンネームだ。

    廣岡孝弥翻訳者

      1981年富山県生まれ。『トトノイ人』をはじめ、リトルプレスの制作やサポート業に従事。2021年第5回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」にて『モーメント・アーケード』で最優秀賞を受賞。ファン・モガ『生まれつきの時間』等の翻訳を手がける。
      日本と韓国のSF作家による『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、韓国の作家の交換日記の翻訳を手がける。