
白練
3,900字
母の運転で一年ぶりの実家に向かう途中、最近ひとから呼ばれるようになった名前の話をすると、あなたにそんなお友達ができたなんて、と母は大喜びだった。私の母はこの世のあたたかいところだけをぎゅっと握って固めたような人で、だから、この名前を口にするひとの、いやな感じのする口角の上がり方に気が付かない。
この呼び名はおそらく、もう二十二年ともに生活している編みぐるみの存在から生まれたと推測される。私はこの編みぐるみのことを何も知らない。二十二年間片時も離れずに過ごしてきた私が知らない名前を、皆が当たり前のように口にする。せめて私だけは、と思っていたのに、ときどき耳の中を滑っていってしまって、それに気が付く度に自分の不誠実さにひどく落ち込む。私は、その名前を肯定/否定してしまえるほど、この編みぐるみのことを知らないというのに。
Aさんに感謝しなくちゃね、と母は嬉しそうに言う。Aさん。私の名前と同様に発生したと思われるその呼び名もまた、私の名前と同じくよい響きで呼ばれることがない。それが分からない母は、この世界でただひとり、あたたかい声でその名前を呼ぶ。
Aさんと呼ばれるその人は、駅から徒歩六分程の距離にあるスーパーマーケット、アヅミのイートインコーナーに住んでいる。とても小さなこの町には他にスーパーマーケットがない。だからこの町で生活する人はみなAさんのことを知っている。至って普通に営業を続けているスーパーマーケットに人が住んでいるわけがない、そんなことは明らかだが、それ以外の言葉でどうやってこの人の存在を表すことができるのか、誰も知らなかった。
店内奥のエスカレーターを上がってすぐ右のイートインコーナー。この場所を訪れるためだけにわざわざこの町に来る人がいるほど、マニアの間でアヅミが有名なのは、天井から壁面、座席に至るまでこの空間のすべてを覆い尽くす勢いで広がっている、手編みのニットが理由だろう。この巨大な編地は、コーナー右奥のテーブル上にある小さな繭形のニットから始まっていて、いつだってそこにAさんはいた。
このニットは、Aさんが編んだということになっている。なっている、としか言うことができないのは、誰もAさんがかぎ針を握るところを見たことがないからだ。Aさんはいつも、右奥の椅子に座って編地の起点である小さな繭を両手で包んでいて、もう一端に刺さったままのかぎ針に視線を向けることはない。いつの間にか増えている編目に気がつくのは、ある人にとっては数ヶ月に一度、またある人にとっては数年に一度のことだった。
いつの間にか自分がその編目に絡まっている気がして、私はずっとそこに立ち入ることを避けていた。瞬きのあいだに変わっているかもしれない景色が恐ろしく、なにも知らない旅行者が興味のままに足を踏み入れる場面に遭遇するたび、すぐに目を逸らした。
私がまだ三歳の頃に渡された編みぐるみがAさんの手によって編まれたものだった、ということは、前回の帰省の時に知った。
大学院を卒業し、働き始めて最初の連休。高校を卒業してから理由もなく避け続けていたこの町を再び訪れたのは、無理にでも説明をつけないと一生帰らないかもしれないと思ったからだ。電車を降り、改札を抜ける。たった六年やそこらでは大きく変わらない実家までの道をなんの感慨もなく歩き、暮らしていた頃と同じように、アヅミに寄る。久しぶりに見た建物は記憶の中の姿よりもこじんまりとしていて、いくら小さな町とはいえ、この一軒だけに町民の暮らしを委ねるにはなんだか心許ない気がしてしまった。
六年が経っても例の空間に大きな変化は見られず、変わらずAさんはそこにいて、ただただ繭を包んでいる。よかった、と思う。何に対して、どう、よかったのか、わからない。わからないけれど、ただただ、よかった、と思った。よく冷えた飲み物を買って実家に向かう。
六年ぶりの実家は変わらず私をあたたかく迎え入れてくれた。夕食に出してもらったかぼちゃのポタージュは、一切の裏切りのない味がした。父の集めている陶器の皿が増えている。六年間のことには触れられない。優しい母は私のことを優しい子だと言う。さっきまで嬉しかった変わらなさが、苦しい。私のどうしようもなさに、気が付いて欲しい。もういい加減に、私のことなんて諦めて欲しい。喉がからからになっているのに、さっき自分で買った飲み物を、ふたりの前では開けられない。
翌日、母におつかいを頼まれアヅミへと歩く。昨日の熱いポタージュでずるずるになっている唇の皮が気になって、余計に弄り広げてしまう。ここを剥いてしまったら血が出てしまうかもしれない、そんなことを考えていたらいつの間にかエスカレーターに乗っていた。裂けるすれすれの唇に気を取られたまま二階に上がりきり、一歩踏み出してすぐ、約束されていた手応えとは違うやわらかさに面食らい、躓いてしまった。慌てて世界に焦点を合わせると、昨日こつこつと私を受け止めていたはずの床すべてがやわらかい毛糸の編目で覆われている。
はっと気がつきイートインコーナーに目を向けると、Aさんは変わらずそこにいる。
繭に向かう睫毛がそっと瞬く。目を逸らせずに立ち尽くしていると、Aさんの唇が、知っている形に動く。
きっと、呼ばれている。やわらかくなった床は体重をかけるたびに沈み、うまくバランスをとることができない。
大切にされてるのね、と編みぐるみに手を伸ばすAさんの話によると、この編みぐるみは間違いなく、二十二年前にAさんが編んだものらしい。
「だってあのころ、あのころわたしはまだ、長編みしかできなかったもの」
私の母はまだ物心のつかない私を連れ、よくこの場所に来ていたらしい。手先のよい運動として編みものを勧められたばかりのAさんがいちばんに覚えたのが、長編みから成る円形のパターンだった。
「それでも」
一目飛ばしてしまっても、増し目の数が合わずとも、円は少しずつ大きくなる。大きな編地の上では、少しの間違いによる小さな穴など、少し揉み込んでやるだけで気にならなくなった。
「例えばわたしが、このまま手を止めずに、編目を閉じずに、そうしたらわたしはこの星を、そっくりそのまま覆い尽くすことができてしまう、わたしにだって」
Aさんの静かな抵抗は、いつも傍にいた母だけが知っていて、そしてそれを決して否定しなかった。
ふたりはよく、編まれ続けて地球を覆い尽くしてしまった日の話をしたらしい。
(わたしがいつからそのように呼ばれるようになったのか定かではないのですけれども、気がついた頃には、わたしはあなたたちの小指と薬指の間から、人差し指をなぞり、五号のかぎ針によって絡められていました。
あなたがわたしを選んだのは、決して勇気があったからでも覚悟があったからでもなく、ただただものを知らなかったからです。あなたはとても優しかった。わたしはただの毛糸だった。あなたはわたしに何も求めなかった。役を与えないでくれた。わたしを決めないでくれた。だからわたしには名前がない。
そうして、わたしはわたしがわたしにならなかった場合のことを考える。)
あまりに大きくなった円に気が付き我に返って糸を解くAさんの手を握って止めたのは母だ。Aさんが何を恐れていたのか、きっと母には一生分からない。ただただ、Aさんのそれまでを愛していたのだろう。せっかくここまで来たのに。
それならお願い、編目を閉じて。母はAさんの願いを受け入れた。母は誰かの気持ちを否定することがない。母にとって大切なのはAさんの編んだ一目一目で、それで地球が覆われようが、手のひらに収まるモチーフで終わろうが、同じことだった。それでも、編目を閉じるということはAさんにとってたったひとつの炎に蓋をし、酸素を奪ってしまうことと同じだった。目に見えて光を失うAさんに、母は新しく作り目を編んだ毛糸を贈った。
そこから再び編まれ始めた糸は、すでにこの町を覆いつくそうとしている。
私はあなたたちふたりの行いを否定しない。どうすれば伝わるだろう?
「お願い、編目を閉じて」
Aさんの睫毛が揺れる。
私はそっと、あたらしい立ち上がりの目を編む。
未だ宙に浮いたままの足取りで自動ドアを抜けると、編地はもう外にまで広がっていて、実家までの道すら歩くことができない。母に電話をかけると、直ぐに行くから、と返事があり、ものの五分で母の運転する車が到着した。
この町をうまく歩けなくなってしまった私に、母は何も聞かなかった。聞かれないなら話せばいい。私は話した。Aさんの話を。私にできなかったことを、私がしたことを。もう帰って来られないかもしれない。それでもいい。全部知って欲しかった。
ずっと前からこうだったよ、というのが私のための嘘なのか、それとも本当のことなのか、私にはわからない。Aさんが元気でよかった、またいつでも帰っておいで。
改札を抜ける人たちは、足元に目を向けることなく、しっかりと毛糸を踏みしめている。たっ た一年ですっかり変わってしまったこの景色が当たり前になってしまったことは、悲しいことらしい。
母に電話をかけ、駅に着いた旨を告げると、直ぐに行くから、と返事があり、ものの十分で母の運転する車が到着した。
なにか要るものある?とアヅミの駐車場に車が停まる。冷たい炭酸飲料を頼む。
お待たせいたしました、ついでにAさんにお礼言ってきちゃった、と笑いながら戻って来た母に、別に友達ができた訳じゃないんだよ、と言ってみるが、やはり伝わらない。
またいつか、三人で話そう。
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先行公開:2025年12月27日 一般公開:2026年4月4日
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