蝸の角(上)
8,996字
黒三稜は、もとは南の人である。家は代々農民で、幼い頃からあれこれ畑仕事を手伝っていた。体躯は同年輩より小さいものの骨格は頑丈で、かなりの働き手であった。なにより頭の明晰なたちで、母が文字を教えると姉妹たちと違ってたちまち書物に味をしめた。中でも古今の聖賢が天地四方のあれやこれやを記した博物誌の類をもっとも好み、頁が擦り切れるほど読んではまた読んだ。それを見ていた母は、黒三稜の志が畑仕事にはないと早くから気づいていた。二十年ののち、黒三稜が北の海辺へ向かう鉄馬に乗り込み別れを告げた折、母が嘆かなかったのはそのためである。
鉄馬が蒸気をあげて線路を走る間も、黒三稜は書から手を放さなかった。手洗いに立ち他の乗客の間をぐいぐい掻き分けてゆくときか、椅子の上で団子虫のように丸まり目を閉じるときだけが例外であった。生まれてこの方見たこともない高い山、広漠たる砂原が窓の外をひゅんひゅん過ぎてゆこうと、黒三稜の目はひたすら書の中の文字に釘付けであった。車窓からの眺めなどよりはるかに広い不思議な世界が、文字と文字の間に記されている。そう信じて疑わなかったのである。
だが、三日間走り通した鉄馬が大陸の中心にある都でしばし停車したときは、黒三稜も顔を上げてあたりを見回さずにはいられなかった。静かな風景ではなく、喧しい人波が車窓をぎっしり埋めていたからである。都の人波は、身なりからして違った。目が回るほど華やかな羽根飾りの帽子を被った者、金糸銀糸で飾った香嚢を腰にいくつもぶらぶら提げた者、幼子の背丈ほどもある煙管を口に銜えた者──そうした者たちが、五色の波のようにどっと鉄馬に押し寄せていた。気圧された黒三稜は、郷里の家で持たされて惜しみつつちびちび食べていた間食をそっと懐に隠し、読みさしの書を持ち上げて顔を覆い、鉄馬がふたたび動き出すのをただひたすら待った。耳もとに不意の問いが届いたのは、そのときであった。
「おお。君、もしや〈沈魚落雁〉に行くのか」
それが己に向けられた問いだと気づき、黒三稜が書をそっと下ろしてみると、そこにはきらきら輝く大きな黒い瞳があった。突然こちらへ顔を突き出した都の人の瞳である。歳は黒三稜の同年輩と見たが、ずっと背が高く手足もすらりと長い。衣は一面の空色の絹で、さらに漆黒の髪は玉簪で髷に結ってある。その姿を前にした黒三稜がいっそう身を縮めると、都の人は安心させるように微笑んで言葉を継いだ。
「驚かせたのならすまない。遠い旅に出ようとしていた折、ちょうど凌葉先生の『北海經』の表紙が目に入ったのでね。嬉しくてつい声をかけてしまった」
「あ、あなたも凌葉を読んだのか?」
今度は黒三稜がたどたどしく尋ねると、都の人は文を誦んじて返事の代わりとした。
「北海に魚あり、その名を鯤という。その体、優に鯨の倍に及ぶ。化して鳥となり、その名を鵬という。鯤は耳目口鼻を持たず、ゆえに生涯ただ海の底にのみ棲む。しかし鵬となれば性質変じ、群れをなして南へ飛び立たんとする。このとき日が遮られ気は毒を帯び、雹のごとく鱗が降っては家屋を壊す。その被害は計り知れぬ。諸々の災いのうち、ことに甚だしきを『天下八災においても鵬災』と称するのは、ここに由来する。かくして北の海辺の民は、鯤が鵬と化して飛び立つ前にふたたび沈める業を、代々受け継いできたのである……」
「すなわち魚を沈めるがゆえに沈魚とも、また雁を落とすがゆえに落雁とも呼ぶ業である。なんと、さすが都の人は凌葉くらいすらすら諳んじるのだな」
「そんなはずがあるか! ふつうは見向きもしないよ。私たちのように、沈魚落雁を志す気概ある若者でなければね」
都の人が大きく笑いながら言うのを聞いて、ようやく黒三稜は相手の目的地が自分と同じであると知った。自分の他には凌葉を諳んじる者にも、沈魚落雁をなさんとする者にもついぞ出会わなかった黒三稜の胸が踊る。遅まきながら顔を輝かせて丁重に礼を述べると、都の人も同じようにした。
「私は黒三稜という。南の田舎からずっと上ってきたんだ。その、これも何かの縁だし……」
「着くまで一緒に座って、話し相手にでもなってくれと言うのか? こちらこそよろしく頼むよ! 鳳眼藍と呼んでくれ」
やがて鉄馬がふたたび出発するとき、都の人鳳眼藍は黒三稜と向かい合う席に腰を下ろしていた。黒三稜は手にしていた書を一旦閉じ、そっと傍らに置いた。それを見届けたのち、鳳眼藍のほうから会話の口火を切った。二人の最初の出会いは、かくのごとくであった。
*
鉄馬が終着地へ辿り着くまでの三日間、黒三稜と鳳眼藍は昼夜を問わずさまざまな話を交わした。黒三稜が風呂敷いっぱいに包んできた書物の一節をめぐって論じ合うことがもっとも多く、たいていは意見が一致したが、ときに激論となることもあった。もっとも、最後はいつも笑いに帰すのだったが。そのうち、書物の他の話も次第に口にのぼるようになった。たとえば、食堂で買ってきた酒を酌み交わしている最中、鳳眼藍がふとこう尋ねたときのように。
「黒三稜、君はなぜ沈魚手になろうとしている?」
「もちろん、大金を稼ぎたいからだよ。他に何の理由がある」
そう答えながら、黒三稜は凌葉の書いた一節を思い浮かべた。鯤の鱗は金属からなり、腹は石とも氷ともつかぬ塊で満ちている。鱗をよく精錬すれば鋳鉄より硬く、胃石に火をつければ激しく長く燃える。よって、その用途は筆舌に尽くしがたい。北の海辺の民は沈めた鯤の鱗と胃石を売って生業とするゆえ、飢えることがない。二人の乗る鉄馬もまた、鯤の鱗を溶かして造り、鯤の胃石を焚いて走る代物だ。かように国じゅうが鯤から得るものなしには立ちゆかぬのだから、若者が丈夫な体ひとつで一旗揚げんとするなら、沈魚落雁に飛び込むのが随一と言ってよかった。
「郷里の家には姉妹が六人いてね、畑でとれた野菜を売るだけでは糊口を凌ぐのがやっとなんだ。さいわい働き手には事欠かないから、一人くらいは外で稼がなきゃならない。鯤を捕って鱗と胃石を剥いで売った金を持って郷里へ帰れば、一度に家も建て直せるし畑も広げられるだろう」
黒三稜が言うと、鳳眼藍はそうかと頷いた。今度は黒三稜が尋ねる。
「そっちこそ、なぜ沈魚手になろうとしているのかわからないよ。絹の衣を見るだけでも、金に困っている身とは思えない。若いうちから危ない橋を渡らなきゃならない事情でもあるのか?」
「君の目には、私が博打の借金でも背負って売られた身に見えるらしいな! 心配無用だ、黒三稜。事情があるにはあるが、そんな物騒な話ではないよ。長くなるから、まずは一杯やってくれ」
今度は黒三稜が頷き、鳳眼藍が口を開いた。そうして始まった話は、なるほど短くはなかった。鉄馬ががたごと揺れながら闇を駆ける中、黒三稜は静かに鳳眼藍の言葉に耳を傾けた。
「三年前のことだ。勉学がどうにも手につかず、西門のほうの市場へ遊びに出てみると、道端で浮浪者の老人がしきりに地面に何かを書いては消し、うわごとを口走っていた。興味がわいてまわりの店に訊いたところ、市場で有名な流れ者らしい。亡びの兆しが見える、と毎日のように繰り返すので、そのあたりでは『亡兆爺さん』と呼ぶという。だが私が見るに、その老人が地面に書き殴っているのがどうも狂人の落書きには思えない。あれは、紛れもない算術だった。図形と数字を並べて、何かを計算していたんだよ。
となると、ことの次第がどうしても気になるだろう? そこで、すぐさまその浮浪者を近くの飲み屋に連れて行き、飯と酒をおごって、いったい何を計算していたのか聞かせてくれと頼んだわけだ。はじめはうわごとがひどくて何を言っているのかわからなかったが、汁飯を一杯平らげたあたりからだんだん話に筋が通ってきた。そうして、老人の本名が沢瀉だということも、かつて北の海辺で沈魚落雁をしていた者であることも順々にわかった。それに、路上で何を計算していたのかもね。沢瀉老人は、技を編み出そうとしていたんだよ。とてつもなく大きな、それまでに現れたどの鯤よりも巨大な鯤を仕留める技を。
はじめは、何を荒唐無稽なことを、と思ったよ。だが沢瀉老人の算法には、まごうことなき体系が備わっていたんだ。もっとも、頭がすっかりぼけてしまったせいか、計算を最後まで仕上げるところは一度も見られなかったが。少なくとも、あの人の心に、非常に大きな魚を沈める確固たる目的があることだけは間違いなかった。かつて沈魚手であった者が、いったいどうしてそんな思いを抱くに至ったのか。もしや、しかるべき契機があったのではないか? そう考え始めると、いくら勉学に励もうとしても手につかなくなってね。
それからも、私は何十回と老人のもとを訪ねたよ。そのたびに飯と酒をおごり、老人が口にする言葉という言葉を残らず書き留めた。聖賢の書物と照らし合わせて意味を理解しようと頭を悩ませ、算法を自分なりに整理して解いてみたりもした。するとある瞬間から、老人が夢見ていたことが少しずつ目の前に像を結び始めるではないか。次第に鮮やかに、それらしくなってきて……。だが、想像の中で鯤を百万回沈めたとて、実際の鯤に指一本触れられないのなら、いったい何の意味があるのか? そんな思いが浮かんで、体を鍛えて武芸を修めるようになった。老人が描いた動きを、実際にこなせるようになるまでね。まる一年修練して、ようやく体が思考に追いついてきた。
そろそろわかっただろう? この鳳眼藍が欲しいのは、金でも名誉でもない。むろん、借金に追われているのでもない。私はただ、この手で試してみたいのだ。沢瀉老人の算法が、それを自ら練り直した技が、真にどの鯤よりも巨大な鯤を沈められるかどうかをね。そして、それを試す方法はただひとつ。これが、私が北の海辺へ向かう鉄馬に乗って、君の前の席に座ることになった理由だ」
話を終えると、鳳眼藍は杯になみなみと酒を注いで一息に飲み干した。一方、黒三稜にはなお疑問が残っていた。あまりに当たり前の疑問で、口にするのがやや憚られたが、やはり黙っているのはどうにも堪えがたかった。
「浮浪者の老人の口から出てきた話の他に、そんなに大きな鯤が存在するという証拠はあるのか?」
「むろん、そんなものはない」
「存在するかもわからない獣を仕留めるための技など、それこそ古の聖賢が無用と説いた、竜を屠る技──〈屠竜之技〉そのものじゃないか。そんなものを試すために、どうして大切な一生を捧げようとする?」
「ほんとうに竜がこの世に現れたら、それを相手にできるのは屠竜之技を修めた者しかいないだろう」
鳳眼藍の爽快な答えに、黒三稜の顔は耳の先まで赤く火照った。大金を稼いで家族を養いたいという、己の世俗的な心を恥じたのではない。目の前の同年輩が、そんな己には想像もつかぬほど大きな志を抱いていたと知って、どうも気恥ずかしく目を合わせづらかったのだ。明晰な黒三稜は、それが憧憬の念であるとすぐに悟った。幼い頃、博物誌を読んで広い世界の隅々まで思い描きながら覚えた、むずむずするような胸の騒めき。あの感覚が、鳳眼藍の輝く瞳を見つめるときも同じように全身を撫でて駆け抜けるからであった。
*
北の海辺の村に着いたその日から、黒三稜は多くのことを学んだ。
中でも最初に学んだのは、他ならぬ「丈夫な体だけでは沈魚手になれない」という事実である。沈魚落雁に用いる装備を揃えるところからして問題であった。すべて鯤の鱗と胃石で拵える道具ゆえ、値が張るのだ。一旗揚げようと無一文で余所から来た若者たちは、使い古しを借りて始めから借金を負うのが常である。駅前の立派な金物屋に足を運んだ黒三稜は、主人にその話を聞いてずいぶん思い惑った末、現実を受け入れて借金の証文に拇印を押そうとした。そのときである。
「ここでいったい何をしているんだ? 装備なら君の分も注文しておいたよ!」
背後からぬっと現れた鳳眼藍が、黒三稜の腕をぐいと掴んだ。そのまま金物屋から引きずり出されても、まだ黒三稜は呆気に取られたままであった。口をぱくぱくさせるばかりの黒三稜の耳に、潮風に乗った鳳眼藍の声が威勢よく響く。
「君がまごまごしている間に、あちこち聞いて回ってね。浮萍という鍛冶師の腕がずば抜けているというので、ひとっ走りしていちばん上等なのを二人分注文してきたところだ。ついでに宿も一緒に借りたから、ひとまず旅の疲れを癒すとしよう」
「なんだって? いや、そう言われて無闇に受け取るわけにはいかない。自分の装備くらいは何とかするよ」
「ただでやろうというのではない。君に頼みがあってのことだ。海に出る支度はすべてこちらが引き受けるから、君は沢瀉という老人について探ってくれないか。どんな些細な話でもいい、くまなく頼むよ」
文字を学んだ者として、友が施してくれた恩恵を返さぬわけにはいかない。かくしてすぐその日から、黒三稜は村の客桟や料理店を訪ね、沢瀉なる人物について探り回り始めた。ことはそう簡単ではなかった。村人のうち若い者や余所から来た者は名前すら聞いたことがないと見え、古くからの住人は唐突に昔のことを嗅ぎ回る余所者を厭わしく思うのである。だが、金属の鱗で屋根を葺いた古い麺屋に日に何度も通い詰めた甲斐あって、かつてしばらく沈魚手の仕事をしていたという年嵩の常連客から、ついに沢瀉老人にまつわる話を聞くことができた。
「腕は大したもんだった。仲間うちじゃ誰よりね。いちばん高く飛ぶのは芡実、刀さばきなら蓮花だったが、銛で鯤を沈めるのはいつも沢瀉だったよ。あの日もそうだった。いつもの倍はある鯤が出たと大騒ぎになってね。そいつが鵬になろうとしてぐんと浮き上がるもんだから、みんなすぐに振り落とされた。でも沢瀉は一人飛び乗って銛を突き刺し、そのままそいつに引っ張られて昇っていった……」
巨大な鯤は舞い上がるのも速かった。体を膨らませて瞬く間に雲の上まで昇ると、波打つ海に闇が垂れこめ、塩辛い雨が降り注いだ。誰もがおしまいだと思った。鯤が鵬へと変わってしまえば、ともに空へ向かった者が生きて帰ることはない。だが沢瀉は戻ってきた。いつしか浮力を失いゆるやかに墜ちてきた鯤の背に、銛を深く打ち込んだまま。いよいよ海にざぶんと落ちたとき、沈魚手たちの目に映ったのは、水面が上がってくるのも意に介さず銛をしかと握って鯤の背に座り、ただ茫然と水平線を見つめる沢瀉の姿であった。
「みんなわんわん泣きながら抱き合って喜んでるってのに、どういうわけか沢瀉のやつだけはぴくりともせず、ただそうやって座ってるんだ。はじめはみんな、緊張が解けて気が抜けたんだろうと思った。ところが……ずっとそのままなんだ。陸に連れ戻したあともね。独り言を呟いてたかと思えば急に『亡兆がくる』と叫び声を上げたり、『亡兆を狩らねばならん』と一人で船を出そうとして取り押さえられたりしたこともある。そのうち、ある日からぱったり姿を見せなくなってね。海に落ちたとも村を出たとも言われたが、どうなったのか正確にはわからん」
「いやあ、じつに惜しいですね。今みたいなご時世に沢瀉爺さんがいたら、どんなによかったか」
話が終わりかけたところで、麺屋で働く者が横から口を挟んだ。唐突な割り込みではあったが、なにやらただならぬ響きがあったため、黒三稜はそれも逃さず書き留めた。いわく、こういった話である。
「倍の大きさの鯤に当時は驚いたかもしれないが、今じゃそのくらいのがしょっちゅう昇ってくるでしょう。一匹に二、三人は張りつかなきゃ沈められないようなのばかりで、海に出る人はみんな苦労してますよ。いったい、どんな技を使ってあの大きな鯤を一人で落とせたんだか。沢瀉爺さんが秘訣でも教えといてくれりゃ、沈魚落雁も倍は楽になってたんじゃないですかね?」
*
その後も黒三稜は、反物屋や客桟で似たような話を幾度も耳にした。村の者は誰もが、鯤が昔に比べてはるかに大きくなったことを疑わず、「優に鯨の倍はある」と凌葉が記したのをただの昔話とみなし、鼻で笑った。黒三稜はそれを聞きながら、あの古びた麺屋の屋根の鱗が自分の両掌をあわせた大きさだったことを思い出していた。片や、港へ戻った沈魚手たちの手にある鱗は黒三稜の前腕よりも長く、やはり鯤が次第に大きくなっている証拠と見てよかった。はじめて沈魚落雁に出ようと船に乗った日、黒三稜はこれを鳳眼藍に詳らかに話した。
「今こそ、君の言う屠竜之技が光を放つかもしれない。大きな鯤を沈めるという技がね。客桟で聞いた話じゃ、腕さえ立てば大きな財も名声も決して夢ではないらしい」
「黒三稜、まったく君という人は。前にも言っただろう? この鳳眼藍、たかだか鯨の三、四倍にしかならぬ鯤を捕まえるためにここまで来たのではない。むろん、今日海に出たのも財や名声なんぞのためではないよ。こいつを自分の手で試してみたいのだ」
そう答えながら、鳳眼藍は革紐で背中に括りつけた大きな金属の筒をとんとん叩いて見せた。形は酒樽のようだが先端に長い木綿の紐のついたそれは、船が揺れるのに合わせてしきりにがたがた音を立てる。黒三稜はもとより、帆船にずらりと並んで座る他の沈魚手たちも同じ筒を担いでおり、腰に差した長剣や肩に掛けた銛と並んで沈魚落雁の必需品と呼ぶべきものである。中でも二人が揃えたものは、鍛冶師の浮萍の手になる高級品である。しかし、いかに切れ味のよい刃物も使う者が未熟ならば木の棒よりも鈍る。そのことを、黒三稜は書から学んで知らぬわけではなかった。
腕試しのときは、ほどなく訪れた。先頭を行く船が急に針路を変えて引き返すのが見え、つんざくような喇叭の音が四方から立て続けに鳴り響いた。鯤が昇ってくるため船をこれ以上近づけてはならぬという合図である。鯤が水面に出ると荒波が立ち、帆船などやすやすとひっくり返る。そのため、沈魚手たちは他の手段で鯤のいるところまで近づかねばならない。背に担いだ筒こそが、まさにその手段である。停まった船のへりにずらりと並んだ沈魚手たちが、一人また一人と海へ飛び込む。そして筒の紐を力いっぱい引くと、もくもくと噴き出す蒸気に押し上げられて空へ舞い上がる。鳳眼藍も迷うことなく飛び、躊躇っていた黒三稜もその後に続いた。
凌葉は、鯤の食性について記している。鯤は火を食らい、腹の中で鉄を精錬する。その胃石は凍りついた火であり、焚けば大きく膨れ、毒を帯びた蒸気となる。鯤が鵬と化して飛び立つのは、これを用いたものである。沈魚手たちが胃石を充填した筒によって飛ぶのも似た原理だ。ただし、違いはその大きさにあった。紐をあれこれ引いたり緩めたり、たどたどしく方向を定めながら飛んでいた黒三稜がふと見下ろすと、海のあちこちからぴょこぴょこ突き出た黒くて丸い物体は、それぞれが鱗に覆われた丘のごとく巨大であった。そこへ二、三人ずつ上陸してゆく沈魚手たちは、さながら人の頭頂に上る蟻のように小さく見えた。黒三稜も慌てて紐を緩め、目についた丘のひとつへ降りていった。沈魚落雁はいよいよここからである。
滑る鱗の上に辛うじて着地した黒三稜は、己の脚ががくがく震えるのを認めつつも、教わったとおりまず腰の刀を抜いて慎重に丘の頂を目指した。刻一刻と膨れ上がるその頂に辿り着き、銛を打ち込むのが沈魚手の務め。そこにある胃石の嚢に銛で穴を穿ち蒸気を抜けば、鯤はそれ以上浮き上がれずにふたたび沈むのだ。口で言うのは容易いが、実のところ危険極まる仕事である。少し柔らかい鱗を足で踏んだ途端、隙間から灰色の蛸足のようなものがうねうね這い出るのを目にして、黒三稜はそれを如実に悟った。
(「犬に蚤、人に虱あるがごとく、鯤にもまた寄生する蟲あり。これを轍魚という」──おお、書物で読むばかりだった蟲を、今日この目で見ているとはな!)
内陸の者は鵬災を案ずるが、沈魚手たちはそれ以上に轍魚を恐れる。沈魚手が傷つき命を落とす原因の大半が、轍魚によるものであるためだ。黒三稜の足元から現れた轍魚も、悪名どおりいくつもの触手のうち一本を伸ばし、厚い革衣にきつく巻きつけた。その間にも他の触手を手当たり次第に振り回し、黒三稜を打ちすえようとする。触手には拳ほどの藤壺がびっしり生えているため、掠めただけで肉が裂けるであろう。
幸い、黒三稜はそうなる前に手にした刀を一気に振り抜き、触手を斬り落とした。だが、一匹を相手にしている間に、周囲からさらに十数匹の轍魚が這い出て触手を伸ばしていた。これでは斬れども斬れども果てが見えない。丘の頂のほうからきんきん響く叫び声が聞こえてきたのは、そのときであった。
「おい、そこのぐず! 轍魚を捕りに来たのか、それとも散歩しに来たのか? 油を売ってないでさっさと飛んでこい!」
その厳しい叱責を受けてようやく状況を飲み込んだ黒三稜は、筒の紐を引いて丘の上まで一気に飛び上がった。そこではすでに、髪を幾筋にも編んだ沈魚手が銛を打ち込み、険しい顔で後に続く者を待っていた。気を取り直した黒三稜は、肩に掛けた銛を両手でしかと握った。突かねばならぬのは、もはや極限まで張りつめた鱗の間の地肌である。渾身の力を込めて突き立て、体重を乗せてさらに押し込む。すると、ついに空気の抜ける音がして、穴から毒を帯びた蒸気が噴き出てきた。嚢が萎むにしたがって鯤が体ごと揺れる。その振動に、黒三稜の喉から自ずと感嘆が漏れる。
「仕留めた! ああ、ついに沈魚落雁をやったんだ!」
「今日の沈魚手の中で最後に仕留めて、いい気分だろうな、このたわけ! 気が確かならとっとと鱗を剥げ!」
髪を編んだ沈魚手が怒鳴りつける。その手はすでに刀を握って大ぶりの鱗を剥がしていた。あたりを見回せば他の鯤はとうに作業の真っ只中で、遠くに避けていた船もひとつふたつと近づいて人夫を降ろし始めている。鯤が沈む前に少しでも剥ぎ取って陸へ持ち帰ろうと、そこかしこで手が忙しく動いていた。刹那の歓喜から我に返った黒三稜も、すぐに刀を握り直してその列に加わる。だが、初めての沈魚落雁で己が遅れに遅れていたことは、誰よりもはっきりと自覚していた。
〈続〉
告知
先行公開日:2026年7月4日 一般公開日:2026年8月1日
カバーデザイン:ファン・モガ
本作は、作家や翻訳者たちが、韓国SFの新しい風を紹介する企画「ニュー韓SFプロジェクト」の一環として翻訳された作品です。
ニュー韓SFプロジェクト
企画:ファン・モガ
翻訳・編集:廣岡孝弥、かかり真魚
構成・編集:正井
協力:VGプラス
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古い科学全集に包まれ、幼少期を過ごした。自分も作ってみようと思い、裏面紙に殴り書いた本が初の創作物。長編小説としては、サイバーパンク捜査劇『エラーが発生しました(오류가 발생했습니다)』と生態学スリラー『密輸:リースト・コンサーン(밀수: 리스트 컨선)』があり、短編集としては「世界はこうして終わる(세상은 이렇게 끝난다)」「証明された事実(증명된 사실)」「希薄な幻覚(희박한 환각)」など12作を収録した『証明された事実』を発表している。ほかにも多数のアンソロジーと雑誌に短編を掲載している。生物学の驚異や生物としての人間が持つ脆弱さと研究者の厳しい人生などをよくテーマにし、人間と科学が失敗したり挫折しながら危うい境界線へ挑む物語をよく書いている。『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、SF作家の林譲治さんと交換日記を行った。
廣廣岡孝弥翻訳者
廣岡孝弥翻訳者
1981年富山県生まれ。『トトノイ人』をはじめ、リトルプレスの制作やサポート業に従事。2021年第5回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」にて『モーメント・アーケード』で最優秀賞を受賞。ファン・モガ『生まれつきの時間』等の翻訳を手がける。
日本と韓国のSF作家による『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』(Kaguya Books)では、韓国の作家の交換日記の翻訳を手がける。