
魔女術感染
12,731文字
悪魔学概論第七版(2143年刊行)
序 - 社会統合局認可文書
本書は社会統合局局長・首席異端審問官ドミニク・アマンテウス(神学博士、社会数理学名誉教授)監修による公式悪魔学概論第七版である。前版より更新された統計モデルと検出プロトコルを含む。本書の無断複製・非認可伝達は社会調和法第十七条に違反し、社会調和指数の即時低減措置および矯正施設収容の対象となる。
悪魔の本質と現代社会における顕現
悪魔とは何か。この問いは古来より幾多の神学者・学識者によって取り組まれてきた永遠の難題である。その回答は時代とともに形を変えるものの、本質は変わらない。
神の秩序を否定する者は、永遠の真理に背く者である。『魔女への鉄槌』(1486年)が明確に示したように、「悪魔は生まれながらに悪意に満ち、常に人類の破滅を謀る」存在である。現代社会において、この古の敵はより巧妙な形で我々を蝕んでいる。
悪魔の最大の目的は常に同一である。『悪魔学概論』第一版(2098年)にて記したように、それは神が精緻な秩序で築いた調和世界の崩壊であり、この目的の達成のために悪魔は「魔女」と呼ばれる手先を用いる。魔女とは悪魔と共に、神の定めた調和と秩序に対する最大の叛逆者であり、混沌、無秩序、境界越境を体現する存在に他ならない。
かつて悪魔は飢饉や疫病の蔓延、気候変動など物理的破壊や明白な暴力によって神の秩序に挑んだ。しかし今日、悪魔は「夢想」という形で人々の心に潜伏し、社会の内側から調和を崩壊させようと試みている。悪魔は今日において、より微細な方法で人々を惑わすのである。
魔女とは、20世紀〜21世紀初頭に信仰の暗黒期の人々が信じた退廃芸術や虚構の物語に登場していたような架空の存在ではない。魔女たちは我々の中に紛れ込み、社会調和指数を意図的に低下させる者であり、かつてヨーハン・ヴァイヤーが主張したように、単なる哀れな精神疾患患者と誤認することは最大の過ちである。魔女は明確な悪意のある社会病理学的実体を持ち、量的測定が可能な存在なのである。
我々の最新統計モデルによれば、魔女の89.7%は女性である。この性差の原因については様々な仮説が提唱されているが、聖トマス・アクィナスが『神学大全』で指摘したように「女性は欠陥により不完全に生成されるものと見なされる」ため、悪魔の誘惑に弱いという古典的見解は依然として有効である。また脳神経構造の性差が非合理的思考への耐性の差を生じさせているとの科学的見地も確立しつつある。
“魔女”の伝染
魔女に見られる最も危険な特徴は、彼らが形成する「共感ネットワーク」である。魔女は悪魔と現実に交わり、善良な市民とも通常の社会的障壁を超えた形で互いに接続し、感情や思考を伝染させる能力を持つ。
この「共感」は、実証的計測による社会調和の最適化とは根本的に相容れない。個別的事例への非合理的感情移入を優先し、社会調和指数の計画的低下を引き起こす。すなわち、単一事例の感情的解決を理由に、多数の安定指数を意図的に損なう行為は、調和社会維持計画に対する重大な阻害要因として位置づけられる。このような局所的感情優先傾向は、社会安定機構の構造的完全性を侵食し、国家安全保障上の長期的リスク要因となる。社会統合局特別調査委員会(2142年第87報告)が明示したとおり、こうした行動は秩序維持システムの機能低下を促進し、社会運営の全体最適性を損なう深刻な逸脱行為として分類される。
魔女術伝染の主要経路は「集団夢想」である。この異常な神経活動パターンは、睡眠中に特有の幻覚体験をもたらす。その内容は、「サバト」と呼ばれる集会への参加、悪魔との交流、身体の変容感覚、そして集団的踊り狂いなどの要素を含む。これらの夢は強い快楽を伴うことが多く、それゆえに伝播速度が異常に高い。感染経路の多様性と潜伏期間の短さにより、社会防衛機構による検出前に急速に拡散する特性を有する。
古の『司教法令』にある「サタンに身をゆだね、悪霊の幻覚幻想に惑わされた女たちが真夜中に異教の女神に従い、獣に乗って夜のしじまに途方もない距離を飛行し、夜を駆ける」と述べた現象については、現代でも類似の報告が数多くあげられている。
魔女は非物質的な共感ネットワークを形成し、これらの夢想を相互に伝染させる能力を持つ。個人の脳内にとどまるべき妄想が他者へと伝わり、現実と幻想の境界を社会全体で曖昧にする。
魔女の識別特徴
魔女を識別するには、その思想と行動を注意深く観察せねばならない。魔女は最早、古典的な姿では現れない。彼らは我々と同じ姿をし、同じ言葉を話し、ときに模範的市民を装うことさえある。だが本質において、彼らの行動様式には一貫した特徴がある。
第一に、魔女は境界侵犯に執着する。彼らは性別、民族、文化、信仰の明確な区分を「抑圧的」と非難し、「流動性」や「スペクトラム」という危険な概念を広める。特に自らの身体を否定し変容を求める者は、神が定めた身体的秩序を拒絶する者として警戒すべきである。彼らは人間性の尊厳を放棄し、獣同様の本能的衝動に身を委ねる。理性による自己統制を忌避し、混沌への没入を称揚するその姿は、人間として与えられた神聖な形態を辱める行為にほかならない。
第二に、魔女は感情の過剰表出を示す。『魔女への鉄槌』が述べるように、「女は信じやすく、気質が不安定な傾向にあるため」この特徴が顕著である。社会の予測可能性と調和を脅かす不規則な感情表現、特に公共空間における取り乱し、過剰な悦び、制御不能な笑いや涙などの無秩序な感情は、周囲の者を不安にさせ、社会調和指数を低下させる伝染病のごとく蔓延する。
第三に、魔女は性的誘惑を武器とする。魔女はサタンと性的関係を持ち、その技を習得するのである。彼らは性の快楽を用いて他者を惑わし、堕落させる。無限の欲望と無秩序な享楽を追求する魔女は、永続的な調和と計画的幸福という社会の根本理念を脅かす存在である。
第四に、魔女は夢と現実の境界を破壊する。彼らは自らの夢想を現実と混同するばかりか、他者にもその夢を押し付ける。「夢想の伝播者」としての魔女は、集合的現実認識の土台を掘り崩し、社会の基盤そのものを揺るがす。悪魔は人間の視覚を惑わせ、幻想を現実として信じ込ませるのである。
第五に、魔女は互いを認識し、ネットワークを形成し、集団で社会を蝕む。それがかつて「サバト」と呼ばれた集会の本質である。今日のサバトは物理的な集会ではなく、夢や共感を通じた共謀として発現する。
魔女による社会攪乱の科学的検証
我々の最新の社会統計モデルによれば、魔女術感染者の近接地域では社会調和指数が平均12.4%低下する。これは単なる相関ではなく、脳波同期パターンの分析によって証明された因果関係である。すなわち、魔女は文字通り社会の調和を毒する存在なのである。
魔女術に感染した者は、初期段階では「取り乱し」「予測不能性」「変容への渇望」といった社会不適合症状を示す。進行すると「現実の相対化」「境界の流動化」へと進み、最終的には完全な「夢想の現実化」に至る。この状態では、感染者は幻想を現実と区別できなくなり、最大多数の最大幸福という社会の基本原理を拒絶するに至る。
特に警戒すべきは、魔女の底なしの欲望である。これまで述べたように彼らは反社会的で決して満足することなく、抑えることを知らぬ色欲と、決して飽くことのない底なしの傲慢さ、より多くの逸脱と混沌を渇望し、際限のない無秩序を求める。一度その道に踏み込めば後戻りはできない。忘れてはならない。魔女とは「他者」ではなく、我々の隣人、同僚、家族の姿をとりうる。警戒せよ。観察せよ。通報せよ。調和のために。
***
タリク・クラウスは、社会心理学の教授である。そのため、こうした公文書を分析することは彼の専門分野だったが、今回の内容は前回よりもさらに荒唐無稽になっていた。
『悪魔学概論』の最新版を閉じると、深いため息に混じらせて「ここまできたか......」と隠しきれない失望を顕にした。
研究室の窓からキャンパスを見下ろした。十年前とさほど変わらないように見える。しかし、彼の目には微妙な変化が映っていた。学生たちは互いに少し距離を置いて歩き、会話は控えめになり、時々、空の監視ポッドを意識したように視線を落とす。自由闊達な議論の代わりに、制御された静けさが漂っていた。
彼はアマンテウス局長の『悪魔学概論』について論評するよう依頼された提案書の下書きを開き、書き始めた。
***
「悪魔学概論第七版に関する提案」
タリク・クラウス 社会心理学教授
社会安定研究促進のための補完的視点
社会統合局による『悪魔学概論第七版』は、我々の調和社会を維持するうえで重要な文書であり、その真摯な取り組みに敬意を表します。本稿では、本書の優れた洞察を認めつつ、さらなる社会調和の最適化に寄与しうる補完的視点を提供します。
社会統合局の提示する「魔女」概念は、社会調和指数という測定可能な指標と結びつけられており、この定量的アプローチは高く評価できます。特に「集団夢想」現象の実証的観測は、今後の社会心理学研究の貴重な基盤となります。
しかしながら、より効果的な社会安定施策の実現に向け、いくつかの謙虚な提言を述べさせていただきます。
『魔女への鉄槌』や『神学大全』は我々の知的遺産として尊重すべきですが、その字義通りの適用ではなく、現代科学との整合的統合を提案します。「魔女の89.7%は女性」という統計は、神経内分泌学的構造差ではなく、むしろ社会的役割期待と認知パターン形成の相関関係から再解釈できます。例えば、感情表現に対する社会的許容度の性差が「取り乱し」認定の差異を生んでいる可能性が高いです。社会統合局の2141年研究が示すように、環境要因の統制下では性差による非合理思考の統計的有意差は17.3%まで減少します。この差異を考慮せず「自然の欠陥」という中世的解釈に依拠することは、検出システムの精度低下につながります。
「感情の過剰表出」についても、調和社会の予測可能性を脅かす要素として警戒すべきことは論をまたないが、感情表現の文化的多様性や神経多様性を考慮した補足的基準があれば、識別の精度が向上します。社会調和の最大化という共通の目標において、偽陽性の減少は重要な課題です。
「社会調和指数の低下」と「魔女術感染」の相関関係についても、因果の方向性をより明確にするための長期的縦断研究を提案します。これにより、予防的介入の効率が飛躍的に向上します。
***
ノックと同時に「先生?入ってもいいですか?」と声がした。クラウスの研究室で社会心理学を学ぶ大学院生、エヴァ・モローだ。彼は急いで提案書の下書きを保存し、ホログラムディスプレイを消した。「ああ、エヴァ。どうぞ」
ドアが僅かに開き、エヴァの顔が覗いた。優秀な学生である彼女の身なりは珍しく乱れ、目の下には疲労の色が濃かった。
「先週、課題としていただいた『調和社会の心理学』のレポート、提出期限を延ばしていただけないでしょうか?」彼女は声に出して言った。「最近、睡眠が不規則で……体調が優れないんです。それからレポートで悩んでいる箇所があって」
同時に、彼女はノートを開き、ペンを取り出すと素早く何かを書き、クラウスに向けてノートを回転させた。
そこには小さな文字で〈毎晩同じ夢を見ます。森の中で、野うさぎになって……獣や知らない人たちと踊っています〉と書かれていた。
クラウスの表情が一瞬こわばった。突然の異端の告白に、彼は表情を元に戻すよう努めながら、口頭では「寝不足は気がかりだね。期日なら大丈夫だよ。そうだね、来週の月曜日まで待とう。何かアドバイスができるかもしれないから書きかけのレポートを見せてみなさい」と答えた。机の上のペンを取り、エヴァのノートを受け取ると、何かをメモするふりをしながら、小さく書き添えた。〈危険な話題だ。この部屋は監視されているかもしれない。夢の内容を誰かに話した?〉
「ありがとうございます」彼女は強張った表情を隠すように笑顔を浮かべた。「『調和社会の心理学』のレポートで、社会調和指数と実際の幸福度の相関について触れたいのですが、最新の研究では弱い相関しか示されていないことをどう扱うべきか迷っています」と言いながらペンを走らせた。〈いいえ。母が精神矯正センターに送られた時から他人に自分の夢の話はしないと決めていました。でも、学校の噂で同じ夢を見る人が増えていると耳にしたのです〉
クラウスは眉をひそめた。
「データに忠実であることが何よりも重要だ。相関の弱さについても客観的に論じていいが、その意味するところについては多角的な解釈を提示するといい。研究手法の限界にも触れるとより説得力が増すだろう」と言いながら、〈この夢について誰にも決して話してはいけない。社会統合局の「魔女術感染」診断基準に一致している疑いがある〉と返す。
エヴァはわかっていたかのような顔で頷き、「的確なご意見、ありがとうございます」と言いながら、ノートに書いた。
〈夢はとても鮮明です。まるで現実のように感じます。魔女は実在するのでしょうか?〉
クラウスは慎重に部屋を見回し、箱からカモミールのティーパックを取り出して、窓のブラインドを僅かに調整した。「良いレポートが完成するのを期待しているよ。そうだ、このハーブティーは寝つきをよくするから寝る前にゆっくり飲むといい」と言いながら、ノートに答えた。
〈「魔女」は社会的構築物だ。アマンテウスの「悪魔学」は現実を記述するのではなく「魔女」を創出している可能性がある。中世末期の悪魔学が魔女狩りを激化させたように、現代の悪魔学も新しい「魔女」を生み出しているのかもしれない〉
エヴァの目が大きく見開かれた。彼女はノートに急いで書いた。
〈でも、なぜ多くの人が同じ夢を見るのでしょうか?もし魔女が実在しないなら?〉
クラウスは椅子に深く腰掛け、「他にも安眠に効果のあるハーブティーはたくさんあるから教えておこう」と言いながら、慎重にノートに書いた。
〈社会が特定の概念に注目すると、人々はその枠組みで自分の経験を解釈するようになる〉
そのとき、ドアに軽いノックの音が聞こえた。
二人は素早く視線を交わし、エヴァはノートを閉じた。クラウスは咳払いをして「どうぞ」と言う。学部事務局の秘書が頭を覗かせた。「クラウス先生、お話し中すみません。社会統合評議会からの急ぎのメッセージです。このあと行われる評議会会議の部屋が変更になりました。詳細はメールをご確認下さい」「ありがとう、承知した」クラウスは穏やかに答えた。秘書がドアを閉めると、エヴァはホッと息をついて「それではレポートの期限を延長していただけるということで、ありがとうございます。今夜はいただいたカモミールを飲んでゆっくり眠れそうです」とお礼を言った。彼女は立ち上がる前に、最後にノートに書いた。〈どうすればいいですか?精神矯正センターには行きたくありません〉
〈夢の内容は忘れるといい。夢で見たことは誰にも話してはいけない。健康管理センターには報告しない方がいい。この筆談したページは必ず処分するように。きっと大丈夫。また来週〉とノートに書き加えた。エヴァは笑顔で会釈しクラウスの研究室を後にした。
彼女が去った後、クラウスは窓際に立ち、静かに窓から外を見下ろした。夕日に照らされたキャンパスでは、学生たちが適切な距離を保ちながら整然と移動している。彼は穏やかな表情を意識的に保ったまま窓を閉めた。
デスクに戻り、ホログラムの電源を入れ直した。現代悪魔学に関する提案書の下書きが浮かび上がった。
クラウスは原稿を読み返し、消去するかどうか躊躇した。保存ボタンを押す前に、もう一度ため息をつき、 「私は魔女なんて信じていない」と誰にも聞こえない声で呟いた。「ただの集団妄想だ」 しかし彼の脳裏に、先日見た奇妙な夢の断片が浮かんだ。夜の森で、動物や知らない人々が集まっている夢......。彼はその記憶を振り払い、決然と保存ボタンを押した。
***
大学の構内食堂は、昼食時でも常に整然としていた。学生たちは規則正しく並び、適切な距離を保ちながら静かに食事をとる。過度な笑い声も、激しい議論も、この空間には存在しない。
しかし今日、クラウスは何か違和感を覚えていた。隅のテーブルに座る女子学生のグループが、普段よりも近い距離で頭を寄せ合い、何か秘密めいた会話をしている。彼女たちは時折、不自然なほど声を抑えて笑い、周囲を警戒するように視線を泳がせていた。
クラウスは食事を続けながら、さりげなく彼女たちを観察した。社会心理学者として、こうした集団行動の微妙な変化に敏感だった。彼が注目していると、一人の学生が視線に気づき、慌てて友人たちに囁いた。グループ全体が一瞬クラウスを見つめ、すぐに視線をそらして会話を中断した。
彼の研究室に戻ると、メールボックスにはいつもよりも多くの未読メッセージが溜まっていた。ほとんどが学生からのもので、件名は様々だったが、内容は不思議なほど似通っていた。
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From: ゾーイ・クマール
Subject: 研究相談
クラウス先生
先日の授業で先生が言及された「多元的無知」について、もっと詳しく知りたいと思っています。ところで最近、私の友人たちの間で、奇妙な夢の一致が見られるんです。ご多忙のところ恐れ入りますが、この件について個人的にお話する時間をいただけないでしょうか。
ゾーイ・クマール
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From: マーカス・ウォン
Subject: 緊急・個人的な相談
クラウス教授
先生の「社会調和理論」の授業を受講しています。
最近、説明のつかない体験をしており、誰にも相談できずにいます。先生の過去の論文を読み、先生なら理解してくださるのではないかと思いました。
相談させていただけないでしょうか。
切実な思いでお願いいたします。
マーカス・ウォン
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エヴァの告白は偶然ではない。ここ数週間で、彼のもとには疲労と不安の色を滲ませた学生が次々と訪れるようになっていた。彼らの顔には同じ影が宿り、中には筆談でエヴァと似た相談をする者もいた。
彼は慎重に資料を集め始めた。社会調和理論の授業で行った匿名アンケート。大学医療センターからこっそり得た睡眠障害の診断統計。学生相談室のカウンセラーとの非公式な会話から得た情報。これらすべてが、何かが急速に広がっていることを示していた。
論文の草稿をクラウスは慎重に読み返した。彼の薄暗い研究室を照らすのは、ホログラムの青白い光だけだった。
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悪魔学概論と魔女現象の因果関係の再検討
「魔女現象」と呼ばれる報告の急増について、代替的解釈の可能性を検討する。公式記録によれば、2141年から2143年の間に関連報告は大学区域で327%増加した。この増加は社会統合局の警戒レベル引き上げと一致している。
「魔女の夢」の報告パターンを詳細に分析すると、興味深い時系列的特徴が浮かび上がる。『悪魔学概論第七版』が社会調和指数の新基準として採用された後、報告の内容がより「典型的」になり、概論で例示された特徴との一致度が高まっている。これは認知的可用性バイアスという心理学的メカニズムから解釈可能である。社会で広く共有されている概念的枠組みが、個人の経験解釈に影響を与える現象は、社会認知研究で繰り返し確認されている。
特に注目すべきは、この増加が精神矯正センターの新検査プロトコル導入と正確に相関している点である。2141年第3期より実施された「毎月定期魔女指数検査」によって、市民の魔女概念への意識的・無意識的注目が高まった可能性がある。私の研究室が匿名で実施した追跡調査では、定期検査を受けた後の72時間内に、「魔女」に関する夢や思考の報告率が平均38.6%上昇するという結果が得られた。これは「プライミング効果」として知られる認知現象と一致する。
つまり、魔女指数検査という制度自体が、検査しようとしている現象を無意識的に強化している可能性が示唆される。検査を受けた市民は「魔女ではないか」という問いに直面することで、逆説的に魔女概念に関する認知的アクセシビリティが高まり、普段なら忘却されるような曖昧な夢体験を「魔女の夢」として解釈・記憶する傾向が強まるのではないだろうか。
さらに、魔女指数が閾値を超えた場合の第2フェーズ措置入院への恐怖が、心理的ストレスを増大させ、逆説的に非定型的な夢体験を増加させる可能性も否定できない。調査対象者の42.3%が「検査後は魔女の夢を見ないよう意識的に努力している」と報告しており、これは皮肉にも「思考抑制の逆説効果」として知られる現象を引き起こしうる。
歴史的に見れば、中世の悪魔学の出版がもたらした社会的影響と類似のパターンが観察される可能性がある。魔女への警戒を強化すればするほど、魔女に関する報告が増加するという循環的関係は、社会認知研究の観点から再検討される価値があるだろう。
***
クラウスは論文の草稿を保存する前に、窓のそばに立ち、暗い空を見上げた。彼の頭の中には、自分自身の見た夢の記憶がよみがえっていた。森を歩く、驚くほど鮮明な夢を思い出す。
本当にこの論文を提出すべきか。彼は迷っていた。社会統合局はこれを異端の研究と見なすかもしれない。過去にも社会心理学者が「不適切な批判的思考」の罪で精神矯正センターに送られた例があった。
「私は魔女なんて信じていない」と彼は再び自分に言い聞かせた。
「魔女なんて、人の恐怖が生み出した単なる妄想だ」
***
クラウスは精神矯正センターの冷たい壁に囲まれた待合室で、不安げに時計を見つめていた。あれから1ヶ月ほどが経ち、彼の論文「循環的恐怖:概念普及と症状報告の相関分析」は社会統合委員会の「審査待ち」という曖昧な状態に置かれたままだった。公式の批判はなかったものの、大学内での彼の立場は微妙に変化していた。同僚たちは彼との会話を避けるようになっていた。
そして今日、エヴァ・モローの件で呼び出されたのだ。
「クラウス博士、お待たせしました」
声の主は青白い制服に身を包んだ壮年の男性だった。
「医師のジョウジ・マクミランです。エヴァ・モローさんの担当医です。どうぞこちらへ」彼らは静かな廊下を進み、観察室に入った。一方向ミラーの向こう側には、エヴァが座っていた。彼女は以前よりも痩せ、顔色も悪かったが、目は爛々と輝いていた。「エヴァ・モロー患者は2週間前に措置入院となりました」マクミラン医師は淡々と説明した。「適応障害の症状を示し、『夢想感染』の疑いで検査中です。彼女の言によれば、あなたの授業を受けていたとのこと。社会統合局から患者の精神状態について博士の見解を求められています」「もちろん、協力します」クラウスは慎重に言葉を選んだ。
「エヴァは優秀な学生でした」
「患者との面談を記録させていただきます」マクミラン医師は穏やかに笑った。
***
診察室に入ると、エヴァは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。
「クラウス先生、お会いできて嬉しいです」彼女の声は以前よりも落ち着いていた。
「エヴァ、最近学内で顔を見ていなかったが、元気だったかい?」彼は心配そうに尋ねた。
「私は......大丈夫です。ここは安全です。みんな親切にしてくれます」
マクミラン医師が穏やかに介入した。「モローさん、クラウス博士に最近の夢について話してみてはどうですか?あなたも知っての通り、博士は社会心理学の専門家ですから、あなたの状態を理解する助けになるかもしれません」
エヴァは両手を膝の上で組み、静かに話し始めた。
「最初は普通の夢だと思いました。森の中で、見知らぬ人たちや動物と裸で踊っている......でも、それが毎晩続くようになって......」彼女は一瞬ためらった。「次第に、その夢の世界が鮮明になっていきました。そこでは、私たちは自由でした」
「自由?」クラウスは尋ねた。
「はい......説明するのは難しいのですが」エヴァの目が奇妙に輝きを増した。「その森では、私たちは監視されていません。調和の数式もありません。ただ、体がリズムを刻んで、自然に動くのです」
「リズム?音楽が聞こえるの?」マクミラン医師が記録用タブレットに何かを入力しながら尋ねた。
「聞こえるわけではないんです。感じるんです」エヴァの声は少し高くなった。
「体の中から湧き上がってくるような......そしてみんなと共鳴して......」
「みんな?」クラウスは慎重に質問した。
「顔は分からないんです。でも、みんなも同じように感じているのは分かります」エヴァは言葉を探すように少し黙った。「夢の中では、私たちはみんなとつながっています。言葉なしで理解しあえるんです」
マクミラン医師が咳払いをした。「モローさん、あなたの夢には『他の存在』も現れると言いましたね?」
エヴァは一瞬、警戒するようなそぶりを見せたが、それから静かな諦めをその顔に浮かべた。「はい......彼女がいます」
「彼女?」
「夜の貴婦人です」エヴァは小さく笑った。「悪魔学によれば、彼女は『悪魔』ということになるでしょう。でも、彼女は私たちに害を与えません。むしろ……教えてくれるんです」
「何を教えるのですか?」クラウスは息を詰めて尋ねた。
「魔術」エヴァは静かに答えた。「ゆりかごのような調和社会は幻想にすぎない。調和は、混沌の中で踊るときに生まれるのだと。私たちの内側には揺れ動く森があって、そこでは私たちが忘れた自分自身が踊っているんです」
マクミラン医師はタブレットに何かを急いで入力した。「典型的な『魔女の夢』のパターンですね。『サバト』の特徴がすべて揃っています」
「それはただの夢ですか?」クラウスはエヴァに尋ねた。
エヴァは彼をじっと見つめた。「最初はそう思っていました。でも、毎晩同じ場所に戻るんです。そして......みんなも同じ夢を見ています。ヤギやカエルの姿で、私たちはそこで毎晩出会っているんです」
「魔女術感染の典型的な症状です。このような思い込みは珍しくありません」マクミラン医師は平静に言った。
「でも、その夢は......現実よりも鮮明なんです」エヴァは続けた。彼女の声には懇願するような調子があった。「その森で踊っているとき、私は本当の自分を感じるんです。目覚めると、この世界のほうが悪夢に思えるくらい」
クラウスは彼女の言葉に戸惑いを覚えた。エヴァがただの精神疾患を患っているだけなのか、それとも何か別のことが起きているのか、判断がつかなかった。クラウスは社会構築主義の立場から「魔女」という概念を理解してきた。「魔女」は存在せず、それは社会が生み出した幻想、人々の恐怖の投影にすぎないと考えてきた。
しかし、彼女の語る夢の世界には、生々しいリアリティがあった。
「アマンテウス局長の『悪魔学概論』を読んだことはありますか?」クラウスは尋ねた。
「はい、社会調和概論の授業の参考文献でした。でも、夢はもっと前から始まっていました。薄く、ぼんやりとしていましたが......」そういうとエヴァは突然、身を乗り出した。
「クラウス先生、あなたも見ていますよね?同じ夢を」
部屋の温度が急に下がったように感じた。マクミラン医師がクラウスを見つめた。
クラウスは冷静に「いや、私は寝つきがよくて、夢をほとんど覚えていないんだ」と答えた。
エヴァはわずかに微笑んだ。彼女の目には「分かっています」という表情があった。
「十分でしょう」マクミラン医師が立ち上がった。「モローさん、今日はありがとう。少し休んでください」
***
観察室に戻ったクラウスは、手の指の背で、重くなった瞼をゆっくりとなぞった。まるで、こびりついた疲労の残滓を拭い去るかのように。
「『魔女術感染』の中期症状が明確に現れています。おそらく彼女は『夢想の伝播者』段階に移行しつつあるでしょう」マクミラン医師が言った。
「彼女は本当に病気なのでしょうか?」クラウス博士は静かに尋ねた。「あるいは......」
「あるいは?」
「あるいは、私たちが『病気』と呼んでいるものは、実は別の何かかもしれないということです」
マクミラン医師は眉を上げた。「理論的な議論は尽きませんね。しかし、社会統合局の診断基準は明確です。彼女は間違いなく『魔女術感染』に囚われています」
***
クラウスは夜遅く研究室に戻り、デスクに向かった。彼はエヴァとの面談での会話、特に夢の内容について何度も思い出した。
エヴァの語る夢の世界があまりにも生々しく、彼自身の見る夢とあまりにも似ていたからだ。彼もまた、毎晩その森に戻り、飛行し、見知らぬ人々と動物と輪になって踊っていた。彼もまた、言葉にできない解放感を味わっていた。
クラウスは自分の日記帳を開き、書きはじめた。
***
2143年10月31日(木)『夢の森:社会調和の影に潜む象徴的表出について』
“魔女”という概念を、私は人々の恐れの反映として理解してきた。社会不安から人々が周縁的な人々をスケープゴートとして排除しているのだと。しかし、社会の不安が取り除かれたこの調和社会に蔓延しはじめた近年の“魔女の夢”現象は、単純な社会心理学的説明を超えた問いを投げかけている。人間は世界をコントロールできていないと感じるとき、抑圧され息苦しい環境の中で生きるとき、内側から別の力を生み出そうとする。それは理不尽さに対する反応であり、困難を乗り越えるための心理的メカニズムである。『悪魔学』の描くマレフィキウムとは、おそらく人間の内側に眠る力の象徴的表現なのではないだろうか。“魔女”は『悪魔学』が作り出したものではなく、誰の中にも眠る、より根源的な何かなのではないか。抑圧された無秩序や予測不可能性への欲求は消えるのではなく、夢という安全な場所に逃げ込む。それが“魔女の夢”として現れるのではないだろうか。魔女術は、抑圧された人間の本性が別の形をとったものかもしれない。それは病ではなく、むしろ治癒の試みかもしれない。社会の硬直した構造に対する、心の深層からの応答なのかもしれない。完璧な調和の中で、私たちは何かを失ったのかもしれない。そして今、その何かが夢の中で私たちを呼んでいるのではないだろうか。
***
クラウスはペンをゆっくりと置いた。このような考えを公言すれば、間違いなく「魔女術感染の症状」として見なされるだろう。彼もまた精神矯正センター行きとなるかもしれない。
「魔女なんて存在しない......」
夜が更け、クラウスは目の焦点が定まらなくなりソファに身を沈めた。抗いがたい眠気が彼の意識を霧のように包み込む。気がつくと彼はもう満月が照らす森の中を歩んでいた。銀色の月光が木々の間から降り注ぎ、歩くたびに彼の褐色の肌をところどころ青白く染める。獣たちの踊りの輪が彼を中心に渦巻き、踊りの輪の中に見覚えのある顔があった。エヴァだった。彼女は微笑み、手を差し伸べてきた。クラウスは彼女の柔らかく少し湿った手を握り返すと、引っ張られるままに流れに加わった。クラウスは長い間忘れていた、子供の頃のような懐かしい感覚を思い出した。そのとき、彼は気づいた。この森は妖精の女王が支配している現実なのだと。
告知
「ヴィラン」特集 掲載作品
作品をより楽しみたい方は、小説に加えて、ヴィランにまつわるコラムやブックレビューを収録した『Kaguya Planet No.6 ヴィラン』をお読みください。
先行公開日:2025年5月17日
カバーデザイン:浅野春美

円香著者
円香著者
現代魔女。アーティスト。モダンウィッチクラフト文化を研究、実践しながら日本に紹介している。未来魔女会議主宰。『文藝』『エトセトラ』『ムー』『Vogue』『WIRED』『 Tokyo Art Beat 』などに、魔女に関するインタビューや記事を掲載。2023年から逆卷しとねとキメラ化し、まどかしとね名義でZINE『サイボーグ魔女宣言』を発売。集英社新書プラスにて『現代魔女』、笠間書院にて『Hello Witches! ! ~21世紀の魔女たちと~』を連載中。「魔女術感染」が初めての小説作品。