カナダ・カルガリー出身(she/her)。ヴァンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学で生物学を学んでいる。気候変動とその解決について発信するメディアGristが主催の短編コンテスト“Imagine 2200: Climate Fiction for Future Ancestors”の2022年版で採用された「雨から離れて」(原題:The World Away From the Rain)で小説家デビュー。
雨から離れて
原題:The World Away From The Rain
翻訳:川崎遥佳
8,054文字
噛まれると思った。ママは、ウミガメは噛むと言っていた。「まずは指、それから手の残りの部分までちぎられてしまうよ」と言っていたけれど、その判断を信じているわけではなかった。ママが若かった頃ルワンダには海はなく、ウミガメもいなかった。ママは思い込みが激しい。
ふるえる指をくわえたカメが口を閉じようとしたとき、実はママが正しかったんじゃないかと怖くなった。鋸状の歯が肌をこすりはじめたが、私の指が合成材料でないと気づくと、生き物にしては奇妙なほど機械的な動作でウミガメは口を引っ込め、閉じた。そして、裏切られた、といわんばかりに鼻を鳴らして海岸線まで這い戻ると、くちばしを使って恨めしげにあたりの砂を掘り返しはじめた。
こののろまな生き物を怖がらせないくらい、でも、集中と興奮で痛いほどの笑顔を形作っていた唇をゆるめられるくらいの大きさの声を漏らした。さっと立ち上がって、買い物袋を抱える。夏の灼熱のせいか、喜びと緊張がないまぜになったせいか、頬は痛いほど熱く、身体中あちこちが引きつっていた。
そろそろ立ち去った方がいいことはわかっていた。あんまり長いこと外にいるとママが怒り狂うだろうし、熱射病になって帰ったりしたらなおさらだ。ひとりのおでかけを最初で最後にしたくなければ、帰るべきだ。
でも、離れられなかった。カメなんて見たことがなかった。温暖化とそれに伴う海の酸性化に耐えられるよう、科学者たちが遺伝子操作を施したにもかかわらず、ウミガメはまた絶滅の危機に瀕していた。
これまで私は、あまりものを知らなかった。というより、数少ないものをよく知っていた。白い壁、私の部屋の汚い窓を流れる雨粒の赤ちゃんたち、雨雲がやってくるやいなや、世界を覆い隠す厚いカーテン。でも、雲ひとつないセルリアンブルーの空や、重なった海藻を割りひらいてその下の海溝をちらりと覗かせる強烈な波を見たことはなかった。私と同じくらい大きくて、力強いヒレと黒い瞳を持つウミガメも。世界が誰かに見られることを望んでいないのだとしたら、こんなに美しいわけがない。
*
ビニール袋をひっくり返して、紙パックに入った牛乳、バナナ3本、そしてパイナップルを砂の上に落とした。それから袋を丸めて、カメの頭めがけて投げた。カメは口を開いて歯をむき出しにした。ママが昔持っていた古いチェーンソーの刃みたいに、歯と歯茎が一緒に前後に動く。カメが袋を口の中に入れると、プラスティックは柔らかくなって泡立った。透明な液体が歯茎から分泌された。肉眼では見えないけれどウミガメの唾液には大量の遺伝子組み換えバクテリアがいて、プラスティックが最も基本的で有機的な化合物になるまで噛み砕く。動く歯もまた、科学者の作品だ。私の中の悪趣味で科学的な部分は、カメの唾液を採取して顕微鏡で見てみたがっていた。でも、より大きい部分、つまり悲劇的な部分なのだけれど、そっちから、バクテリアで指が腐るところと、そうなったときに大パニックになるママの鮮明なイメージが湧いてきた。
ウミガメは口の中で溶けかかったぐちゃぐちゃのものを、私の実験アイディアと一緒に飲みこんだ。それから黒い目でこちらを見て、感謝(だと思いたい)の鳴き声をあげてから波打つ海へと這っていき、消えた。
落ちている食料品を腕の中に集めて、私もその場を去った。
*
「ケーザちゃん?」
「ただいま、ママ」室内の薄明かりに慣れようと目をしばたきながら、私は空いている方の手でドアを閉めた。不安げな足音がして、母親の冷たい手が私の腕を掴んだ。
「迷子になったの? ずいぶん時間がかかったね、雨が降ってきたかもしれないのに……」
「今日の空、見た? うちのカーテンくらい青いけど」私はそう言ったけど、ママは私の手から買ってきたものを奪い取った。まるであと1秒長く持っていたら私が卒倒して死んでしまうかもしれないと恐れているみたいに。
「空模様がどんなに変わりやすいか知っているよね。今週はずっと雨予報だし。買い物袋をもらわなかったの?」母親は食料品をキッチンカウンターに置き、黒い肌の腕をそのままカウンターにもたせかけた。肩甲骨が、ゆったりとしたワンピースの肩紐の後ろに鋭く突き出ていた。
「ビニール袋しかくれなかった」
「Yesu Kristo, ni ukubera iki abantu bameze gutya」ママはため息をつき、カウンターのわきにある布張りの椅子にどさりと座り込んで、頬を手でおおった。「いまにそんなこと違法になる、いまにわかる。強欲でケチな資本主義者たち、umururumba, umururumba, umururumba」無意識に首を振りながらママはこちらを向いて、ふるえるチワワのように厳しい目で私を見た。
「ママ、プラスティックはそんなに問題じゃなくて……」
「全部まとめて大問題なの。あのとき、あなたはいなかったでしょ。あの世代の態度を……」ママはまた頭を振った。「もう一度あれが起きたら、あなたもきっとわかる。私も若いときにはわからなかった」
私の顔に浮かんだ皮肉を見てとったのだろう、ママの琥珀色の瞳に小さなパニックの波が走った。
「あのね、あなたはまだ12歳なの」ママが腕を広げる。私はママの膝に乗ってその腕の中に落ち着き、鼻を鎖骨の上の隙間にうずめた。ママは私を抱きしめて、独特のため息をついた。長いこと胸の奥深くに涙をたたえてきた、緊張感のあるため息。「まだ世間知らずだし、学校ではそんなこと教えてくれないんだから」
胸の奥で何かが激しくよじれ、意地悪な考えが湧いてきて、私はそれをほとんど言いかけて呑みこんだ。“ママに言い返せるような素晴らしい体験なんて、どうやったらできるというの。外が怖いママのおつかい以外には、外へ出させてもくれないくせに”
「パパは?」代わりに私は尋ねた。
「最後に見たときには、暑さを楽しんではいなかったと思う」ママは私の頭にキスしてから膝をゆらして私を降ろし、立ち上がった。私は空いた椅子に座って、顎をカウンターに載せてママがパイナップルを切るのを眺めていた。
昔のママはきっととても美しかっただろう。暗い色のしっとりした肌、痩せた身体、大きな唇、丸くて若々しい瞳。傷跡がなければ、本当の年より20歳は若く見える。腕、脚、そして胸の周りに無秩序に点在している、小さく膨らんだ円。治りきらなかった肉芽のせいで鼻は鉤鼻に見え、かつてはなめらかだったであろう頬と額には細く長く白い傷跡がある。目の下にも涙の跡のような傷跡。ママと同世代の人たち、温暖化の時代を生き延びた人たちみんなに、酸による傷の跡があった。
過剰にメチル化した大気は、不要な化合物を除去する唯一の手段として、危険な強酸性雨という形でその化合物を地上に送り返したのだ。これは理科の先生が言っていたこと。ママは絶対にこの話題に触れようとしない。
傷跡以上にママの年齢を物語るのは、くまだ。目尻のシワをより深く見せる影、目の下や頬骨の下に息づく影。私は「心配性のあざ」と呼んでいた。
「ケーザ、どうしてパイナップルに砂がついているの?」言葉が目に見えるとしたら、ママのこの言葉は間違いなく影をまとっていた。
「知らないよ。八百屋さんがよく洗わなかったんじゃないの」
「海へ行ったの?」
私がママのお腹にいたとき、ママは私の心音を自分のもののように感じることができたという。今でも私の心拍数の変化を感じ取る力があるみたいだ。私専用の嘘発見器みたいに。
「新しい帰り道を試してみたかったの」私はぼそぼそいった。
「どうして?」
「海が見たかったから。行ったことも、見たこともないんだもの」
「どうして?」
「きっと綺麗だから」
「どうして?」
「どうして、なんなの?」
「どうして水を見るために命を危険に晒すの?」ママはふるえる手をシンクへと伸ばした。半ばまでお皿が溜まり、石鹸の泡がみじめについている。「水ならここにあるじゃない。海なんてただの大きな水だよ。大きくて危険な、酸性の水!」
「ママ、シンクの水は海とは違うよ」ウミガメの口の中のビニール袋みたいに泡立ち煮えたぎるママの視線から逃げるように、私は木製のキッチンカウンターを見つめてもぞもぞ言う。「家の中は世界とは違うもん。危険なこともしなかったよ。海はもう安全だし、学校のお友達だっていつも泳ぎに……」
「まさか入ってないよね」ママの言葉は冷静で、シンクにポタポタしたたる水の音よりも大きい声ではなかった。それから何かを、今度はもっと大きい声で言いかけたけど、その声は津波の前の海のように小さくなっていって、消えた。
「入ってないよ。ほんとに。見にいっただけ。反抗したいわけじゃない」
「もう反抗してる」ママは私を遮る。「あなたぐらいの歳なら当たり前のことだけど、私のいうことを聞くつもりなら……」声がまたひび割れる。「このことについていうことを聞くつもりなら。何百万回も言ってるでしょ。危険なの」
「でも今はよくなってるよ!」私は叫んだ「ウミガメだって見た。本物だよ!」
「触ったの……」
「ママは大事なことを見逃してる。ウミガメは食べ物を、プラスティックを探していたんだよ。どうして海の中で探すより陸地で探す方が簡単になったんだと思う? もう海の中には食べ物がないから、プラスティックゴミがないからだよ! 環境はよくなってるんだよ、ママ」安心、喜び、なんでもいいから怒り以外を期待してママの方を見返したけれど、その目と影にはまだ怒りがぎらついていた。
「それか、海がまた住めない場所になったってことでしょう」ママは噛みつくように言う。「温暖化が公式に終わってから、一番暑い夏だったじゃない。8年も経っていないんだから、『終わった』と断言するにはまだ時間が足りないんだよ! 森林再生のための努力、プラスチックを食べるバクテリアの遺伝子組み換え技術、世界規模のゼロエミッション合意……これだけやっても、まだ地球は燃えているの。いつ改善するのかなんてわからない。そもそも改善できるのかすらわからない。どんなふうになったら『改善した』といえるのかもわからない。その前を知らないんだから。よくなってきたと思ったら……」ママは窓辺に歩み寄ると、カーテンをぐいっと引っ張って開けた。空は怪物のように大きな灰色の雲で覆われていた。「……雨が降ってくるの」
それ以上何も言わず、ママはまたパイナップルを切りはじめた。私は窓の外に目を向け、雨でまだらに濡れた石畳から水蒸気が立ちのぼる、人のいない通りを眺めた。
*
雨はその週ずっと降りつづいた。ママは窓もカーテンも閉めておきたがったが、窓ガラスの向こうで叫び声が聞こえてきたとき、私は覗かずにいられなかった。
子どもたちが通りを走っていた。みんなシャツをきておらず、おむつや下着姿の子もいた。手に手に木の棒や切花を持って、叫びながら追いかけっこをしている。くるくるした髪の毛は水で顔にぺったりと貼りついて目を隠していたが、笑顔は歯茎までよく見えた。大人たちが近くに座っていた。街路樹の下に座っている人たちは、ただこの大騒ぎを眺めていた。道の真ん中に向かい合って座り、牛皮の太鼓を叩いている大人たちもいた。雨のしずくがドラムで弾かれて演奏者の顔にかかったが、その皮膚はきらめいており、無傷のままだった。キンヤルワンダで何かを歌っていた。ママにはわかるけれど、私にはほとんどわからない言葉。
かつてルワンダでは誰もがその言語を話していたと、ママが教えてくれた。だけど、温暖化時代には地球上の国々が一丸となる必要性が最優先され、文化の保護は後回しにされたのだという。協働にはコミュニケーションが必要だったから、どこでも誰でも英語を話すようになった。
「泣け、泣け、可愛い空よ。愛しているから、だいじょうぶ」床に座る私の隣に背中を丸めて腰を降ろし、ママが言った。「そう歌っている。それから、“fata umwanya wawe, fata umwanya wawe, urire usukure ikirere cyanjye cyiza”。『ゆっくり、ゆっくり、晴れるまで泣け、私の可愛い空よ』」私の肩越しに、ママが窓の外を覗き込んだ。ママが私の耳の近くで爪をかじっていて、その音が頭の中に大きく響く。
「ほらママ、安全だよ」私は言った。私が覚えている限り、雨はずっと安全だったよ、とは言わなかった。
「今は安全みたいだね、でもいまに変わってしまうから」。ママはふるえながらなんとか立ち上がって、またカーテンを引っ張って閉めた。
その週のほとんどの時間を、これまでの人生のほとんどの時間と同じように、自分の部屋の中で過ごした。朝には太陽が昇るのを眺め、日中には手入れされていない裏庭の木に住み着いているタイヨウチョウの習性を観察する。いもむしが草をよじのぼり、美しい世界を見て、雨の匂いと感触を浴びるのを見ていた。いもむしたちは太陽が現れるまでは至上の喜びを味わい、やがてしなびて、朽ちて、歩道の上の邪魔なごみとしてその一生を終えるのだ。ママが私の身に起きると思っているのも、そういうことだろう。
*
快晴の日が何日か続いたある日、堆肥がいっぱい入った鉢を抱えたママが私の部屋に入ってきて、いいことを言った。
「パパのところへ行かない?」
ママと私はいつもの道を歩いた。後ろのドアから出て、色とりどりのひさしが頭上にたくさん延びている長い通りを歩き、露天商たちがひしめく道を横切り、角を曲がって、丘の上の公園に入っていく。ママは、堆肥の鉢、傘、クマ避けスプレー、医療用マスク、それからどこの薬局でも売っている小さな酸素ボンベの入ったバッグを左手に提げていた。右手では私の手を握って、いや、痛いほど握りしめていた。爪の先が白くなってきた頃、ママはやっと私の手を離して、大きな石が幹に立てかけられたアカシアの若木に駆け寄った。
ママは額をその石に押しつけ、キンヤルワンダで囁いていた。きっと私に聞かれたくないことだったんだろうけど、私が理解できる言葉もいくつかあった。
Urukundo rwanjye……愛しい人。Ububabare……痛み。Gutwika……やけど。Ubwoba bwinsi……大きな恐怖。そして、ケーザ、ケーザ、と繰り返している。
頭を石から離すと、ママはその目に浮かぶ恐怖を私に見せまいと顔を隠して、堆肥の鉢を手に取った。ママが気まずくならないように、私は地面の墓石を凝視した。
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アロイス・ムレンジ
2037年7月17日-2072年6月3日
安らかに
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墓石に刻まれた命日を指でなぞった。ちょうど10年前の今日だった。命日であることすら知らなかった。言葉が見つからなくて、ママが木の根の周りに堆肥を撒いた上から土で覆うのを手伝う。温暖化時代の犠牲者は全員、この方法で葬られている。胸郭に土と木の種を詰め込んだ状態で埋められたのだ。
「昔、強欲な人間たちがたくさんの木を殺したの」何年も前に、ママが言っていた。5歳の私がじょうろを持ち上げて注ぎ口をパパの木の方へ向けるのを手伝いながら。「いま、私たち人間は、人間を木に戻しているの。それが筋だよね」
死体から供給される養分はそれほど長持ちしない。いまでは私たちの持ってくる堆肥と、あとはきっとママのたくさんの涙が、パパをはぐくんでいる。いままさに、ママの薄い頬を転がり落ちて土に染み込んでゆくしずくも、そう。私はその涙を見なかったふりをする。
「パパを覚えてる?」ママが息をついた。私は首を横に振る。嘘をつく方がママを傷つけるだろうから。「パパはあなたにたくさんの愛を残した。世界にも……」ママはお墓に向きなおって、“mbabarira, mbabarira, mbabarira”と繰り返す。その言葉なら、私も知っている。「ごめんね」だ。ごめんね、ごめんね、ごめんね。
「ママのせいじゃないよ」私はささやく。ママは恥ずかしそうに私を見上げた。そして、声をあげてぼろぼろと泣いた。小さい子どものようにわたしに抱きつく。私はママの髪をいじりながら、待っていた。私が泣いたとき、ママはいつもそうしてくれたし、ママにしてあげられることはそれしかなかった。
「パパはこの、本当にバカみたいな世界のために死んだ。地球を守りたかっただけだったのに。じっさい守ったと思っていて、私もそう思っていて、それで、それから……」ママはすすり泣き、しゃくりあげて、「温暖化がパパを殺したの。熱波がきて、何千人も死んで……パパも酷暑で死んだ。もう温暖化なんて終わったと思った矢先だった」といった。
母親というものは泣かないものだと思っていた。自分の母親が泣くのを見て、何か根本的に間違っているような気がした。不気味で、不自然で、魂が粉々になるような気持ちだった。温暖化は、ママを色々な意味で灼いた。ママが悲しむと私も一緒に悲しみ、世界も私たちと一緒に悲しんだ。パパの葉が落ちて、さえずっていた鳥たちが静かになった。ママの嘆きの声を、強い風が響かせた。
ママが泣くとわたしも一緒に泣き、世界も私たちと一緒に泣いた。頬が涙で濡れそぼっていたから、最初のしずくには気づかなかった。だけど髪に、口に、それから背中に。雨だ。
ママは死にかけた女のような悲鳴をあげた。体の奥深くからの悲鳴、叫び声と息を詰まらせる音を行き来するような悲鳴だ。喉を切り裂き、永遠に灼けつかせるような悲鳴。ママは頭を腕でかばってめちゃくちゃに走り、傘を探して金切り声を上げた。
私は、目も眩むような痛みを待っていた。百万のヒルに吸われるような痛みを。でも、シャツが肌に貼りつく不快感と、雨粒が髪を冷たく打つ感触のほかにはなにもなかった
「ママ、ママ!」私は叫んで、ママの肩を掴んだ。「なんでもないよ! ただの雨! ただの水だよ! だいじょうぶだってば!」ママはいまや、息を詰まらせ、目を苦しげにぎゅっとつぶって、静かにすすり泣いていた。私は傘を掴んで、私とママの上に広げた。
「ただの水だよ」私は繰り返した。「パパは10年間この雨に打たれ続けているけど、だいじょうぶでしょ。パパは無事だよ。伸びて茂って、すこやかじゃない。だってただの水だから。ただのお水。だいじょうぶだよ」
それから長いことそこに座って、ママは息を整え、私は「だいじょうぶだよ」と繰り返して、というより、祈っていた。
やっとママはしわがれ声で「さあ、帰らないと」と言った。「帰らないと」。でも、動かなかった。
「ママ、どこも痛くないでしょう?」と私はささやき、ママの巻き毛を耳にかけた。
「どこも痛くないよ」ママは言った。
「パパは世界のために死んだって言ったよね。こんなに美しい世界から隠れ続けることなんてできないよ。それに、この星を満喫しないのだったら、ママやパパや他のたくさんの人たちがそんなに頑張った意味ってなんだったの?」ママのふるえる手に傘を手渡して、私は雨の中に踏み出した。目を閉じて顔を空の方へ向け、冷たくて爽やかな雨の感触を味わった。つま先を草むらにうずめて、いもむしたちの体験した幸福を理解した。太陽が出てくることなんて気にしていなかった。バカみたいだったかもしれないけど、幸せだった。
冷たい手が手首を掴んだ。ママも傘を手放して、雨の中に一緒に立っていた。私を見、空を見上げ、それからアカシアの木を見て、弱々しく水浸しの微笑みを浮かべた。
「おうちに帰ろうか」ママがいう。私はママの手を取る。
「もちろんだよ、ママ」
*
寒い夜で、ビーチには誰もいなかった。私は砂浜に座り込んで、そのへんに落ちていた大きな巻貝を観察していた。海藻が月の光にきらめき、海の穏やかな波は優しい子守唄をうたっている。ママは両手を首の後ろで組み、砂浜と波の際に躊躇いがちに立っていた。軽く、細くため息をつく。
そしてママは、海へと駆けだした。
〈了〉
本作は気候変動とその解決について発信するメディアGristが主催の短編コンテスト“Imagine 2200: Climate Fiction for Future Ancestors”の2022年版で採用された “The World Away From the Rain” を川崎遥佳さんが翻訳した作品です。
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カバーデザイン:VGプラスデザイン部
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「雨から離れて」はKaguya Planetの「気候危機」特集の掲載作品です。特集では気候危機にまつわる3編の短編小説を配信しています。
エラ・メンズィーズ「雨から離れて」
化野夕陽「春の魚」 作品のリンクは【こちら】
津久井五月「われらアルカディアにありき」 作品のリンクは【こちら】
また、上記の3編に加えて、気候危機にまつわるブックレビューやコラムを収録したマガジン『Kaguya Planet vol.1 気候危機』を好評発売中。こちらもぜひお手に取ってみてください。マガジンの情報は【こちら】から。