表裏世界のアナグノリシス
6,669字
白衣姿の同僚が、革張りのチェアに身を委ねている。小鳥の囀りに似た音が響き、モニターの直線が波形に変わる。私たちはほっと安堵の溜息をついた。
「記憶カードと適合したよ。シミュレーションはどうだった?」
私の問いかけに、同僚はデバイスを外しながら微笑む。
「日程が被ってる脳神経学会と脳科学総合学会、どっちに出るか選んでみた。これはどっちの学会でもメイントピックになる。でも脳神経学会の方がよさそう」
「随分はっきりしたね。良かった、でも、もっと検証しないと」
弾む語尾を抑えようとする私に、別の同僚が私の肩を叩いて告げる。
「今日はもうゆっくり休んで、ドギョムさん」
みんなが研究室から出ていく中で、私は波形のログを眺める。
このIFSは、人生で今生きている現実とは異なる選択をした時に、どうなるかを体験できるものだ。
脳神経デバイスで記憶をデータ化して記録する試みは、ここ十数年間で飛躍的な進歩を遂げた。データの飽和や忘れる権利といった問題は残っているけれど、積み上げた経験や記憶が消滅する損失はなくなったのだ。
IFSは累積した記憶や記録、データなどを分析し、装着者の選択によって異なる人生を計測して提示する。進学先を理系にするか文系にするか。公務員になるかベンチャー企業に就職するか。もっと小さな選択でも、その後の人生に大きく影響することだってあるだろう。
そしてIFSの新規性は、脳神経デバイスとリンクすることで、五感に結びついた感情や感覚を同期できることである。例えば昔は気後れして行けなかった一人旅をシミュレートすれば、空港に降りたった時の匂い、聞きなれない言葉、見も知らぬ果物の味、始めて足を踏み入れた街の夕暮れの色など、過去に味わうことができなかった無数の感覚を実感できる。過去に当人が気に留めていない事象でも、五感で得た情報から当時の状況を再現し、潜在的な選択肢を示すこともできるのだ。
IFSは可能性に満ちている一方で危険性もある。判断力が育たないうちに使うと依存してしまうだろうし、交友関係の判断材料にすると人間関係を狭めかねない。だから未来をシミュレートする場合、既存の記憶や記録に近い時間内での提示に留めている。今後市場に出す時は、法律を含めて熟慮する必要があるだろう。一般使用にあたっては、長時間の使用や感情的な依存を「過没入」と規定し、年齢制限を設けて参考程度として使う形に留めるか、若しくは医療やカウンセリングに限定して使う方向で考えている。
これで何度めのシミュレーションだろう。自分の人生にのめり込まないようにしなくては。でも今はIFSの可能性を考えたいし、学会発表までに多くのデータを集めた方がいい。自分にそんな言い訳をしながら、私は机上の装置を眺めた。コイン大の小さな半透明のパッチを耳の後ろに貼り付けると、氷のようにひやりとする。あとはマイクロサイズの電極がシグナルの受渡しを行うはずだ。 私は柔らかいチェアに身体を埋め、ゆっくりと目を閉じた。
暗闇に光が閃き、真っ白な空間に放り出された。明るすぎて頭の芯がぐらつく。見渡すと何も写っていないスクリーンに囲まれていて、手を動かすと視界の右端に透過パネルが現れた。数字に触れ、値をほんの少し進めてみる。
瞬間、ミルクとおぼしき甘い匂いにほわりと包まれた。自分の指を咥えていて、その柔らかさと温かさに安心感を覚えている。ぼんやしていていた視界が、急速に定まっていく。薄茶の細い棒とふかふかしたものが目に飛び込んでくる。懸念材料だった感覚のリアリティに喜びがこみあげた。
この時期の私はもちろん、ベビーベッドの柵やぬいぐるみという言葉を知らないし、それらがプラスチックや化学繊維でできていることなど気に留めていないはずだ。それなのに、カラマツに似せてプリントされた年輪や、片方とれかかった熊の目などが妙に意識へ引っかかる。
これは記憶の中の僅かな視覚情報から再現した映像だろうか。以前のシミュレートよりもずっと鮮明に感じる。当時の主観とのバランスで調整すべきかもしれない。そう思いつつ、普段の自分なら見過ごしているであろうものの新鮮さに呑み込まれ、シミュレートを中断することができない。
声が聞こえる。若い夫婦が白髭の翁と向かい合って座っている。机上にはカードや水晶玉、筮竹のようなものが見える。翁は父の方を見て頷くと、筆で紙に書きこんだ。目をこらすと、祈るの「禱」に兼ねるの「兼」という文字が見える。
人肌に温まった布でくるまれたように、体がじんわりと温かくなる。単に透明な存在だった自分が、直線と曲線でもって輪郭を獲得したような気がする。私の「ドギョム」という名、「物書きとして大成する」という不可思議な意味の名前は、この痩せた白鷺のような老易者によって与えられたのだ。
人名にはあまり使わない文字のせいで学校の先生を困らせてきた名前には、こんな経緯があったのか。柔らかな温もりに身を任せたままパネル付近に目をやると、オプション・ウィンドウが表示されている。選択肢の中には「眠る」や「泣く」があった。「泣く」を選んでみると、今よりずっと滑らかな顔をした母と、ほぼ記憶と変わらない父が駆けつけ、こちらを覗き込んだ。
懐かしさと怖いもの見たさが入り混じる奇妙な感覚の中、時を進める。
図書館の書棚が見える。私は本が好きだった。嫌なことがあれば学校の図書館に籠もり、探偵や刑事、探検家や宇宙飛行士、魔法使いや超能力者たちと会いに行ったものだ。印象に残っているのは老婆と熊のバトルものだった。雪山に捨てられた老婆たちが一丸となり、猛々しい人食い熊と戦う。続きを知りたい一方で終わってしまうのが嫌で、すぐに溶ける綿菓子を味わうような気持ちでページをめくった記憶が甦る。
当時の私は、本を選ぶために独自の方法を編み出していた。まず自分の中で数字を決めておく。図書館の入り口から決めた数の分だけ歩く。そして目を閉じて手を伸ばし、最初に触れた本を読むのだ。そうやって読んだことがない本と対峙し、読んで気に入れば書店で購入して自室の書棚に迎え入れた。ふと気まぐれに、IFSを標準の速度に落とし、触れたものの隣の本を手に取ってみる。これくらいの変化なら、後の時系列に変化は起こるまい。
友人の中に、見覚えのある顔があった。小学校高学年のクラスメイトだったサクラだ。出身国の国花を名とする彼女は、漫画やアニメなどのカルチャーを教えてくれた。IFSをサクラが私の家へやってきた日に合わせる。彼女は本棚をまじまじと眺めると、ゾンビものや哲学書が入り乱れるカオスぶりに驚く。どういう基準で買っているのか問われた私が本の選び方を教えると、サクラは本棚をじっと見て、
「占いみたいに選んだ本が、棚を占有してるんだ」
と言った。彼女の国では、「占う」と「占める」には同じ文字を使うという。昔の占いは亀の甲羅に点を刻んで行ったことから、点を「しめる」という意味も含むようになったそうだ。
サクラの国では嘗て卑弥呼という女王が占いで政治を行ったそうだが、私の国でも王后の閔妃が巫俗という神占に入れあげ、国が傾いてしまったことがある。サクラは「占い」がそもそもどういう意味なのか気になったらしく、手元のデバイスでエージェントAIに問い合わせると、
「わたしの国の言葉だと、『占い』は、裏の世界を知って表の世界と答え合わせをする『裏合い』に由来するという説もあるんだって」
と、すっきりした顔で告げた。
裏と表。誤と正。凶と吉。「占い」は問われた事象を振り分ける。その身振りが、片方に定着させるという行為が、「占める」という意味に結びついたのではないか。点を穿たれてギリリとひび割れ、今しもまっぷたつに割れてしまいそうな甲羅のイメージと共に、とりとめのない想念につきまとわれる。
その時、ふとIFSのオプション・ウィンドウを見ると、「もっと聞いてみる」「話を終わらせる」とあった。前者を選ぼうとしたけれど、サクラのあどけさなさが残る瞳を見てはっとした。このままでは幼少時を体験するだけで終わってしまう。私はサクラの笑顔と別れがたく感じながら、透過パネルの数値を進めて人生を早送りした。
景色が、過去が、嵐のように過ぎ去っていく。私は大学の文芸創作科へ入るために文章を学んでいる。当時は世界が正義と起承転結でできていると思っていたし、自分の血肉になった物語を創作する側にまわりたかった。でも小説の勉強を始めた年にソウル江南トイレ殺人事件が、数年後にはテレグラム性加害事件が起きた。私は徐々に、世界は思っていたものとは違うんだと実感していった。
フィクションの中で登場人物が重要な真実に気づくことを創作論では「発見」、より専門的な用語ではギリシャ語に由来する「anagnōrisis」と呼ぶ。このいかつい響きの言葉は、ギリシャ語の接頭辞で「再び」の意味合いを持つ「ana」と、「知る、知らせる」を意味するgnōrizein」に由来している。受験勉強の中で知ったその概念は、残念ながら虚構の中ではなく、現実の中で繰り返し機能しているようだった。
IFS内の視界で、ふと、お気に入りだったヒップホップパンツにスラング入りのTシャツが見えた。標準倍速にして数字を止めると、蝉も鳴かないくらいに暑い夏の日が甦る。むんとする空気にうんざりしながら、私はある小屋を訪ねていた。扉についている卍は寺院の印ではなくて、巫堂の家の印だった。
シャーマンである巫堂が宿す神々に会う時は、身だしなみに気をつけなければならないけれど、当時それを知らなかった私は、思いきりラフな格好だった。それでも精一杯の誠意を込めてお辞儀をして入ると、色とりどりの旗が飾られていて、お供え物らしき果物の甘い匂いがぷんと漂っていた。巫堂は小柄な老女で、赤と青の光沢がある衣装を纏い、色の洪水の中で座り込んでいるようだった。私は彼女に聞きたかったことを尋ねた。すると巫堂は静かに口を開いた。白みがかった赤い舌が、熾火のように揺らめいていた。
神託を聞いた時の感覚が、知らない土地へ置き去りにされたような当惑が甦る。当時の私は既に、世の中が理不尽な暴力に満ちていることをまざまざと知らされていた。嫌なことを知らなかった頃に逃避したかったけれど、それは叶わないのだと理解していた。
私はあの日、巫堂の迷路のような言葉の中で大学の進路を決めた。あれほど焦がれていた文芸創作科ではなく、脳認知科学科に進学したのだ。他の学者にとっては失礼な言い方かもしれないけれど、人の思考を知れば暴力を回避できる方法を見つけられるかもしれないと思い、科学の世界に逃避したのだ。
研究者になった私は、さまざまなプロジェクトに参加した。嘗て読んだ物語は、尽きない泉のように論文や研究のアイディアになった。知らなかった異文化を学び、因習に囚われた足元の文化を見つめなおそうとしたし、脳神経デバイスを使い、時間軸が入り乱れてしまった記憶をデータベース化するプロジェクトの末端に参加した。民話が略奪された少数民族の語り部たちや、被害の実態が被害者ごと抹殺されかけている生存者たちの記憶を守りながら、五感ごとアーカイブ化する共同研究を行った。
突然、足元がずぶりと沈み込む感覚に陥った。重たい泥に足を囚われるような無力感が全身を支配する。澱のような気配には覚えがあった。数年前に着手した、感情や感覚を量化するプロジェクトだ。発足のきっかけは、十二支で庚午に当たる年に生まれた女性は気性が荒い、という迷信のために性別選好による中絶が横行したという歴史的な事実だった。
当時の女性たちは、自分と同じ性別であるために子どもの命を消さなければならなかった。喪失の中で感情が凍った女性や、経験を言語化する機会を与えられなかった女性。生まれついての属性のために、人生に無数の落とし穴が仕掛けられた女性たちは、アナグノリシスを剥奪されていた。そして調査の結果、この国の女性たちは、言語化されていない苦悩や悲哀を大量に抱えていることが、乾いた数値で示されたのだ。
隠された不条理に輪郭を与えることは困難を極めた。それでも彼女たちは、数十年ものブランクを経て自分の思いを発見して目を凝らし、懸命に名前をつけていった。私はそういった感情の共有に手を貸してきた。逃れたいはずの痛みを再現するのは辛いけれども尊いと思ったし、この世の半数を占めるけれども、あくまで半数でしかない性に合わせてつくられがちなテクノロジーを、できれば全ての人に拓きたかった。
片付けられない思い、懐かしさを超えた想いに呑み込まれそうになる。呼吸が止まっていることに気づき、懸命に息を吸い上げる。これまでのシミュレーションで経験したことのない情の洪水、これは「過没入」だ。理性を叩き起こす思いで透過パネルに触れる。震える手を懸命に鎮めながらオプション・ウィンドウを開き、選択肢を見つめる。
点滅しているのは、「脳認知科学を極める」と「書き続ける」という選択肢。
瞬間、自分の全てが停止しそうになる。そうだった。あのむんとした夏の日、私はひどい緊張の中で巫堂に「文章を書き続けていいのでしょうか?」と尋ねた。巫堂は目を閉じると、溶けかけた雪塊のような頭を揺らした。何かと意思疎通しているのだろうか。そう思った瞬間、奇妙なほどに真っ黒な目があらわれた。そして私は、意思の宿らぬガラス玉のような瞳の奥で彼女が発した「お前が書きたければ書け、嫌なら書くな」という迷路の中に取り残されたのだ。
占いは裏表の世界を、相反する二極を、照らし合わせて振り分ける。あの日私は占われ、答えの中へ置き去りにされた。ところが今や、選択肢を自在に振り分けて、選んだ道を占有している。謎かけのような言葉に正解はあったのだろうか。答え合わせの出口なんて存在するのだろうか。
IFSを終了しなければ。塵ひとつない清潔な職場に、賢くて物分かりのよい同僚たちのもとに、これから控えている脳神経学会のために戻らなければ。そう、とるべき行動は分かっていたけれど、とりたい行動は違っていた。過去は、記憶は、さらさらと流れ去る時の砂ではなく、唐突にあらわれる激しい流砂のように、五感を、情緒を巻き込んでいく。そして私はかつて選ばなかった選択をしたのだ。
視界が切り替わる。私の情緒になだれ込んできたのは、整然とした数式や数字によって構成された調和の日々ではなく、輪郭の定まらない文字や言葉と格闘する混沌の日々だった。私を迎え入れたのは、純粋で近づきがたいけれども、人の見たくない部分を遠ざけてくれる数理の神殿ではなくて、不条理で割り切れないけれども、心の奥の隠し扉をつかのま開いてくれる人文の劇場だった。もともと物語は逃避するための手段だった。ところが新しい世界をつくっても、登場人物たちは現実に似た部分を発見してしまう。だから私は逃げ出したい地球の上で生き続ける人々の物語をつくり続けようとした。
IFの私が執筆している物語が目に飛び込んできた。宿命的な名前は自己の兆しだった。古紙の湿った匂いの中で、虚構の蠱惑的なさざめきが響いてきた。自分を守ってくれていた存在に気づくこともなく、入り組んだ社会の迷路に近づいていった。望みの少ない現実の中、迷いながらも脳認知科学を専攻した。女性たちのアナグノリシスに手を貸したくて、様々なプロジェクトに参加した。人生をシミュレートできる機材を開発した。そして今、薄い意識の底で自覚している。これまで成してきたことは、人生の落とし穴から身を守る術を彼女たちと共有するためだったのだと。
これは一体どういうことか。この世界は、かの高名な数学者による表裏一体の輪のかたちなのか。鏡の中の鏡をのぞきこむように、数えきれない混乱と懊悩が反響して増幅する。どの世界で流れているのか分からない冷や汗が、つうっと首筋を伝っていく。震える手で透過パネルに触れ、今度こそ目的のボタンを押そうとする。
目を開けた時、私はどこにいるのか。表の世界に戻るのか、それともこの私は裏の存在で、書き続ける私が表の存在なのか。分からないけれどもやることは同じだろう。どうやら私は、表裏どちらの世界でも、逃げ出したい地球の上で生き続ける人間のようだから。
告知
先行公開:2026年2月28日 一般公開日:2026年5月9日
カバーデザイン:VGプラスデザイン部
この小説は〈日韓SF交換日記〉に寄稿されたチョン・ドギュム「発見した人たちに捧ぐ」をもとにしたフィクションです。実在の人物とは関係ありません。
チョン・ドギョム「発見した人たちに捧ぐ」や、中野伶理さんによる日記を収録した『日韓SF交換日記 あなたの言葉を聞くための対話』はKaguya Booksから好評発売中! 詳細はこちら。
