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ボーンスープ

ボーンスープ

原題:BONE SOUP
翻訳:紅坂紫
6,633文字


「強くしたい体の部分を食べなければならない」

こういう格言が、ギリシャにはある。あるいは単にわたしの祖母がよく言っていたというだけのことなのかもしれない。

早朝まで友人たちとパーティーを楽しんだ後、カテリーナとわたしは家に帰る前に寄り道をする。アテネのダウンタウンにある食肉市場にはレストランが三軒あり、夜通し何ポンドもの肉をトラックから降ろす労働者のために朝五時から営業している。そこでわたしたちは小さな四角いテーブルに座り、テーブルクロスの代わりにワックスペーパーを敷いて、果てしない二日酔いを治すためにトリッパ・スープ〈訳註:ギリシャやトルコでよく食される牛などの胃のスープ〉を食べた。特に胃もたれがひどいから。祖母が作るものとは違う。実体がない。でもそれで十分だった。

カテリーナはわたしの皿を見て顔をしかめた。
「やだ最悪」彼女は言う。でもすぐに彼女はにやっと笑って、いい意味だよ、と伝えてくれた。意地悪したいときであっても、彼女はいつも優しい。

わたしは微笑んで、温かいゼラチン状のスープを喉に滑り込ませた。
「胃には胃を、だよ」

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わたしのおばあちゃんは料理の腕前が有名で、わたしがいないときでも子どもたちが彼女を訪ねてきたものだった。学校から帰って角を曲がると時折、子どもたちがおばあちゃんの家の玄関の外に群がっていた。おばあちゃんはビスケットや小さなトリュフチョコレートを配った。両親には言わないと約束した子に限り。とはいっても子どもは子ども、うっかり話してしまう子もいるにはいたけれど、あまりにもしょっちゅうお菓子を食べてきたり、ご飯を食べられなくなったりするほどでなければ、親たちもそれほど気にかけなかった。

わたしが友だちを連れていくと、おばあちゃんはライス・プディングやハニー・ロール、どちらにもシナモンをたっぷりかけて出してくれた。おばあちゃんのドアはいつだって子どもたちのために開かれていて、いつも何かしらを出してくれた。子どもたちはまるで綿菓子でできているかのように、ほとんど透明で軽やかな姿でおばあちゃんの家を後にしたものだった。まるで肉が詰まってなどいないかのように。

けれどもおばあちゃんはわたしに何も食べさせてはくれなかった。わたしが家でお菓子を食べられたのは、数日間粘った末にお母さんが折れたときだけだった。おばあちゃんのデザートには一度だって何とかありつくことさえできなかった。
「これはあなたのためのものじゃないの、ディナ」と言いながら、プロフィトロール〈訳註:小ぶりなシュークリーム〉のトレイをわたしの小さな指から奪い取ったものだった。「あなたは肉を食べるべき女の子。甘いものは役に立たないんですよ」

ある日、わたしたちの家から歩いて五分ほどの場所にあるおばあちゃんの家にいったとき、カテリーナがもう来ていたことがあった。

彼女はおばあちゃんのキッチンから出てきて、少しぼんやりとして青ざめてはいたものの、蜂蜜でベタベタとした笑顔を浮かべていた。

わたしは本をダイニングテーブルに置き、家じゅうおばあちゃんの後をついて回った。おばあちゃんがカテリーナにあげたデザートが少しでもほしくて、一時間せがんだのだ。やがておばあちゃんはわたしを避けるのを止めて振り向いた。
「あなたにもあげるものがある」おばあちゃんはわたしに説得されたみたいに言うと、キッチンへと消えていった。

けれどもわたしがテーブルについて静かに勝利を祝っていると、湯気立ちのぼるボーン・スープのボウルを両手で抱えたおばあちゃんが戻ってきた。一本の骨がそこには浮かんでいた。長くて細い骨が。具体的に何の骨なのかはわからない。
「今朝作ったばかりですよ」おばあちゃんはまるでわたしの好物であるかのように差し出した。

わたしの顔はさっと曇った。

カテリーナはシナモンをまぶした唇と砂糖でコーティングされた頬の下で微笑み、いつものように美しかった。彼女からは病的なほど甘い匂いがした。一瞬、わたしの甘党の脳が見せた幻覚かもしれないけれど、彼女がほとんどカスタードでできているように見えた。目はパステルブルーに砂糖漬けされたアーモンドが二つ、あごはショートブレッド・ビスケット。けれども彼女の体の一部はまだ肉だった。髪は黒く、いつもどおり肩から滑らかに流れ落ちていた。目を離せばお菓子でできたカテリーナの姿は消えてしまった。
「子どもが育つには強い骨が必要なの」祖母は続けた。そしてわたしの隣に座り、ボウルがきれいになるまでひとさじひとさじスープを飲ませたのだった。

骨には骨を。

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その言葉を裏付けるかのように、カテリーナはその日のうちに腕の骨を折った。彼女は一か月間学校を休んだのだった。その一か月、学校の課題を知らせるのに、わたしは毎日彼女を訪ねた。

どうやらわたしは、病気になることはほとんどなかったにもかかわらず、町で唯一丈夫な骨が必要な子どもだったようだ。

祖母が道でばったりわたしに出会った時に、わたしがその前に甘いものを食べていれば、その匂いを嗅ぎつけたかのように、誰かが祖母に個人的な危害を加えたかのように、顔ぜんぶを歪めたものだった。わたしの手を掴んで両親の元へ引きずって帰る。そんなときわたしのお父さん、つまりおばあちゃんの息子が彼女をなだめるためにできることは、二度とわたしにお菓子を与えないと約束することだけだった。

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そして、カテリーナのように子どもが病気になったり怪我をしたりすると──子どもというものはしょっちゅう病気になるものだが──彼女は自分がずっと正しかったかのように振る舞うのだった。

わたしが、なぜ他の子にはわたしと同じ肉ではなくお菓子を振る舞うのかと尋ねると、おばあちゃんはわたしを真剣な眼差しで見つめながらこう言った。
「他にどんな目的でわたしのキッチンに来るっていうんです」

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夜更かしをしている。ただ今回は期末試験に向けて勉強するためだ。集中しようと必死に努めてはいるものの、携帯電話にはカテリーナからのメッセージが点滅し続けている。
〈まだ何も〉

彼女の通う映画学校には、彼女より一年先輩の男性がいて、彼女のことをのらりくらりとかわしていた。
〈彼のこと無視しようとしたことある?〉

カテリーナは悲しい顔の絵文字を送ってきた。

彼女はわたしに助けてほしいんだ。ねえ誰かカテリーナに伝えて。夜中に彼に電話して、背後で不審な音がしていないか確認するようにって。わたしは返信しないからさ。

腹ペコだった。

わたしはキッチンに行って、冷蔵庫を開ける。砂糖は脳に良い燃料だと言われているけれど、わたしは甘いものがあまり好きではない。おばあちゃんが知ったらさぞ喜ぶことだろう。冷蔵庫の奥にケバブが残っているけれど、いま本当に食べたいのは仔羊の脳だった。

わたしが建築学科を受験していた頃、おばあちゃんは毎日せっせと料理をしてくれた。二十四時間わたしに食事を与えられるように、一時的に彼女の家に移り住むよう言ってきたほどだった。大学に通うまで実家暮らしだったとはいえ赤ちゃんではなかったので断った。それでも彼女は食べ物を持ってきてくれた。彼女が一番作った料理は仔羊の脳のフライだった。
「脳には脳を」と彼女は言った。

わたしが大学に入学したとき、おばあちゃんは話を聞いてくれる者みなに、わたしが試験を乗り越えられたのは自分の料理のおかげなのだと自慢していた。わたしの成功もおばあちゃんのものだった。わたしたちは家族だ。つながっている。

わたしはしばらく携帯電話を見つめる。カテリーナからの新しいメッセージが二件あったけれど、わたしは読まない。その代わり、おばあちゃんに電話する。
「仔羊の脳みそはある?」わたしが尋ねると、電話越しにおばあちゃんが笑っているのが感じられた。
「持ってゆきますからね」

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試験の一月後、お父さんから電話がある。おばあちゃんが心臓発作を起こして容態が思わしくない。今は入院しているけれど、高齢なので助からないかもしれない。おばあちゃんにまだ意識がある間に最後の会話をしたいならすぐに行かなければならない。

わたしは信じがたい気持ちのままカテリーナにメッセージを送った。その女性は、一日も病気をすることなく八十八歳を迎えたと自慢していたのだ。幼いころはおばあちゃんを不老不死の魔女だと思っていたけれど、今でもその思いが抜けていないのかもしれなかった。

お父さんはおばあちゃんの末っ子で、一番のお気に入りだった。肉を食べるべき少年。他の子どもたちのほとんどは疎遠になっているか、病気か何かで亡くなっている。お父さんは自分がママっ子であることを認めたがらないけれど、わたしは知っていた。
「戦時中おばあちゃんはまだ子どもだったんだ」彼は紙コップに入った熱々のコーヒーを啜りながらわたしに語った。砂糖は入れていない。一晩中おばあちゃんのそばにいたから、彼の目は疲れ果ていた。「当時の人たちには子どもが何人いたか知っているかい」

その話は何度も聞いた。おばあちゃんには十一人の兄弟がいた。言い換えるならば、家族には十二人の子どもたちが生まれた。そのうち何人が大人になることができたかは全く別の話だ。わたしのおばあちゃんは丈夫でよく働いたから幸運だった。飢饉が来たとき、おばあちゃんはすでに家族にとって大事な財産になっていた。当時の人々はそのように考えていたのだ。女の子だったから両親には心配されたけれど、彼女は諦めなかった。果物や野菜すら貴重で、肉を見つけることはほとんど不可能だった。おばあちゃんが肉に執着する理由はきっとそこにある。家族に食べものが配給されると、彼女は畑仕事の体力を保つために十分な量を食べさせてもらうことができた。彼女は食べるために、他の兄弟の二倍働きつづけた。そしてついに彼女は飢饉を乗り越えて、家族のほかの誰よりも長生きしたのだった。

ある意味彼女は両親のお気に入りの子どもだったのだ。ちょうどわたしのお父さんが彼女のお気に入りの子どもであるように。そして、その事実が生死を分かつことがある。肉と、砂糖の間で。

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日が昇って少しすると、お父さんがわたしを部屋の中に招き入れた。最後におばあちゃんに会ってから一週間も経っていないけれど、ほとんど見る影もなかった。顔はやつれ、ふっくらとした頬はこけ、あたかも誰かが彼女のエネルギーと一緒に一夜にして体から肉をすべて奪ってしまったかのようだった。

おばあちゃんはわたしが何を考えているか見透かしたように、かすかに微笑んだ。
「病院食はおしまいですよ」おばあちゃんはわたしに言う。「肉が足りないんだから」

父親は恥ずかしげに、看護師が巡回にこないか見回している。わたしは椅子を、おばあちゃんの頭が置かれている場所の近くまで押してゆく。
「すぐにまた料理ができるようになるよ」わたしはおばあちゃんにそう言った。わたしが子どもの頃の彼女のように自信に満ちた声を出そうとしたけれど、彼女は首を横に振った。
「もうそんなことしません」

おばあちゃんは突然わたしの手を掴んで引き寄せた。この年齢の女性としてはあり得ない強さだった。
「何か食べないと、もうここから出れらなくなる」おばあちゃんはわたしの耳元でささやき、目で懇願した。「わたしをもう一度強くしてくれる何かを作ってちょうだい」

感覚が麻痺していなかったら、笑ってしまっていたかもしれない。わたしは何かを調理する方法を一つも知らないけれど、おばあちゃんの家にレシピ本があることはわかっている。おばあちゃんのキッチンに。でもおばあちゃんが求めているのは料理だけではない。おばあちゃんはおばあちゃんにしか作れない食べものに飢えているのだ。一人を満たしてはくれるが、他人を空虚にしてしまう。そんな食べものを。

わたしが答える間もなく、カテリーナが電話を手に慌てた様子で中に入ってきた。
「なんで出なかったの」と問い詰める。「二十分ずっと探してたんだよ」

それから、彼女は立ち止まって、唇を噛んだ。「ごめん」

カテリーナは部屋の最後の椅子を掴んでわたしの隣に身を寄せた。目にはすでに涙があふれていた。おばあちゃんは彼女に微笑んだけれど、もう何も話さなかった。おばあちゃんの視線が時折わたしの上を通り過ぎても、わたしは気づかないふりをしている。

わたしたちは何時間も黙って座っている。

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「おばあちゃんはこれを欲しがると思う?」カテリーナがおばあちゃんの料理本を手に居間に来た。
わたしはおばあちゃんの必需品を詰めていたダッフルバッグから顔をあげる。「あんたがそれを移動させたっておばあちゃんが知ったら、本当に怒っちゃうと思うんだけど」

その言葉で彼女は足を止めた。それから古い友人のように表紙を撫ぜた。
「子どもたちはきっとおばあちゃんがいなくなると寂しがるね。彼女はここでたくさんのお菓子を作った。わたしのためにも、わたしたちのためにも」

わたしのためには作らなかったけど、とは言わない。代わりに、話題を変えた。
「先輩のこと、まだ辛い?」

カテリーナは肩をすくめる。「そんなにかな」

カテリーナがわたしにも自分自身にも嘘をついていることはわかっているけれど、嘘をつくことは彼を乗り越えるための第一歩だ。今のところ、それで十分なのだ。
「そう、人が文字通り死にかけてる事実のほうが、どこかの男なんかよりずっと大事、ってこと」

カテリーナは自分の言ったことに気づくと青ざめた。「ああディナごめんなさい。そういう意味で言ったんじゃなくて」

わたしに駆け寄って後ろから抱きしめてくれる。わたしはまだダッフルバッグの上でかがんでいたけれど、カテリーナに抱きしめさせてあげた。そうすることで彼女の気分が楽になるのはわかっている。残念なことに、わたしの気分を楽にしてくれるものは何もないのだから。
「大丈夫」わたしは言う。わたしはダッフルバッグに荷物を半分詰めたままにして、ソファに突っ伏した。「まあすぐに戻る必要はないよ。おばあちゃんはきっと寝てるんだし。休もう」

わたしがテレビをつけると、子どもの頃、週末の午後にアニメを見ていたときと同じように、カテリーナはわたしの隣に座った。カテリーナはエクメク〈訳註:記事を何層にも重ねて焼きレモン・シロップ、クリーム、シナモン、ピスタチオなどを飾った菓子〉やアップルパイをお腹いっぱい食べて、わたしはおばあちゃんが作ってくれた料理を何でも食べた。カテリーナはその後数日間体調をくずしたが、また元気になったものだった。子どもたちはしょっちゅう病気になるけれど、誰もそのことを何とも思わない。ひとりの老婦人が小さなキッチンで砂糖を紡ぐ方法を子どもたちに教えているとしたら、どうだろう。その砂糖と、折れた腕や化膿した耳が置き換わっているとしたら。その老婦人にとって子どもの体のほんの一部を盗むだけで十分なのだとしたら、誰が気づくだろう。肉を食べさせてもらうべき人だっているのだ。そういう人には肉が必要で、手に入れるべきなのだ。

料理本はカテリーナの膝の上に置かれたままだ。黒く滑らかな髪をポニーテールにしている。その髪型によって、首は長く、エレガントに見えた。カテリーナは最近いつも少し弱っているようだけれど、そのことが彼女の魅力をさらに高めている。悲しくても、疲れていても、彼女は美しく見えるのだ。あの男が何を考えてこの子を振ったのかがわからない。

静かに彼女の近くに座ると、嫌でも彼女の香水に気がついた。ほのかなバニラの香り。おばあちゃんがカスタードに使っていたもののような。彼女の耳は、完璧にデコレーションされたヴィエニーズ・ワール〈訳註:ショートブレッドをやや甘めに仕上げたような、くちどけの良いイギリスの焼き菓子。クリームやラズベリーなどをサンドする〉のように見える。口の端にはシナモンがついている。カテリーナは今ではほとんどが砂糖と生地になってしまっているけれど、まだ肉の良い部分もいくつか残っている。

おばあちゃんは病院食をあまり長くは我慢できない。
「来て」

わたしはカテリーナの膝から本をそっと取り上げ、キッチンへ向かう。彼女は混乱した様子でわたしを見上げた。おばあちゃんのメモにどこまで忠実になれるかは、わからない。

心臓には心臓を、だ。
「チョコレートケーキを作ってあげるね」わたしは微笑んだ。「失恋に効くんだよ」

〈了〉




翻訳・紅坂紫

2001年生まれの小説家、詩人、翻訳家、エッセイスト。翻訳者としては、自身が共同編者として参加した『結晶するプリズム:翻訳クィアSFアンソロジー』所収のイン・イーシェン「鰐の王子さま」、Kaguya Planet掲載のジョイス・チング「まめやかな娘」、『S-Fマガジン』掲載のナディア・アフィフィ「バーレーン地下バザール」などを手掛けている。Kaguya Planet「食」特集にSF短編小説「鬼姫と絵師」を寄稿。

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カバーデザイン:VG+デザイン部

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エフゲニア・トリアンダフィリウ「ボーンスープ」は、Kaguya Planetの「食」特集の掲載作品です。
「食」特集では現在、紅坂紫「鬼姫と絵師」、清水裕貴「美しい腸のための生活」を公開中。
「美しい腸のための生活」は、【こちら】から読むことができます。
「鬼姫と絵師」は、【こちら】から読むことができます。
また、「ボーンスープ」や「美しい腸のための生活」、「鬼姫と絵師」を収録するマガジン『Kaguya Planet 特集:食』を2024年10月に刊行予定。
マガジンの詳細については【こちら】

エフゲニア・トリアンダフィリウ

エフゲニア・トリアンダフィリウ

    ギリシャの作家・アーティスト。ダークな雰囲気の作品制作を得意とする。中編Six Versions of My Brother Found Under the Bridge(Uncanny Magazine掲載)がシャーリー・ジャクソン賞を受賞しているほか、多くの作品がイグナイト賞、ローカス賞、ネビュラ賞、ワールド・ファンタジー賞にノミネートされている。執筆した作品はReactor、Uncanny、Strange Horizons、ApexなどのSFウェブジンに掲載されている。邦訳が出ている作品は、『ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス』(2023年/竹書房)に収録されている「われらが仕える者」。男の子と犬と一緒にアテネ在住。