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美しい腸のための生活

美しい腸のための生活

4,029字


誰か、腸を落っことしたんじゃないの、と思うような惨状が広がる駅のホームを通り抜け、お台場の海が見えるレストランに向かう。

貧相な人口砂浜に打ち寄せる波は内臓の色。東京湾流域には日本の人口の約四分の一が居住し、住民の胃腸から流れ出たものの一部が海に溶け込む。それを餌に大量増殖したプランクトンが海を赤褐色に染め、プランクトンが死んで海底に降り積もると今度は海がのっぺりとしたターコイズブルーになる。バクテリアが死骸を分解するために酸素を消費し、貧酸素状態になった水中で嫌気性細菌が硫化物を生成するのだ。この青潮になると、硫化水素の腐卵臭と、酸欠で死んだ魚の匂いが立ち込める。
「この前ジュースクレンズをやってみたの。トイレに何回も行ってお腹がすっきりしたし、肌艶も良くなったし、睡眠も深くなって、集中力も上がった」

レストランで食事をし始めたら、同席者が唐突に排泄物の話をしだして面食らう。こと美容に関する事柄であったら、排泄の話題も堂々と口にしていいことになっているのは不思議である。

十年程前からコールドプレスジュースの店が雨後の筍のように増殖している。ジュースクレンズとは、固形物を食べずにジュースだけを飲む健康法だ。その際、何故だか普通のジュースではなくコールドプレスジュースを飲むと良いとされている。普通のジュースと栄養成分がどの程度違うのかわからないが、自然由来の目に見えない小さな何かの力が体を良い状態に導き、体の中に溜まった汚いものが追い出される。
「この牡蠣、全然臭くなくて美味しいね」

硝子の器に盛り付けられた生牡蠣が運ばれてきて、彼女は早速一つ平らげた。

生食用の牡蠣は、滅菌した海水の中で半日ほど暮らし、雑菌や不純物を吐き切ってから出荷される。牡蠣は海の濾過装置とも呼ばれており、小さな体で一時間に10~20Lの海水を吸い込み、有機物を濾し取って透明な水を吐き出す。そのおかげで海はきれいになるが、フィルターとなる牡蠣の体には様々な雑菌や有機物が付着し、時には毒を蓄積する。牡蠣が海で一生を終える分にはそれで良いのだが、人間が食べる場合は浄化しなくてはいけない。浄化処理で牡蠣が吐き出した汚水は巡り巡って再びこの海に流れる。
「少し太ったから、あなたもジュースクレンズをすれば。贅沢をしすぎてるんじゃない? 貯金はちゃんとしているの」

現代日本においては、体型の変化を指摘するのも経済力を詮索するのも躊躇すべきことだとされているが、近しい間柄の人は時々無遠慮に聞いてくる。彼女とは血縁があるため、私が借金やアルコール依存症、その他様々な疾患で生活が崩壊したときに、迷惑が降りかかる可能性がゼロではないから、予防的に釘をさす必要があるのだろう。

人間の体は食べ物でできているし、ほとんどの都市生活者はお金で食べ物を買う。どんなに抽象的な話をしたって、今、この大地の上で生きている身体がその人の大部分を占める要素ではあるから、食生活を語らせるのは、その人の近況を知る近道となる。

小説でも食事の描写は重要だ。外食なのか、自炊なのか、調味料にこだわるのか、季節の野菜や果物を食べるのか、火を使うのか電子レンジを使うのか。登場人物が創作した音楽や絵画を描写するように、内的世界の表現として書くことができるし、経済力や教育水準の低さを露呈させることもできる。
「体重はあまり変わっていません。お金もたいして持ってないですけど、食事は、比較的自由に選択できるので」

私は体重もお金も謙虚に管理する意識がある、と主張するのと同時に、食事くらいしか自由にできるものがないのだと哀れっぽく訴えもした。

たまに美味しいディナーを食べたとしても数万円。高級ブランドのワンピースを買うよりはるかに安い。脳が興奮するゲームや疑似恋愛に溺れているわけではない。食事は毎日必ず摂るもので、そこに多少美味しいものを求めたって依存症とは言わないだろう。
「でも、痩せたらいいわね」

彼女は念を押した。細く美しくなれと言っているのではない。健康を維持することがしっかりした大人のやるべきことだと言っているのだ。サステナブルな社会を実現することが一流企業の当たり前の使命であるのと同じように。

肥満そのものではなく、肥満を放置している怠惰が問題である。アメリカの貧困層の肥満を取り上げたドキュメンタリーが目につき始めてから二十年ほど経ち、日本においても貧困のイメージが痩せ型から肥満型に移りつつある。肥満は努力不足と知識不足に結びつけられ、生活に余裕がある賢い人ならば必ず肥満という状態を解消するためにサラダを食べたり運動したりするはずだ、と都市のほっそりとした人たちはいう。
「あの人みたいに、病気になったら困るでしょう」

彼女が繰り返し釘を刺すのは、私が独身で独居しているからだろう。昨年、親戚が二型糖尿病の悪化で死にかけた。彼に伴侶や子供はなく、両親が残した古い部屋に一人で暮らしていた。糖尿病の治療は十年以上前から続けていたが、栄養の知識は乏しく、自炊も得意ではなかったため、スーパーでカット野菜と少しの加工肉を買って食べ、時々薬を飲み忘れ、時々菓子をつまんでいた。その結果急性合併症を引き起こし昏睡状態になったが、運よく外出先で倒れたため、通りすがりの人に助けられて一命を取り留めた。
「あの人にね、そもそもどうしてそんなに太っちゃったのって聞いたの。そうしたらさ、働き始めた頃に、仕事帰りに美味しい食べ物屋さんに行くことにはまって、毎日のようにカツだのスパゲティだの、カロリーの高いものを食べちゃったんだって」

彼女は、まるで彼が不倫か万引きでもしたかのように語った。彼は非常識な量を絶え間なく食べ続けたわけでもないし、借金をしてまで高額なものを食べたわけでもない。自分で稼いだお金を好きな食べ物に使うことは、あらゆる境遇の労働者に平等に許されている安らぎだ。
「やっぱりストレスがあるとみんな食べすぎたり飲みすぎたりしちゃうんだろうね。そういう環境からは、離れた方がいい」

彼は高圧的な父の支配に強いストレスを感じながらも、その父親から母親を守るという大義名分を胸に抱いて生家に住み続けていた。そして労働もまた彼にとっては魅力的なものではなかったのだろう。家の近所の会社に長く勤めていたが、仕事の話は一切したことがなく、父親が死んでしばらくすると、母親の介護を理由に早期退職した。

私も仕事で強いストレスを感じると、美味しいものを食べて気分転換をしたくなるからぎくりとする。本当に排出すべきなのは、ジュースなど飲まなくても数時間待てば自然と体から出ていく便などではなく、不快な人間関係、不本意な仕事、惨めな住居など、自分を取り巻く環境なのだろう。

体の中をきれいにしたいという気持ちは、外的な環境に強い不満を抱いている時に喚起されやすい。ろくに睡眠もとれない暮らしの中で、容姿の衰えを指摘してくる友人や冷淡な恋人にうんざりしつつ、ごみごみした醜い街を歩く時など。

世間のデトックスブームも、環境問題と連動して起きているように思われる。

90年代後半から2000年代初めにかけて、高度経済成長期とバブル期に蓄積した環境汚染をいい加減どうにかしないといけないことに人々が気づき、ゴミ捨て場になっていた干潟が回復したり、東京湾の水質が多少はましになったり、ダイオキシンなどの総量規制が行われたりした。そうした世の中の取り組みを眺めているうちに、みんな自分の身の周りが汚いもので満たされていることが、急に気になりだしたのだろう。

当初は「汚い」環境、「汚い」食べ物、なんとなく「化学的」なものを避けることが重視されていたが、ある程度生活と環境が綺麗になってくると、今度は自分の体の中から生まれる当たり前の体液を入れ替えることに関心が集まっていった。

究極的には、赤褐色や黄色の体液を全部抜いて、透明な液体を詰め込みたくなるんじゃないだろうか。この生牡蠣のように、白くみずみずしく、高価な存在になるために。

とろけるような牡蠣の身を支える殻は、牡蠣自身が分泌する体液が結晶化して成長する。そして牡蠣の幼生は牡蠣殻に優先して付着するため、牡蠣の群衆が複雑な立体構造の礁を形成し、そこに小魚が住み着いて豊かな生態系を作る。海水とプランクトンは健全に循環し、牡蠣は美味しく育つ。

この街もまたカルシウムの化合物によって拡大したが、平熱の貝が周囲の何かを破壊することなく生成する殻と違って、街を形成するのは大量の熱エネルギーを消費するセメントである。さらに土台として海底の砂を大量に(えぐ)って固めており、東京湾の海には一部分だけ不自然な窪地ができている。その海底浚渫窪地の底に溜まった水は潮の流れから取り残され、酸素の溶け込む量が極端に少ない貧酸素水塊を温存する。

魚や貝の大量死を何度も招きながらぎこちなく成長した街の沿岸には、きらきらした硝子張りの部屋が並んでいて、海の臭いは届かない。うまく稼いで、この街から離れたもう少しましな海で獲れた美味しい魚を食べて、運動をして規則正しい睡眠をとる。体の汚れを流しながら、老化を防いで、誰にも迷惑をかけずに綺麗にぱたりと死ぬための努力をすれば合格だ。

体液が正しく循環しているという実感を持つことは、そのまま、資本が正しく循環している感覚に浸ることでもある。お金も海水も体液もうまく巡らないと腐る。賢い社会は環境汚染を放置しないし、賢い人は手間とお金をかけて身体を清潔で健康でスマートに保つ。この健康ゲームを支える幻想は、硝子に守られているから、足元にどんな酷い臭いの波が打ち寄せても平気だ。

例えば私の足が腐っても、きれいな生活を送る人たちの、きれいな香りを邪魔しない。海が見える部屋で、素敵なキャンドルを灯してワインを飲めば大丈夫。

〈了〉






カバーデザイン:VGプラスデザイン部


清水裕貴「美しい腸のための生活」は、Kaguya Planetの「食」特集の掲載作品です。
「食」特集では現在、紅坂紫「鬼姫と絵師」を公開中。
「鬼姫と絵師」は、【こちら】から読むことができます。
また、「美しい腸のための生活」や「鬼姫と絵師」を収録するマガジン『Kaguya Planet 特集:食』を2024年10月に刊行予定。
マガジンについてのについては【こちら】

清水裕貴

清水裕貴

小説家・写真家。2007年に武蔵野美術大学映像学科を卒業。2011年に1_Wallグランプリ、2016年に三木淳賞、また2018年には新潮社R18文学賞大賞を受賞。著書に『海は地下室に眠る』(KADOKAWA)、『花盛りの椅子』(集英社)、『ここは夜の水のほとり』(R18文学賞受賞作「手さぐりの呼吸」改題、新潮社)がある。土地の歴史や伝承のリサーチをベースにして、写真と言葉を組み合わせて風景を表現している。写真集は『岸』(赤々舎)、主な個展は『微睡み硝子』(PGI)、『岸』(PURPLE)など。企画展や芸術祭にも多数参加。