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星と巡り合う者たち

星と巡り合う者たち

8,288文字



西暦二一〇三年

モミ子が宿と食事代のために服を脱ぐと老人は「女の体には興味がない」と首を横に振った。
「勃たないってこと?」とモミ子は訊ねたが老人は返事をしなかった。

枯れ木のような見た目だから予想はしていた。

けれどそれでも人肌を求める者は多い。やり方は色々あるし、これまでもそうしてきた。

なので「別にいいよ」とモミ子は続ける。

モミ子としては、集落にいたときから年寄りは血走った同世代よりよほど楽な相手と思ってきた。

でもこの老人はやはり返事をせず、モミ子の裸を本当に見たくないのか、意図的に視線を外している。

しばらく悩んでからふと思い立ち、「男が好きってこと?」と質問を重ねた。

先日立ち寄った水のある村で、世の中にはそういう人間もいると聞いたばかりだったのだ。

老人は「ああ」とうなずき、「頼むから、さっさと服を着てくれ」と強い口調で言って、火にかけた鍋にトカゲを放り込んだ。

モミ子が足元に落とした麻の服をたくし上げると、老人は顔を上げ「あと男の体であっても、子どもに恩を着せて手を出そうとするほど俺は堕ちちゃいない」と付け加えた。
「恩?」とモミ子は首をかしげた。

老人はふんと鼻を鳴らしただけだった。

モミ子がたき火の向かい側に座り直すと、老人は黙って鍋をかき回した。

しばらく時間が経ってから、中身を器にすくって差し出した。

ぐずぐずになったトカゲと、干し草を煮込んだ汁だった。

汁を(すす)りながらモミ子はやっぱり食事を終えたら旅立とうと決めた。

一度安心させ信用させた人間を拷問するのが好きなのかもしれない。そうやって両手の指やなにやらを切り取られた青年と出会ったことがある。彼とは水と引き換えに添い寝してやった。たぶんもう死んでしまっているだろう。

もちろんモミ子も、この旅の途中で食料として狩られかけたことがいくどとなくあった。生まれ故郷の近くでは、盗賊によってある集落の人々が一人残らず殺されて、肉として売られた。

それに伴ってモミ子のいた集落は遠くに移住することとなり、その(すき)をついて家出をした。

彼女は真っ暗な地平線を見据える。

もう戻ろうと思っても、集落がどこにあるかはわからない。
「どうして、どこに向かって旅をしているんだ?」と自分のぶんの汁を啜りながら老人がモミ子に訊ねた。
「星を見たくて」とモミ子は正直に答えた。

老人が顔を上げた。
「星?」
「うん」とモミ子は頷いた。
「星か」と老人は低い声で唸った。

そして「星か、そうか、星か」と繰り返す。


西暦二〇二七年

疫病によって火蓋が切られ、五つの戦争と虐殺が続き、世界の方向を決定的にした、後に「暗黒の十年」として人々に語られることとなる年。

けれどその少年は世界の行く末なんてちっとも目に入らないくらい、目の前の恋にだけ夢中になっていた。

どれだけ夢中だったか。
「実は星が好きなんだ」と照れくさそうに言った恋人の言葉も、「だからよければ僕のお気に入りの場所に一緒に来てくれたら嬉しいな」という言葉も、セックスのためのスパイスと早合点するくらいに。

目的地のプラネタリウムはふたりが住む街である中野の公共施設にあり、そこには図書館やコンサートホールも併設されていた。

恋人は「学校の図書室にない本はいつもここで借りるんだ。オーケストラを聴いたことも、一度だけ」と道すがら言った。たしかに恋人はいつも本を読んでいるし、音楽も詳しい。なんだって知っている自慢の恋人だ。

連れ立って入った小さいドームでまず目についたのは、中心を占める大きく、物々しい、古い機関銃みたいな銅色のなにか。

思わず、「あれ、なに?」と指さして訊ねる。
「後でわかるよ」と恋人は笑った。

隣り合った席は狭くて固いが、二百円という入場料を考えると仕方ないかもしれない。 見渡す限り、メインの客層は小学生たち。幼児連れの親も。
「全部アナログなのが希少なんだ」と言う恋人。

たしかに色々と古ぼけている。

しばらくして扉が閉じ、ドームが暗くなる。

やがて天井に投射される光と影。

光はあの機関銃のようななにかから伸びていた。

暗闇のなかでナレーションが響く。
『こうしてまず太陽は新宿のビルに沈んでいきます。さよーならー……そうして夜がやってきて、一番最初に肉眼で確認できるのは——』

映画館でそうするように手を重ねるところまでは、恋人も上機嫌で応えてくれた。

けれどもいつも映画館で観るようなハリウッド映画よりずいぶんと退屈でスローペースの催しだ。飽きてきて、つい恋人の太ももに手を伸ばした。

恋人はゆっくり払い除けた。
『お月さまでは兎が餅を付いていますが、今日はちょっと脇役になってもらいましょう。ヨイショ』

投影された月の光が動く。

子どもはそんなジョークにだって笑う。

恋人はまた伸びた彼の手をまた払いのけてから、軽くつねった。

もう一度伸ばすと、強く押し退けられた。

諦めて目の前の光と影に身を委ねたが、やがて静かに寝息を立ててしまう。

明かりがついて、身を揺さぶられる。
「なにか質問のある方は遠慮なくこのあと僕に話しかけてください」というナレーションを背に、手を引かれて外に出たとき、恋人が少し泣いているのに気づいた。
「僕のお気に入りの場所だって言ったのに」と恋人は小声で言った。
「ごめん、お気に入りってそういう意味だとは……」
「ちっちゃい頃にからかわれて……男のくせにとか、なんとかさ。それからはこっそり来る秘密の場所で、もう僕たちも大人になったから、君となら堂々と一緒にって思ったのに……」

一度の喧嘩で別れるほどふたりの絆は弱くなかったし、その後はなんとか許してもらったけども、胸にはこれまで感じたことのない後悔の苦味が残った。

恋は甘いものだけではないという初めての学び。そうやって少しずつ大人になっていく。

この時代、少なくとも彼らにはまだそれが許された。


西暦二一〇三年
「星を目的に旅を?」と老人がモミ子に訊ねる。
「そう」と言ってモミ子は黒い雲に覆われた空を見上げる。「昔は夜空が光ってたんでしょう?」
「光っているというほどでは……まぁ、ぽつりぽつりとな」
「やっぱり。夢みたい」
「水はどこでも飲めて、肉も野菜も食べられた」と老人は皮肉っぽく腕を掲げる。
「そんなのは別に」とモミ子は首を横に振った。「あんまり興味ないかな」
「変わったガキだ」
「よく言われる」
「いや……すまん。星を見られるアテはあるのか?」
「北に行って、海を越えれば北の大地があって……」
「北海道と呼ばれていた」
「そう、そこなら星が見えるって」
「初耳だ。誰から聞いたんだ?」
「噂」

集落にはたまに新たな道連れ、つまり労働力が加わることがある。

モミ子にその噂を教えたのは水場を見つけるのに長けた中年の女性だった。昔は先生だったらしい。いろいろなことを教えてくれた。

老人は眉をひそめた。
「ただの噂で実際はこことたいして変わらなかったらどうする?」
「もっと北に行く」
「そもそもどうやって海を渡る?」
「船が出てるんだって。狩りをしている部族がいるらしい」
「初耳だ。そんなもの存在しなかったら?」
「自分で船を作ってみるよ」

老人は海の広さを測るように、両手を広げた。
「仮にいかだを作れたとしよう、黒い海に船出した次の瞬間におまえは海のもくずになっている。それくらいの広さだ。そこらにある水の流れと、海は違う。海を見たことは?」
「ない」
「おまえの想像を絶するぞ」
「かもね。みんなにそう言われたよ、親からも」

モミ子は両親のことを思い出す。モミ子の弟が飢えて死んだとき、ふたりの心はいっしょに死んでしまったように見えた。
「親は生きてる?」
「私が集落を出るときにはまだ。今は知らない」
「そんな無謀な旅なんて、止められたんじゃないか」
「みんなにね」
「まともな大人ならそうする」
「だから黙って出てきたよ」
「残された者たちは悲しんだだろう」
「だろうね。でも、夢だったから」
「星を見るのが?」
「そう」
「いつからそんな夢を?」
「いつだったかな……」とモミ子は頭をひねる。もっと幼いころ、集落が立ち寄った高い丘の上で、空を眺めていたら誰かが彼女に昔は空に光があったのだと告げた。あれは誰だったのだろう? 「うーん、あんまり思い出せない」
「そうか」老人はため息をついてから、モミ子と同じように暗い地平線に目をやった「せいぜい幸運を」
「あんたの歳だと星を見たことが?」
「もちろん」
「うらやましい。どんなふうだった? キレイだった?」
「どうだったろう……失われるまで、ありがたみを理解していなかった」
「そうか、そんなものか」モミ子は真っ暗な空を仰いだ。「馬鹿げてると思う?」
「おまえを?」
「そう」

老人は汁を飲み干し、腕を組んだ。
「いや、思わない……思わないさ」
「本当に?」
「ああ、俺の昔の恋人は——」


西暦二〇二七年

心に苦味を残した一件のあと、彼は積極的に恋人の特別を一緒に楽しむことに努めた。

いつもは物静かな恋人は、星を前にすれば驚くほど饒舌(じょうぜつ)になった。

東京の夜空は大気汚染で(よど)み、地上はビルが明るすぎて、星なんてちっとも見えないと思っていたが、恋人の指がさす方向には幾つものちいさな光が輝いていた。恋人はその星の名を、ひとつひとつ慈しむように口にした。

自分の住む街からでもこれほど星が見えることに驚かされた。

湘南の海にデートに行けば、海水浴を楽しんだあと、遊泳禁止時間となった砂浜に寝転んで夜の到来を待った。

高尾山に天体観測に行ったときは、いくらなんでも恋人の話が長く、早口すぎて苦笑してしまった。

いずれにせよ、恋に振りかけられるスパイスのなかで、星ほど甘いものはなかった。

正直に言って、暗記の苦手な彼にとって星の名前は世界史の固有名詞ばりに覚えづらかったし、十二星座で彼の誕生日を司る牡羊座は何度見てもどれだけ線で繋ごうとしても矢印くらいにしか見えなかったし、宇宙の果ての石に恋人の百分の一ほども魅力は見いだせていなかった。

けれども、星はキレイだった。

なによりも二人で夜空を見上げて語り合うなにかがあることはとても素敵だった。

だからその年の終わりに、そろそろ進路を本格的に決めなければならない年頃に、恋人が言いづらそうに口火を切ったことの内容には驚きつつも、決して止めようなどとは思わなかった。

交代で腕枕をしていていたある夜に、恋人の部屋で、端的にこう告げられた。
「僕はアメリカの大学に進学しようと思っている」

恋人は名門とされる高校に通っていて、すべての科目で彼など及びもつかないほどだったが、数学と物理学と英語は模擬試験を受ければ全国でも最上位だった。
「そうか、アメリカかぁ」と生返事をした。東京から飛行機で何時間くらいかかるのだろう? 場所によるか。そんなことを考えながら、なんとかこう続けた。「もちろん応援するよ!」

俺もアメリカに行くと言いたかったが、それを許すほどの頭脳も、資本も、勇気も持ち合わせていなかった。

自宅から通える程々の私立大学に推薦入試で入るさらに先の将来について、考えたことはなかった。
「ふられるかと思った」と恋人が言う。
「俺ら、遠隔授業世代じゃん? ビデオ通話には慣れてるよ」と余裕ぶって見せると、
「僕は時代に感謝すべきなのかもしれない」と恋人は彼を抱き寄せて笑った。
「アメリカの大学に行って、そこから目指すのは、あれなんだよな?」と、部屋に貼られたポスターを指差した。

月の上に立つ宇宙飛行士。二十世紀の人類にとって最大の達成とされるものの一つ。
「笑わない?」
「笑うやつがいたら代わりにぶん殴るよ」
「君が頼もしくなかった瞬間がないな」

彼は恋人の頭を撫でた。
「俺もなにかこう、夢を見つけたいな」
「じゃあ僕は君が夢を見つけるのを応援するよ」

ふたりは笑った。

お互いにこの先がどうなるかなんてちっとも分からないし、方向は大きく違うかもしれない。だけど未来はちょっと手を伸ばせばそこにあった。そこに宿る不安も希望も一番近くで共有し合えた。

ふたりは若く、すべてを持っていた。

恋人との別離の時期がわかってから、二人は思い残すことなく一緒に時間を過ごした。

餞別のプレゼントについて思いを馳せ始めたとき、最初に浮かんだのはペアリング。

だが次の瞬間、覚えのある後悔が心をよぎった。

今また謝ってもそんなことをと恋人は笑うだろう。けれど、まだ彼のなかには苦味が残っていた。

悩んだ末に、そのあと何度も共に訪れた中野のプラネタリウムに向かった。

初めてひとりでプログラムを鑑賞し、いつも冗談混じりのナレーションと、最後に「星にまつわる質問があったら後でなんでも聞きに来てくださいね」と主に小学生に向けて語る、ベテランの施設員を呼び止めた。

初めて話しかけた施設員は「いつもコンビで来る子たちだね」と嬉しそうに言った。

ちょっと照れてから、「その……コンビの相方が海外に行くことになったんです。大学で、星の研究とかそういうの」と言った。

施設員は目を細めた。
「あの子は昔から一人で来てくれてね、君とコンビになってから、勝手に嬉しく思っていたけど、そうか、それほどに」
「それで、あの、なにかプレゼントをしたいんですが……星が好きな人って、どんなものが嬉しいですかね? 俺、結構バイトしてるから高いものでも買えるんですが、望遠鏡とかあいつ、めちゃくちゃ凄いのもう持ってるし」
「そうだな」と施設員は腕を組んで真剣に考え始めた。
「こう、なにか、恥ずかしいですが、豪華じゃなくて、星にまつわる真心が伝わるものがいいんです」
「真心……」施設員は頷いた。「これは似た質問をされたら、小学生の子には決まってオススメするんですが、一応言ってみようかな」
「どんなのです?」
「うちの機材って完全アナログなんですよ」と施設員は言った。

言葉の意味がわからず、首をかしげる。
「手間をかければ、原理的にはあのドームにある投影機と同じようなものが作れるということです……道具も身近なものでね。小学生の自由研究みたいかもしれませんが……」


西暦二一〇三年
「宇宙に行こうとした男だった」
「宇宙?」
「宇宙も知らないのか」
「聞いたことがあるような、ないような」
「星を知っていて、どうして宇宙を知らないんだ?」

モミ子は首をかしげた。自分に言われてもわからない。
「星は体に埋め込んでいた人がいたからかな」と、元いた集落に立ち寄った旅人のことを思い出す。
「埋め込む?」
「皮膚を切って、色を塗るやつ……あれ、なんだっけ、知ってる?」
「刺青か」
「そう、そんなやつ」
「ああ、なるほど」と老人は頷き、空を指さした。「宇宙とは、空の果てだ。俺たちが住んでいるここも、地球も、星なんだ。別の星から見れば」
「想像できない。その人はそこに行けたの?」

モミ子の問いに老人は答えず、頭を抱えてうめいた。
「思えば、そのせいで……親善大使扱いで政治家どもに……でも、あいつはお人好しだったから……」

ぶつぶつと言いながら、老人は激しく首を横に振った。
「余計なことを聞いたよ、ごめん」とモミ子は頭を下げた。
「俺が話し始めた。おまえが謝る必要はない」

しばらく沈黙が横たわった。
「これを食べ終わったら、行くよ」と先にモミ子が沈黙を破った。
「実際の星を見る前に、星の名前と場所を知っておきたくはないか?」
「星に名前? 場所?」
「少し待ってろ」と言い、老人は一度小屋に戻った。

逃げ出すかモミ子は悩んだが、留まることにした。

出て来た老人はアルミの箱と錐揉(きりも)みを手にしていた。

彼は無言でまたモミ子の向かい側に座り、錐揉みでアルミの箱に穴を開け始めた。

モミ子が不思議に思うなか、カツン、カツンという音が夜空に響く。

一時間以上も経った頃、老人は左手に松明(たいまつ)、右手に穴の開いたアルミ箱を持って小屋にまた戻った。

モミ子にはなにがなんだかさっぱりわからなかった。

だが、老人が「こっちに来い、星の見本を見せてやる」と言ったとき、どうしてか今度はそれを罠だとは思わず、小屋に入った。

小屋のなかは()えた匂いが充満し、隅の方にはなんらかの骨が散らばっていた。だが、少なくとも人骨ではない。
「これだ、これが星だ」と老人は言い、右手に持った松明の上をアルミの箱で覆った。明るかった部屋が一気に薄暗くなる。
「これが星?」とモミ子は火を見ながら首をかしげた。
「天井だ」と老人は顔を上げた。

モミ子もそれに倣うと、アルミの箱の穴を通して天井には、ぽつりぽつりと小さな粒状の光が届いていた。
「これは、星の姿と、位置を模した光だ……実際の星の幾つかは、それが夜空で光っていたならば、この通りに並んでいる」

モミ子はその光景に息を呑んだ。

天井に手を伸ばす。星のない時代に生まれた子なのに、その光景にはどこか懐かしさのようなものがあった。
「これを持ってろ」と老人がアルミの箱を掲げるので、モミ子は従った。

モミ子が両手で持つアルミの箱から老人が松明の光を通し、空いた方の手で、天井を指さす。
「あの点と、あの点を見ろ」と老人がなぞる指の軌跡をモミ子は目で追う。「あの大きめの点二つと、中くらいの点五つが繋がって、オリオン座……昔の人間は星を線で繋いで、そこに絵を見出したんだ」
「昔ってあんたらの時代?」
「俺が生まれるより遥かむかしだ」
「オリオンって?」とモミ子は首をかしげる。
「神話の人物だ」
「神話?」
「むかし話のえらい人だ……犬を見たことは?」
「ごちそうだ」
「食い気は一瞬忘れろ。あの三ツ星の左にひときわ大きな光……これを繋ぐとおおいぬ座。大きな犬の絵になる」

モミ子は老人の言う通りに光の粒を目で追い、軌跡を絵にしようとしてみたが、上手く像を結ばなかった。

老人はそんなモミ子の様子は気にせず、自分自身が天井に見入りながら「そして斜め左下、二つの星を直線に結んで、こいぬ座」と続ける。
「おおいぬとこいぬは親子なの?」

モミ子がなんとなく思い付きで訊ねると、老人は初めて笑みを見せた。
「そうだな、親子だといいな……そしてオリオン座のプロキオンという星、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のべテルギウスで作る三角形を冬の大三角形と言う……もしもおまえが北で星を見られたなら、この三つが大きく輝いているはずだ」

モミ子は老人の言葉につられるように、また天井に手を伸ばした。
「本当の星も手で掴めそうなのかな?」

老人はモミ子のその問いには答えなかった。

それから老人はモミ子がすっかり暗記できるまで、ゆっくりと時間をかけて星の名前を教えた。

星の名前を暗記できたか老人にテストしてもらい、完全に覚えた七度目で、モミ子は「そろそろ行くよ」と老人に告げた。

老人は引き止めなかった。

彼は穴の開いたアルミの箱——手製のプラネタリウムを、モミ子に差し出した。

モミ子は受け取っていいものか一瞬悩んだが、老人から「穴の開いた食器なんて手元に残してもなんの役にも立たん」と言われ、ありがたく受け取ることにした。
「ねえ、あんたの恋人は本当に空の果てに行けたの?」
「ああ、本当だ」

地平線を眺めていたモミ子は、改めて空を見上げた。
「本当の本当に?」

老人はゆっくりと頷いた。
「ああ、あいつは本当に星に誰よりも近づいたんだ……それから世界中の子どもたちに星がどんなものか語る仕事をした。俺もたまについて行って、だからさっきのは全部受け売りだ」そして老人はモミ子の両肩に手を置いて、言い聞かせるように続けた。「さっきは悪かった。おまえは必ず星を見つけられる。星の名前を忘れそうになったら、その箱に光をかざして思い返すんだ。おまえは北の大地できっと大三角形を目にする。そのとき、横に誰かがいたのならば、かつて人間が夜空にどんな絵を描いていたか、おまえが語って聞かせてやるんだ」

モミ子はゆっくり頷いた。これまでの短い人生で彼女の夢を否定しなかったのは、この不気味な枯れ木のような老人が初めてだった。

最後に老人は少年のような声色で——「おまえなら絶対にできるよ。おまえほど星について話すとき、目が輝いてるやつはいないから」

老人の言葉に今度は力強く頷いてから、モミ子は彼の肩を叩いた。彼女の生きた時代では言葉はどんどんと希薄になって、自分の感情をどう表現していいのかわからない。けれどもその一発は世界が暗黒を迎えてからのどんなものより価値があった。

そして、振り返ることなく、モミ子は、地平線の向こうへと夢の空を臨むための歩みを続けた。

旧時代の星の絵図を、確かにその手に握りしめながら。







先行公開日:2024年10月19日 一般公開日:2025年1月18日

カバーデザイン:VGプラスデザイン部
 
「プラネタリウム」特集 掲載作品

南木義隆

南木義隆

    小説家。1991年大阪府出身。『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』(早川書房)に収録の短編「月と怪物」でデビュー。単著に『蝶と帝国』(河出書房新社)があり、同作は漫画家の箕田海道によってコミカライズ(KADOKAWA刊)されている。また、『百合小説コレクションwiz』(河出書房新社)に「魔術師の恋その他の物語」で参加。文芸誌などへのエッセイ寄稿も多数ある。