マヤ/28歳/狼女
11,700文字
(※作中に性的な話題が出てきます。また、登場人物が差別を受ける描写があります。)
「それで、いったい何を見せたいっていうの?」ニッキが言った。
マヤは、恋人の声のトーンにかすかないらだちを感じ取っていた。よくないサインだ。
ふたりは地下鉄で郊外まで来て、それからひと気のない工業地帯をふらついている。
日が暮れてきた。ふたりが来た方向は都市の排ガスに煙り、サイレンが不吉な知らせのように鳴り響いていた。マヤと繋いでいた手を離したニッキはそのまま腕組みをし、マヤは少しだけ傷ついた。
「それで?」
マヤは唾を飲み込み、落ちていた空き缶を足で道の端に押しやった。「ええと、うん、私ね……。あの、私……。ニッキ、あなたに隠していることがあるんだ」
「なんなの? まだ秘密があるっていうの? 家でも話せるようなことのために、わざわざこんな世界の果てみたいなところまで来ないといけなかったの?」ニッキは半分おどけてマヤを責めた。
「違うの、別の話なんだよ……」マヤはまた唾を飲んだ。ああもう、どうしてこんなにややこしいんだろう。「私が問題を抱えていても、一緒にいてくれる? 私が……違う存在でも?」
「それって?」ニッキはため息をついた。「マヤ、私はあなたが無職なことも、80年代の音楽ばかり聞いてることも知ってる。それでも愛してるんだよ。そんなことを伝えるために、こんなひどいところまできたの?」
「私、狼女なんだ!」マヤは叫んだ。
唖然とした顔でマヤをみつめたのち、ニッキは笑い出した。「はぁ? ぜんぜんそんなふうには見えないよ!」
「どういう意味?」
「いや、ええと……狼人間って……あなたみたいな感じじゃないんじゃないかな」
「私みたいじゃなくて、映画の『満月の下で』みたいに、いかにも血に飢えた怪物然としてるはずだって?」
「そうじゃなくて、ええと……わからない。本当に狼女なの?」
「もちろん本当に狼女だよ!」
「オーケー……いいね。じゃあ、いこうか?」
「いや、狼女がどういうものか見せたいんだ」マヤは息を吸った。「つまり、満月の日から3日間、私は狼になる。月が見えない窓のない部屋にいたら大丈夫かもと思って試したけど、無駄だった。日中は人の姿に戻るんだけど、最悪の二日酔いみたいに具合が悪くなる」
「わかるよ」ニッキはためらいながら言った。でも本当にわかっているんだろうか? いくら、多くの人たちが狼人間やほかのあやかしたちの存在を「許容」しているからといって、デートの相手に選びたいかどうかはまったく別の問題だ。
「見せたいんだよ。そしたら、あなたが何者と付き合っているのか、あなたが本当に狼女と付き合いたいのか、わかるから」
「そんなことしなくても、信じるよ! ねえ、行こうよ」
ニッキがマヤの腕を引っ張る。マヤは振り払う。そしてあたりを忙せわしなく見回す。誰もいない。工場の廃墟の鉄材が、立てられた中指みたいにふてぶてしく、暮れてゆく空の中に浮かびあがっているだけ。
「なんだっていうの?」ニッキの声にいらだちが滲み、マヤのいらだちも増幅した。
ためらわずに上着を脱ぎ捨て、トップスと靴とズボンを脱ぎ捨てた。
「どうしちゃったの? 気でも狂ったの?」
下着まで脱ぎ捨てたマヤはそのままそこに立っていた。寒くて鳥肌がたった。奇異に見えるのはわかっているけれど、変身のたびに衣服を破り、また買い直すほどの経済的余裕はマヤにはなかった。身体中を震えが走り、筋肉に力が入った。最初の兆候だ。
「私のこと襲ったりしないよね?」ニッキが不安げにほほえみながら聞いてくる。
廃墟の後ろからしかめ面のようなクレーターを陰気に黄色く光らせた満月が昇ってきた。身震いが起きる。
それから痛みがやってくる。引き裂かれる痛み。変身だ。体を破壊するような、毎回変わることなく唐突で暴力的で容赦のない動き。今後の人生すべてが崩壊してしまうような痛み。誰かが叫んでいる、と思ったら、自分の──そしてニッキの声だった。それからやっと痛みがおさまる。4本の足で立つ。厚い毛皮のおかげでもう寒くなかった。とがった耳に、廃墟でネズミが走り回る音と、ニッキの心音が聞こえてくる。彼女から恐怖が香った。マヤの本能は今のところ押さえつけられ、理性が勝っている。理性が残っていることをニッキが知らないのなら、マヤはカミングアウトすべきではなかった。残念ながらいまのマヤは発話ができず、喉から出てくるのはくんくんという鳴き声だけだった。だから、攻撃する気がないことを示そうと、犬のように尻尾を振って、笑っているように唇をつりあげてみた。それでもニッキは驚愕に目を見開いてマヤを見つめていた。マヤは前脚を彼女の方に差し伸べた。
ニッキはひっと息をのむと、くるりとふりかえって逃げ去った。
「最悪!」マヤはスマホのメッセージアプリを開き、ニッキのアイコンのプロフィール写真があったはずのところを凝視していた。アイコンだけではない。メッセージの履歴も音声チャット履歴もなぜか消え去っていた。まるでニッキがマヤと付き合っていた思い出をすべて抹消しようとしたかのようだった。そんなことができるなんて、ぜんぜん知らなかった。
「ブロックされたんじゃないの?」共有リビングの反対側の隅で、暖房費節約のための電気毛布に埋もれて大きなクッションにだらしなく座っているヴァンパイアのヤッシャが、あたかも同情しているかのような視線を投げかけた。実はヴァンパイアは爬虫類のような変温動物で、自分で体温を保つことができないため、活動するためには常に熱源を必要としている。
「ブロックされた」
「そう──この餌場はもう丸裸だよ。次、行こう」ヤッシャは笑って、2センチメートルの長さの、虫歯のできた犬歯を丸出しにした。何人かの歯科医に治療を拒否され、治療してくれそうな歯医者にも、ヴァンパイアのための特別治療は保険適用外と言われたそうだ。
マヤは怒りとともに彼を睨みつけたが、ヴァンパイアの姿は涙でぼやけ、滲んでいくばかりだった。
「そんなに早く忘れられると思う? 愛してくれてると思ってたのに」
「愛? そりゃいいや、あはは」
「次もこうなるに決まっている。どうしたらいいの? 正体を隠し続けるわけにも、満月のたびに会えない言い訳を探しつづけるわけにもいかないよ。かといって打ち明けたらどうなる? おしまいだよ。どっちにしろどうにもならないの!」
「ちょっと見せて」とつぜんクッションが空になったかと思うとヤッシャはマヤの背後に立っており、何を企んでいるのか気づく前にマヤのスマホはすでに彼の手の中にあった。ヴァンパイアがこんなに素早く動けるなんて。「ちょっと、何してんの?」
ヤッシャはニヤニヤしながら何か打ち込んでいる。心の中で再びヴァンパイアを呪ったが、他にルームメイトを見つけることもできない。いい感じのルームメイトがいないとシェアハウスを見つけるのは至難の業。社会的立場が弱ければ、なおさら。最初に住んだのはヴィーガンシェアハウスで、冷蔵庫に生肉を入れることは許されなかった。別のシェアハウスでは、変身したマヤのにおいや声に耐えられなくなったルームメイトが次々と退去し、そのたびに大家がマヤの確認も取らずに次の入居者を連れてきた。最後に来たルームメイトは薄気味悪い男だったが、マヤに迫ろうとして病院送りになり、当のマヤは家からつまみ出された。できれば一軒家に住みたかったけれど、産業の崩壊した都市において家賃は南極の水位の如く上昇していた。それに、定職がないのにどうやって家賃を払うのだろう?
どんな会社も遅かれ早かれ、マヤが何か普通ではないこと、月に数日欠勤すること、振る舞いが「社風に合わない」ことに気づくのだ。多様性を掲げているスタートアップ企業がいくつかあったのでそのうちの一つに応募してみたが、落とされた。理由としては、「弊社にはすでに人魚がおり、これ以上“あやかし”のポストはありません」とのこと。完璧に働けない人物の居場所は、この社会にはないのだ。マッチングアプリの世界でもそうだ。
「アプリのプロフィール変えといたから」
「え?」
ヤッシャは相変わらずにやにやしながらマヤにスマホを投げ返した。むっつりしたまま見てみると、プロフィール欄はこう変えられていた。“狼女のマヤです。満月の日には狼になります。でも人なつっこいし、しっかり者だし、毛皮があるときもないときもユーモアがあってキュートです。私に怯えずに、一緒に森の中を走り回ってくれるひとを探しています”
「バカじゃないの?」
「手札をぜんぶ明かすんだよ。まあ、たしかにナシだなって思ったりドン引きしたりするひともいるだろうけど。でも、これだけあけすけに書いたら……なんというか、相手に毛皮があるかどうかはあまり気にしない不思議なトロールとかが連絡をくれるんじゃないかな。それか、きみを救済したい救世主気取りの女性とか。そう、愛の力でさ。あはは! でも、少なくともその子が諦めるまでは、きみも何かを得られるんじゃない? あとは、闇堕ち趣味のゴスっ子。きみの“闇”がちょっとばかし毛まみれで血まみれなことに気づかれるまではさ……」そう言ってウインクをする。
「ヤッシャはそうしてるってこと?」
「少なくとも、最初は少しずつ段階を踏んでいくよ」
「相手は咬ませてくれるの?」
「人によってはね。もちろん、深刻なダメージは与えないよ、警察に捕まっちゃうから。でも、ほんの少しの流血なら、そういうのが好きな人もいるんだよ。あ、狼フェチの人とか見つかるかもよ、ケモノ好きとか」
「結構でございます」マヤは想像して身震いした。「妄想劇場をありがとう、変態さん」
「どういたしまして」
呆れて首を振りながら、マヤはスマホに視線を戻した。安物のカメラで撮ったせいで歪んでしまった残念な横顔がプロフィール写真だ。ヤッシャのアドバイスに従ってみるか、文言を削除するか考えている間に、マッチングがひとつ成立した。たぶん、さっき何気なく「イイネ」の方向にスワイプした、女性、レズビアン、ノンバイナリー、トランス、アジェンダー(つまり、このアプリにいるすべてのひとびと、ということだけど)のなかのひとりだろう。誘いを断ることなんてできなかった。恋愛市場でのマヤの価値はあまりに低かった。
それから、メッセージが来た。“ハーイ。あなた狼女なの? 私はグール。お話できないかな。愛を込めて、ノウル”。
彼女は何を言っているんだろう? グールについては知っていた。タブロイド紙の記事やホラー映画で「人喰い」として表現されている。でも、そういった表現の信憑性が、世にある狼人間の表象と同程度だとしたら、マヤはグールという存在についてまったく知らないことになる。Wikipediaを開きながら、ノウルのプロフィール写真をクリックする。IDはDarkNour89。暗くミステリアスな響きに惹かれてIDをDarkNourにしようとしたけれど、同じアイディアを思いついたひとが先にいたから生まれ年を追加したのだろう。少なくとも、写真の子は可愛い。失うものが何もないので、マヤは返事を書いた。
待ち合わせ時間より5分遅れで、DarkNour89が提案したカフェに着いた。前の彼女には、必死に頑張った結果ガムの包み紙のようにあっけなく捨てられてしまったので、マヤは完全にやる気をなくしていた。どちらにせよ見てくれなんて役に立たなかったんだから。やる気のなさに相応の、よれよれのTシャツにチェックシャツをはおり、ダボダボのジーンズ、すりきれたスニーカーに適当なポニーテールに結った茶色の髪、といういでたちだった。
少なくとも、このカフェにはふさわしい服装に見えた。ボードゲームとヴィーガンチャイラテ、一見蚤の市で買い集めたように見えるけれど実際には北欧の女性デザイナーが設計したのであろう家具、気取った店だ。コーヒーをすすっている客たちもデザイナーが配置したのかもしれない。吐き気がするほどイチャイチャしてるカップルもいるし。ちょっと待ってあんたたちぜんぜんお似合いじゃない、たぶんあんたたちもすぐ気づくよ! そんなことを考えながらマヤはカップルの横を通り過ぎた。
店の奥側の角に置かれた豪華なフリンジつきソファにDarkNour89はいた。爪を黒く塗った華奢な両手で湯気を立てるマグを持ち、店の雰囲気に完璧に溶け込んでいた。頭のてっぺんでお団子に結った黒髪が、彼女が動くたびに巨大なキノコのように揺れていた。眼鏡の奥の眼はクレオパトラのようにふちどられている。もちろん、たくさんのタトゥーとピアス。黒いオーバーサイズのシャツに、黒のダメージジーンズを穿いている。大見出しで「私は変わり者で反抗的です」と書いてあるも同然の佇まいに、マヤは思わず笑いそうになった。最終的には迎合することになる、そうしないと生き残れないこの世界で、どうしてあんなにあからさまな反抗の表明をするのだろう。これまでに起こったそういう抵抗は、抗っていたまさにその相手である社会構造に吸収され、利用されてしまったではないか。ファッションも、音楽も、生活用品も、他の産業もそうだ。消費的な生活スタイルに奉仕するだけのものに成り果てたではないか。
狼女マヤにはそういった偽の反抗的スタイルがお似合いではないかと思う向きもあるかもしれない。でも、彼女が心の底で思っていることはただひとつ、「普通になりたい」ということなのだ。結婚や、安定や、家や子どもや車やマヨルカ島での休暇やゴールデンレトリバーが欲しい。手に入れることはないだろうとわかっていても、希望にしがみついてしまうのだ。200年も社会の周縁でこそこそ生きている、負け犬ヤッシャのようにはなりたくない。
もしもマヤが充分に努力して、充分に適応したら、望むものは手に入るのだろうか。
DarkNour89は別の方法で適応したようだ(あるいは、少なくとも適応したと思い込んでいるようだ)。
「ハーイ」
「ハーイ」マヤはノウルの向かいの古い籐椅子に座った。思っていたよりずっと座り心地がよい。すでにテーブルに来ていた店員が注文を取る。最近まで働いていた大手チェーンのカフェのことを思い出さずにはいられなかった。シフトがAI管理されていたそのカフェでは、従業員はプライベートの状況にかかわらず、勤務の直前に知らされるシフトに従わなければならなかった。あるとき、シフトと満月がかぶったので、マヤはシフトの変更を頼んだ。上司の答えを今でも覚えている。「シフトに従えないなら、コーヒービーンズ・カフェにふさわしくない」
マヤは恥を忍んで上司に問題点を説明しようとした。上司の回答はこうだ。「そういう問題があったとしても、特別扱いはできません」。
マヤはいまだに怒り狂っている。あの女はマヤに対して権力を行使し、上位に立とうとした。でもそれに何の意味があるっていうわけ? あの女が群れにどんな貢献をしたっていうの? 年下のくせに! マヤは思わず歯をむいて唸り声をあげたが、すぐに何をしでかしたか気づいた。急いで歯を笑顔で隠し、満月の日に病気休暇をとった。それから間もなくして、カフェをクビになった。
嫌なことを思い出したせいで握りしめてしまった拳をやっとのことで開き、何も考えずにここ1年のあいだ飲み慣れているものを注文した。メニューの中でいちばん安い、Sサイズのミネラルウォーターだ。明らかに特定のシグナルをノウルに送ってしまっただろう。だが、マヤにそんな配慮をしている余裕はなかった。なんと思われたって、どうでもいい。どうせうまくいかない。
このあとデートがどのように進むか、マヤは正確に知っていた。仕事について(ここですでにマヤは失点するのだけれど)、趣味や好きな音楽、好きな本、好きな映画について話すのだ。その結果、ふたりはお互いのことを知っているような気になる。最悪なのは、その後でふたりがお互いのことを何も知らないと気づいてしまったときだ。ノウルは、マヤがやっぱり自分にふさわしい相手ではないことに気づき、別れを切り出して、マヤをどん底に突き落とすだろう。いやだ。またそんな思いをしたくなかった。またそんなふうに傷つきたくなかった。ノウルへの気持ちを大きくしたくなかった。
そう考えるのと同時に、誰かへの気持ちが自分の思い通りになるわけではないことに気づいた。素敵な女の子に対して抱くかもしれない気持ちが、厚いガラスの壁の後ろに押し込められているような気がした。
カップを口に運ぶ血管が浮いた腕の、ほくろがいくつか散った肌を見ていると、その腕に触れたくなった。でもその欲望は、マヤ本人からは切り離されているような感じがした。だけど、マヤが狼女であることをノウルが知っているという点で、(そのことを彼女が信じている場合に限り)今回は状況が違うはずだ。というわけで、マヤはソイマキアートについての無駄なおしゃべりをしないことにした。「あなた、グールなの?
ノウルは微笑んで肯定した。「そう。家系的にね。これはあなたを驚かせるためにいうんだけど、人を食べるよ」
マヤはノウルが「帽子を編むのが好き」といったみたいに頷いた。
「だけど心配しないで。私たちはもう長いこと人を殺していないから。ほとんど普通の人と同じ。ときどき死体を食べるけど、殺して食べるんじゃなくて、例えば交通事故で亡くなった人とか、埋葬された死体とか……ごめんね、食欲なくなるよね」
「大丈夫、もう食べてきたから」ノウルの話を別にしてもそもそも食べ物を頼む気はなかったけれど。胃がぞわぞわするような感覚を抱いても、ノウルを信じていいのかマヤには確信が持てなかった。
「ええと、書いたとおり私は狼女。満月のときは狼になる。でもちゃんと自分でコントロールしてるよ、大体はね。夜に公園を走りまわったり、ウサギちゃんを八つ裂きにしたりとかもするけど、そんなに大したことじゃないよね」
話しながら、好印象を与えるために自分が無害であることを強調する、いつものクセに気がついた。この女の子にかぎっては戦略を間違えたかもしれないけれど。でも、どうしてノウルに気に入られようとしているんだろう?
「なんとかうまくやってるんだね。で、あなたはその性質をどう思ってる?」その質問とノウルの目に浮かんだ共感に、マヤは固まった。元カノたちは誰も興味を示さなかったのに。彼女は、正直になろうと決意を固めた。「あー、ええと、最悪だと思ってる。どこにも居場所がないし、満月のたびに休むから仕事はクビになるし……」
それから、話すつもりはなかったのに、コーヒービーン・カフェでの出来事までしゃべっていた。
「かわいそうに」
このひとは本当にマヤに同情しているんだろうか? 突然、マヤはノウルを試したくなった。「いちばん恥ずかしい失敗のこと、ききたい?」
「話したいなら、もちろん」
マヤは唇を湿らせた。心臓の鼓動が緊張を伝えていた。でも、これ以上時間を無駄にするよりも、白状した後にノウルが自分と関わりたくないと思うかどうかをいま試した方がマシだった。
「一度ね、満月の日に森の中へ行ってみたの。本当の森を狼が走ったら何が起こるのか、みてみたくなって。ほんとにバカなんだけど、狼の自分が発情期だったことに気づいていなかったんだよね。それで、同じように発情期の狼男とばったり会った。もう、なんて言ったらいいんだろう? ホルモンがすごく強くなるんだよね」
ノウルはほほえんだ。「知らない狼男とセックスしたの?」
「した。でももっと恥ずかしいんだけど、そいつのペニスがあまりに大きすぎて、抜けなくなっちゃったんだよ。30分くらいかかった」
ノウルは大笑いした。
「行きたい方向が違ってさ。抜けない間じゅうお互いに文句を言ってたの」
「そのひととその後会った?」
「ううん。すぐに走って逃げたから。恥ずかしすぎるでしょ。アフターピルを飲まなきゃいけなかったし、妊娠してたらどうしようって気が気じゃなかった。そんなことになったら、ねえ。でも幸いなるかな、何も起こらなかった」
「それはすごい体験だ。で、よかった?」
マヤは赤くなった。「狼的には、ね」
「教えてくれてありがとう。墓地エピソードを教えようか?」
非難されなかったことを嬉しく思いながら、マヤはうなずいた。やっと気が楽になってきて、ノウルの話を信じてもいいのではないかと思えてきた。
街が冬の夜に沈み、店員がテーブルにキャンドルを灯し、ノウルがココアをおかわりしてマヤが一杯の水で粘り、他の席がすべて空き、しまいには店員が「お会計はご一緒ですか? 別々ですか?」とノウルに訊きにくるまで、ふたりはおしゃべりしては笑った。
「別々で」とマヤは答え、財布から小銭となけなしの誇りをかき集めて、チップ込みで支払った。店の外でもふたりはしばらく、白い息を吐きながらおしゃべりしていた。
「ほかにグールを知ってる?」とマヤが尋ねた。
「両親ときょうだいと、親戚何人か以外は、知らない。誰か他の狼人間を知ってる? ……森でのワンナイトを除いて」
マヤは首を横に振った。もちろん、他にもうひとり狼男を知っている。マヤを咬んで狼人間にした男だ。でも、そいつのことは考えたくなかった。
「知らない。他に知っているあやかしはヴァンパイアがひとりだけ。ときどき、どうしようもなく寂しくなる」
ほんの10年くらい前に、何名かの勇気あるひとびとがオンライン上でカミングアウトしたことで、あやかしたちの存在ははじめて公に知られることとなった。でもそこからコミュニティは生まれなかった。魔女はヴァンパイアを信用せず、妖精たちは自分たちだけでどうにかしようとし、鬼火やセイレーン、株式投資で稼ぐ千里眼たちはカミングアウトに反対だった。
そして全員が、無関心、あるいは敵対的な社会に直面した。それからそれぞれの個人が、ケーキからこぼれ落ちるほんの少しのかけらを奪い合うような争いに身を投じた。
マヤは、帰属したかった。以前見たドキュメンタリーのことを思い出していた。獲物をみなで分け合い、誰も他者を犠牲にして利益を得たりしない、狼の群れ。本当のところ野生の狼たちは、飼育下の狼ほどには頻繁に衝突したりしないし、階層がそこまで厳格なわけでもない。そうではなくて、群れは両親と子どもたちから構成される家族なのだ。しかし、マヤには狼の家族がいなかった。理解の及ばない、人間の奇妙な社会階層に従わなければならなかった。群れもなければ群れを形成するチャンスもない、一匹狼。マヤの両親は、マヤに何が起きたのか知らない。両親はきっと(お金があまりないにせよ)マヤのことを助けてくれようとするだろうけど、打ち明けたときの反応が怖くて、たまに会ったときには万事順調なふりをしてしまうのだ。
「でも外の世界にはもっといると思うんだよね」ノウルがいう。「ときどき思うの、ほかにもいるんじゃないかって。バラバラじゃこれ以上どうにもならないってわかっているあやかしが」
「それで?」
「それで、一緒に何かできると思うんだ。お互いに助け合ったり、よりよい社会のために闘ったり」
マヤは笑った。「たとえば、狼人間の満月休暇のために!」
「たとえばね。あとは、住む場所や仕事を探すときに差別されないこと」
マヤは笑うのをやめた。「本気で言ってる?」
ノウルはまばたきして答えた。「もちろん、当たり前だよ。つまりね、もちろんすごくたいへんなことだし、時間もかかるだろうけど、いつか……女性やクィアのための運動はそうやって成功を重ねてきたじゃない。私たちも、それぞれ違っていたって一緒に運動を起こせるはず。まずは、他のメンバーを見つけること。コミュニティを作ることだよ」
コミュニティ。ある種の群れ。クィアであることをカミングアウトしたとき、マヤは若いクィアたちのコミュニティに居場所を見つけていた。でも狼人間に咬まれたあと、その場所にすら本当には歓迎されていないように感じたのだ。それとも、不安が先回りしてしまって足を踏み入れられなくなったのだろうか。自分が変わってしまったから? 他の人と何かをするためには、他の人のまえで、あるいは自分自身に向かって、自分が狼女であることを認めなくてはならなかっただろう。それは、後戻りができないということ、決して「普通」にはなれないことを、認めることだ。
マヤは突然、もう何年も前の高校の卒業パーティのことを思い出した。当時はみんな、約束された明るい未来への希望でいっぱいで、豪華なレンタルドレスを着たマヤは、他の卒業生たちと一緒にカメラのフラッシュを浴びて笑っていた。まだ未来を楽しみにしていた。教えられてきた絵空事に期待していた。きみも何者かになれるよ! 充分に努力すれば、すべてのドアは開く! 幸運はすでにきみの前にあって、あとはつかみとるだけだ!
咬まれたときに、マヤの夢は潰えた。何度も仕事をクビになったときに潰えた。ノウルと一緒に灯りの消えたカフェの前に突っ立っているときに潰えた。マヤは決して普通になれないし、この世界に適合することもできないし、両親についている嘘のような輝かしいキャリアを築くこともできない。
でも、マヤがその夢に別れを告げたとき、その夢が去った空き地は他の夢がやってくるのかもしれない。マヤが狼女として、ヤッシャがヴァンパイアとして受け入れられる未来、という夢だ。「普通」ではないひと同士がお互いに助け合い、力を合わせる未来。その未来では、「普通」という表現は次第に消えていくのだろう。
「そうだね。誰か他のひとをさがしてみよう」マヤは夜に向かって言った。すると、いくつものアイディアが、外に出る機会をうかがっていたかのように浮かんできた。
「DiscordかTelegramか何かでグループをつくろうよ」
「ナイスアイディア! チラシもあちこちで配ろう!」
夜の道を歩きながらアイディアを出し合ううち、なじみのない気持ちがマヤの中に広がっていった。冬の夜の寒さを忘れてしまうくらい、体の底から温まるような気持ちだ。隣に面白い女の子がいて、その女の子が優しい眼でこちらを見ているのを感じているからというだけではない。自分の中から生まれる温かさだ。はじめて、絶望を感じるのではなく、何かできるはずだという気持ちになっていた。そして、ノウルとの関係が恋愛にならず、「ただの」友情になったとしても、それでも大丈夫なのかもしれない。そもそもどうしていつも、まるで友情が恋愛に劣るみたいに「ただの」と考えてしまうんだろう! 自分の価値を証明して気持ちを落ち着かせるためのパートナーなんて、もういらないのかもしれない。
ふたりはひたすら歩きながら、計画を立てた。ひと気のない商店街まで来ると、カラフルにデコレーションされ、あふれんばかりの光で四角く区切られたショーウィンドウが、架空の完璧な世界を描きだしていた。マヤの目は、建物の入り口でうずくまっている人影を見つけた。この人は狼人間でもほかのあやかしでもないだろうけど、それでも家がないんだ。ノウルは仕事や住居を見つけるときの差別と闘いたいといっていた。でもおそらく、差別だけが問題ではないだろう。そう考えずにはいられなかった。
マヤはいう。「本当は、住まいや仕事を探すときに多くのチャンスがほしいってだけじゃないんだよね。私は……」少し考える。「競争自体がもうなくなればいいのにと思ってる」
マヤの言葉が形になったかのように、息が白い雲になった。
ノウルが微笑む。「それは大きな目標だね」
マヤは頬を赤らめた。くだらないことを言ってしまっただろうか?
しかし、ノウルはある店舗を指差した。「あなたが働いてたコーヒービーン・カフェじゃない?」
「そうだよ」全店いっしょのロゴを見て、怒りが湧いてきた。でも、もう絶望的な怒りではない。ポケットを探り、鍵束を引っ張り出す。「実はまだカギを返していないんだよね。AIが見落としてるんだと思う」
ノウルの顔にまったく「人間的」ではない、でもつられて笑いたくなるような笑みが浮かび、鋭い歯が見えた。「私、監視カメラに映らないんだよね。売れ残ってるものがきっとちょっぴりあるよね?」
「あるよ。AIがすべてを予測できるわけじゃない。在庫もあるし」
「食べるものが必要なひともいるかもしれないよ」
マヤはうなずき、にやりと笑った。「じゃあ私が見張りをするよ。誰かが来たら遠くからでも匂いでわかるし」マヤがノウルにカギを渡すとき、ふたりの手が触れて、冬の夜の寒さを打ち破って暖かな衝撃が伝わってきた。
告知
「ホープパンク」特集 掲載作品
作品をより楽しみたい方は、小説に加えて、ヴィランにまつわるコラムやブックレビューを収録した『Kaguya Planet No.7 ホープパンク』をお読みください。
先行公開日:2025年7月26日
カバーデザイン:VGプラスデザイン部
"Maja, 28, w, Werwölfin" by Carolin Lüders
First published in Queer*Welten, 2024 ©Carolin Lüders
Translated with the permission of the author.
1993年生まれ、ドイツ・ドルトムント在住の作家・物理学者。Alien EroticonやAlien ContagiumといったドイツのSFアンソロジーや、ドイツ語圏で発行されているクィアSFの雑誌Queer*Weltenにファンタジー小説を寄稿している。またイラストも得意で、自分の作品のワンシーンを描いた作品の数々をInstagramなどで発表している。

