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動き回り叫ぶ三人のヌード像

動き回り叫ぶ三人のヌード像

12169字


※作中に性的な話題が出てきます。


どうして裸足だったのか。きっと覚えていない。あなたは教室で画鋲を踏んづけた。足の裏に刺さり、ぐさっと勢いよくいったから、画鋲の針はぜんぶめりこんだ。あなたは痛みに驚き、叫んだ。周りのみんなも驚いてがたがたっと立ち上がった。

あなたはクラスで一番太った子どもだった。好きなものは袋文字と迷路で、ノートの余白にぐりぐり書いた。人に見られるのがとても嫌だったから、誰かに声をかけられると慌てて机に突っ伏した。

先生が駆け寄ってきて、あなたはずっとわあわあ泣き叫んでいた。学校で泣いたのも大きな声を出したのも初めてだった。体に穴があいたからおれは死ぬのだと思った。大丈夫だから早く抜きなさいと言われても怖くて、あなたはひたすらじたばたしていたが、先生は動物を捕まえるみたいな手さばきであなたを取り押さえ、サッと引っこ抜いてくれて終わった。あまり血も出ていなくて、あっけなさにちょっと気まずくなったほどだ。

いや、泣いている途中からだんだんわかってはいた。画鋲は根元まで刺さっていたが刺さった瞬間に感じたほど痛くはなかった。刺さった光景を目で見たときの衝撃が痛みを作った。知覚に相応しいように、つじつまあわせをするように、涙や声が出たのだ。

熱い鍋にぶつかり手を引っ込めた。たんすの角に小指をぶつけた。手足に生じた痛みを認識しているのは脳で、手や足だけで痛いのではない。神経の先端が刺激を受け取り、電気信号に変え、脳へと届く。「痛い」と認識する。

あなたはコップに湯を注ぎ、コップの外側から熱を感じる。手を離す。コップをなでる。指先がコップの表面に接触した瞬間、もう「熱い」がわかる。伝達はなんて速いのだろう。遅れてやってきたりどこかへ逃げてしまったりすることはなく、痛みの情報はちゃんと届いた。あなたの丸い手、膨れた体に、猛スピードで電気が走った。
 
「そうです、痛みは脳で作られますから気持ちが深く関わります」

痛みというのは個人的な感覚で、その人の心の体験といえますねとドクターは言った。

あなたはうなずいた。

ケルベロスにあたり、もう何度目かのレクチャーだった。体の取り扱い、とくに痛みのメカニズムについて詳しく説明されている。自分が何を痛いと思うか、それをパートナーに伝えることができるか、パートナーの痛みを察することができるか……。これをちゃんと受講しなければケルベロスはできないことになっていた。
「つまり感覚と情動の体験です」

ドクターはタブレットをぺたぺた撫でた。クリニックは明るく、オルゴールのBGMが流れていた。子どものころまんまるに膨れていた体は、いまもわりとそうではあったが、固太りというのか、全体的に四角っぽくなっていた。浅黒く灼けた肌は硬い。あごをこすった。今日はひげを剃ってきているけど自然と手がそこにいく。
「ご自身は痛みに強い方だと思いますか。血を見るのが怖いとかはありますか」

ドクターは言った。あなたは首を振った。
「血は別に平気です。でもそれなりに痛がりというか、臆病な方だと思います」

それってケルベロスには向いてないでしょうか。あなたは言った。ドクターは「そんなことないですよ」と微笑んだ。
「むしろ、ある種の臆病さがあるほうが、パートナーたちとうまくやれると思います。怖かったり臆病だったりというのは慎重ということですからね」

その都度立ち止まってパートナーたちと会話することが大切です。ドクターは言い、あなたはうなずいた。それならよかったです。そして安堵したような顔も作った。つまりあなたはわかっていて聞いたのだ。不安っぽい言葉を口にして、そんなことないですよと否定してくれるのを期待した。こういうわざとをいつもやっている。
「痛みを他人と共有するのは困難です」

何を痛いと思うかが人によってちがいますし、その表出の仕方も異なります。熱いものに触ってもぜんぜん平気な人、転んでも泣かない人……。ドクターは言った。その通りだとあなたは思った。痛みというのは自分一人のものだ。人と分かち合うなんてそうそう無理だ。同じ場所で転んで同じような擦り傷を作っても、同じ棒で一斉に殴られても、あなたとわたしは異なる痛みだ。

自分のケルベロスの相手は誰になるのだろう。年齢や体格が近い方が違和感が少ないというが、うまくマッチングできるだろうか。あなたはどきどきしていた。

ドクターが言った。
「出産のときはどうでしたか」

あなたはちょっと面食らった。いまその話をするとは思わなかった。いやドクターはもちろんあらかじめ把握している。初めのアンケートに書いたし、個人ナンバーの記録にもあるだろう。そのほかの通院や服薬や手術の経験についてもすべて並んでいて(きっと離婚歴もだ)、じゃあ、ドクターはこちらがどう返答するかを見たくてあえてたずねたのか。

帝王切開だったので術後はけっこう痛かったかもしれませんとあなたは言った。
「でももう二十年以上前ですし、痛み自体はあまり覚えていません」

あなたは言い、ドクターはうなずいた。自分のさっきやったわざとと同じかもしれない。
「お子さんはおいくつですか」
「二十三です」

そこに書いてあるんだからわかるでしょうとあなたは言いたくなった。そして、子を持ったことに後悔はないですよとも。

どうしてなのか説明を求められている気がする。うまく説明できないと失望されそうな気がするし、何につけ説明が必要な自分も、ぜんぶが恥ずかしい。

いや後悔だなんて今さら言うのは変だ。時間が経ちすぎているし、自分がどうあれ子には子の時間の蓄積があり、別個の体、別個の人生だ。子どもには関係ないじゃないか。
「お子さんとケルベロスのことは話されてますか」

逆にいえば、子がいくつになろうと自分の戸惑いは続くということでもあった。まったく、いい歳をして……。あなたはちょっと情けなくなるが、でもいまだにこういう逡巡があることに安堵するような気持ちもあった。

何歳になってもこれ(、、)にしっくりいかない。これ(、、)に困っている。それなら自分はうそつきじゃないし、思い込みじゃないし、本当にそう(、、)だといえる。

自分を取り囲む目。教室のみんなの目。おまえは本当に画鋲を刺したのか? それは本当に痛いのか? どうやったら痛みを説明できるだろう。みんなの中には自分も含まれていて、自分が一番自分を疑っている。

むくんだ指の背に毛が散らばっている。皮膚を突きやぶって生まれてくる指毛。あなたは膝に置いた手に目を落とし、つまりドクターから目を逸らしている。あなたは自覚し、顔を上げた。

子どもとは一緒に住んでないのでとあなたは言った。
「娘は大学進学のときに月移住をしています。奨学金と支援プログラムを使ってそうしました」

だから自分のケルベロスには関係ない。とまで言いたいわけではなかったが、別世帯、別家計であることは強調したかった。星間移動はお金がかかるのでそうそう会えませんとあなたは言った。


裸の男が立っていた。何も身につけていなかったし何も持っていなかった。ほどよく力の抜けた両腕が垂れていて、膝が少し曲がり、踵が浮き、ゆっくり歩き出しそうに見えた。

公園のブロンズ像で《浜辺の友》と題がついていた。丘を這うようなニュータウンの中腹、窪地の林に囲まれた沼を整備した公園で、ヘラブナ釣りのおじいさんたちがいつも糸を垂らしていた。像の後ろ、歩道を外れて崖を登っていくと高速道路の緩衝緑地で、そのまま分け入って山を下り、フェンスを乗り越えれば、サービスエリアの駐車場に入り込めた。もっと緑を進んでいくと変電所で本当の行き止まり。だからぜんぜん浜辺ではなかった。

短い髪の太ってはいない男。痩せすぎでもない男で、ちょうどよく筋肉がつき、はちきれそうというほどではないけどぱつんと胸が張っていた。たっぷり泳いで浜辺に上がってきた姿だ。腿も肩もそうだった。均整のとれた若くて健康的な体。それは男の体というものの概念で、余計なものをはしょった、マネキンみたいな。

いや彼にはペニスがあったからマネキンではなかった。《友》を見たときまず目がいくのはそこで、像の全体が、彼を構成するすべてが、裏切りも仕掛けもなく男だった。そしてこういう像はあまりじっと見るものではなかった。誰かに言われたわけではないがそういうもので、あなたは膝を抱え、寝たふりをし、腕と前髪の隙間から男を見た。目だけで見上げていたから目玉の奥がチリチリ痛んだ。

このときあなたは高校生だ。真新しい制服のスラックスがちくちくして、座ると腿のところがぱつんと張った。試着したときはそうでもなかったのに窮屈だ。

あたりは濃い土のにおいだった。ベンチは黒っぽい木でいつも湿っていた。角が毛羽立ち、ぼろぼろと崩れつつあって、きっと腐りかけていた。むしって、ほじった。ほじってもほじってもベンチはなくならず、腐ったままずっとそこにあった。

ペニスは何にも隠されずに木の実みたいにぶら下がっていて、といっても、きんたまと一体化しなだらかに腿とつながったおちんちんだった。胸や腕の筋肉、あるいは顔と比べたら控えめで、描き込みが少ない。それは彫刻家のためらいだったか。性器は詳細に描くものではなく、それが美意識であり常識だったか。男性器は穏やかな、おとなしいかたちでそこにあった。

あるときこの像が盗まれた。台座の上が空っぽになっていた。

通りがかった人が気づいて通報したそうで、おそらく金属泥棒だろうとのことだった。エアコンの室外機とか銅線ケーブルとか側溝の蓋とか、何か点検や清掃のふりをして堂々と持ち去るそうだ。最近は銅像も盗まれる。

あなたは驚いた。室外機も銅像もいちいち存在を意識しない書き割りのようなもので、そこに干渉して金銭を得るなんて思いもよらない。ちょっと見方を変えればそこらじゅうが開けっぱなしの金庫や放置された財布だったというわけか。

じゃあ、男を盗んだわけではない。価値を見出されたのはあくまで銅という素材だったのだが、このときあなたはそうは思わなくて、裸の体が盗まれたというインパクトに強く打たれていた。

それはほかの人たちにとってもそうだったようで、像の消失はちょっとしたニュースになった。像だけ台座から取り外すなんていったいどうやったのか。切ったのか削ったのか、でも無理にもぎ取られたり乱暴に壊されたりしたような感じではなく、台座の上部はかなりきれいですとリポーターは言った。
「まるでひとりでに歩いていってしまったかのように、静かにいなくなっています」

でもしばらくちょっと騒がしかった。物好きな動画配信者たちがやって来て、近くのショッピングモールが空きテナントだらけなこと、外国人が多く働く自動車工場が閉鎖されたこと、高齢化の進んだニュータウンでアライグマやハクビシンが増えていること……そういうのと無理に絡め、派手なサムネイルで喧伝していた。

男の周りの木は秋になると実をつけた。赤いぼんぼりの実で、鳥もあまり食べない実だったのか、熟れた実がいつもあたりに散らばり、台座の下でつぶれていた。きっと男の肩や尻を打った実だった。

《友》がいなくなっても実は落ちた。当然、そうだった。あなたもまだそこにいた。

清潔で、ちゃんとしていて、ほどよくハンサムで、過剰に格好よかったりエロティックだったりはしない。公園の緑と調和し、強い印象は残さず、無害そうな男。あまりじっと見るものではないがそこにいてもべつに毒にはならなくて、みんなで穏当に無視していい。

土のにおいは、ほじって爪に入り込んだ木屑もそうだった。沼とその周りはすべてが生ぐさく湿っていた。経血のにおいにも似ていた。逆か。経血のにおいが土のにおいだった。くそいまいましい生理のナプキンを取り替えるとき、錆びたような、汗を煮詰めたようなにおいがして、これと同じにおいをどこかで嗅いだことがあったなと思い出し、ああそうだ、あの木屑じゃないかと気づいた。

自分は腐った木なんだろうか? じめじめした沼のほとりに固定され、《友》とされる男を——健やかな男というものを見上げている?

いや。いずれあなたはケルベロスになるよ。


あなたは一つの体に頭が三つの地獄の番犬になろうとしている。自分でマッチング相手を探してそうなる。べつべつの人間だった三人がくっついて、体を相乗りする。首から下の体を三人でシェアして暮らすようになる。

これは一人の体で三人生かそうという目論見だ。気候変動による食糧不足や資源不足への対応というのがそもそもの話で、やがてそこにインフラ整備の効率化とか尊厳のある人生とかいろんな話がくっついてきた。ともかくケルベロスになれば一人の体で三人生き延びることができるという現実があり、あなたも多くの人もそれにのったのだ。

高温化する地球では人口を支えられそうになかった。月や火星、宇宙ステーションへの移住は想定していたよりもすみやかに進んだが、富裕層や生産性(、、、)の高い若者たちはみんな出て行き、地球に残されるのは先のない者ばかり——という単純な話でもなかった。地球外への移住を一切禁止する国や政党が現れたり、星間居住ホッピングを推奨する政策で荒稼ぎする企業があったり、地球社会はある程度斃れつつ、ある程度温存する、利権や思惑が絡み合っていた。

結局ほかの何もかもと同じで、なかなか足並みが揃わず、誰も責任をとりたがらず、場当たり的で、大きな決断は先送りされ、部屋の中の象を無視し、自転車置き場の屋根の素材について手の込んだスライドが作られた。

人類の生存を確実にするため人類の形状を大きく変えてしまっていいのかという議論はもちろんあった。でもケルベロスはあまりに大きな、突飛な、誰も信じられないような変え方だったためか、かえってすんなり通った。そしてケルベロスをやった人たちによれば体のシェアは思ったより快適で、おおむね満足して過ごしていた。多くの人がそれにのるといっても人口全体からみたら大した数ではない。社会全体を変えるインパクトはなく、お決まりの「自己責任」が後押しし、斜陽の惑星でほそぼそと進んだ。

あなたの高校生のころでいえば、性別適合手術とか戸籍変更の要件とかの野次やデマのほうがよほどうるさく、いやな騒ぎだった。寄ってたかって石橋を叩き壊し、川がへどろになった。

このころのあなたにケルベロスのことを話してもきっと信じない。体やセクシュアリティについての何か遠回しのメタファーか、VRか何かだと思うだろう。なまぐさく濁った沼のほとりでうずくまるあなたに何か伝えておくことがあるとするなら、大丈夫、あなたは無事に乳房を切除できた。


台座はしばらくブルーシートに覆われていたがしばらくして撤去された。タタさんはそんなのあったっけと首をかしげた。
「まったく目に入らなかったな」

タタさんとはしばしば崖をのぼってサービスエリアへ侵入していた。何度もこの横を通ったのにまったくってことはないだろと思ったがあなたは言わなかった。

タタさんは細かいことをあまり気にしない性格だが、それはつとめてそうふるまう努力の賜物だった。ロッカーの鍵を閉めないとか、極力傘はささないとか、トイレで手を洗うときはいちいち鏡を見ないとか、がさつで大雑把という役をやっている。

活動ちゃんとデートするときもそうで、昨晩慎重に検討したであろう服装を「そのへんにあったやつを適当に着た」とか言う。公園の像なんか見向きもしないのがタタさんの考えるおおらかさなんだろう。あなたはちょっとばかみたいだと思っていて、同時にかなり好きでもあった。種明かしの済んでいる手品は愛しい。

《友》のいなくなった跡地を尻目に雑木林を分け入っていく。変電所の鉄塔にからすが舞い降りる。林の中は昼間でも薄暗く、湿った土は波打つみたいにでこぼこしていた。ひん曲がった根やこぶだらけの倒木につまづきながら、サービスエリアを目指した。

べつに何をするでもない。給茶機の茶をすすりながらおのおのスマートフォンをいじっているだけ。月末でギガを使い切ったらドッグランを眺め、テスト前になれば多少勉強もした。あるいはタタさんはタブレットで漫画を描いた。

しょっちゅう長居していたが怒られたことはなかった。誰も見向きしなかった。何か部活の遠征にでも見えたのか。公園の《友》みたいに、家々の室外機みたいに、景色にとけ込んでいたのか。

タタさんはハンドボール部の先輩で、といってもあなたは入部して一か月足らずで辞めてしまったのだが、その後もけっこうかまってくれていた。タタさんもほぼ幽霊部員で、好きなバンドのライブに通ったり、漫画を描いて同人誌のイベントに出てみたり、せわしなく遊び回っていた。

活動ちゃんは中学から私立に行った子で、ニュータウンのバス停で再会した。最近はゴスロリっぽい服装に凝っていて、どういうきっかけだったかタタさんの同人誌の即売会に一緒に行き、やがて二人は付き合うようになった。自分が憎からず思っている人たちが自分を介してくっついているというのが、あなたとしては誇らしく、気分がよかった。

何の原稿描いてるんですか。あなたは訊ねた。タタさんはにやっと笑った。
「カントボーイのアンソロ」

それってエロいやつですか。うん。ほんとはだめだけど歳ごまかして描いてる。タタさんはシーと指を立ててみせた。カントボーイってわかる? あなたは首を振った。
「チンコじゃなくてマンコの男」

学校内で自分以外のトランスジェンダーに出会うとは思わなかった。はっきり開示しあったわけではなかったがなんとなくわかって、タタさんが声をかけてくれたのは後輩への親切心だったと思うけど、牽制の意味もあったのではないかとあなたは訝っている。

割合的な話でいったら自分以外にもいておかしくない。でもこいつが本当にそうなのか、大丈夫なやつなのか、おたがい身構えるような感じはあった。自分が本物(、、)なのか一挙一動が試されているようで緊張するのだ。でも、だからこそ、仲良くなって身内にしてしまおうというようなたくらみがタタさんにはあったと思うし、あなたもそれにのったのだ。
「ふたなりとか女体化みたいなやつですか」
「ちがう、体は全部男で、チンコだけマンコになってんの」

いや、このときはまだそこまで整理できていなかった。なにしろトランスジェンダーという言葉自体、まだおそるおそるさわってみたところだった。これが本当に自分のものなのかわからない。物陰でそっと触れたのだ。あたりを見回し、誰もいないのを確認して、一人で粘土を捏ねた。誰かに指をさされそうでそればかり気になった。

タタさんが原稿を見せてくれた。二次創作の漫画で、あなたも知っているキャラクターだった。男性器が女性器になっている。それ以外変わりはなく、顔も髪型も胸も体型も服も男のまま、性器だけマンコ。見せてもらった原稿はある朝起きたらそうなっていたというストーリーだったが、生まれつきカントだけど周りの人にはバレてないってパターンもあるよとタタさんが言った。
「ある意味トランスなんですね」

あなたが言ったらタタさんは笑った。
「トランスでこれだったら完全に埋没だよな」

誰かの人差し指。無数の人差し指。それは自分の指にも乗り移り、粘土に突き刺す。固い冷たい粘土に指が埋まっていく。爪の間に入り込む。自分一人の部屋の中で布団をかぶってさえそうで、あなたはいつその粘土を手に入れたのか、はじめて触れたときどんなさわりごこちだったか、思い出せない。
「これはゲスト原稿だけどさ、将来的にはエロ漫画でいっぱい稼いで、オペ代にする」

タタさんが言った。
「カントボーイの漫画で儲けた金で自分の胸と子宮とったら、さすがに格好いいだろ」

油土は粘土に油を混ぜたもので放置しても固まることはない。夏はへたって柔らかくなるし冬はしっかり練らないと固くて扱えないが、捏ねていれば滑らかで、よく粘り、なんだって作れるはずだ。何度でもやり直せるはずだ。

油土で原型を作り、石膏で型取りをし、鋳型を作って鋳造する。

《友》もそのように作られたろう。溶かされ、地金にされてしまっても鋳型は残されていただろうし石膏型も保存されていただろう。そもそも粘土の原型を石膏に置き換える工程で、塑像した粘土は必ず崩すことになる。
「タタさんは現状も格好いいですよ」

粘土の原型に石膏を何層も重ねて型取りし、それをメス型とし、メス型に石膏を流し込んでオス型を作り、鋳型を作る。原型からメス型を剥がすとき当然粘土は形を保てないし、オス型を取り出すときにメス型は割らねばならない。製作の過程に破壊と複製がある。絵でいえば原画を必ず破るようなものだ。彫刻家が手塩にかけた粘土の《友》を温存することはできず、油土は繰り返し使われる。

タタさんは背が低く、だぼだぼのスラックスの制服にいつもパーカーを着ている。上からブレザーを羽織るとフードがこんもりと持ち上がり、首が埋もれてカメみたいだ。


外国人の子ども二人が警察官に呼び止められた。二人は兄弟で、兄がライターを持っていた。火遊びをしていたわけではなかったしたばこを吸っていたわけでもない。たまたま。でも何かよくないことをしでかしそうに見えたのか。自転車に防犯登録がされていなかった。弟のリュックにスマートフォンが三台入っていた。兄はピアスをいくつも開けていた。

警察官は荷物やポケットの中身をすべて改め、体中をまさぐった。身分証明書を出すように言った。兄弟はたまたま携帯していなかった。兄がちょっと悪態をついたら、警察官は腕を掴んだ。兄は驚き、振りほどこうとしたが、あっというまに組み伏せられた。

弟は逃げた。じょうずに説明すればわかってもらえたかもしれない。身分証明書がなくてライターがあってスマホが三台あって自転車の防犯登録がない、合理的な理由をすらすら説明できればきっとなんともなかった。そんな芸当はできそうになかったから走った。

雑木林の中を駆けていく。根や倒木につまづきながら、ともかく走る。やがて弟はフェンスを乗り越えた。それはサービスエリアではなく変電所のフェンスだった。弟は感電し、大怪我をした。
 
「やばい祭りきてた」

トイレから出て来たタタさんが言った。祭りというのは生理のことで、出血を血祭りといってふざけていた。女子校だからそうだった。いつも誰かしらが生理中で、急に誰かがそうなればナプキンとか融通しあう。
「持ってますよ」

あなたも生理中だったから持っていた。じゃあうつったんだなとタタさんが笑った。一緒にいると生理がうつる。そんなわけないのだがみんなそう言ってふざける。腹痛いとかレバーみたいなのが出たとかタンポンノーハンドで出せるとかおりものが臭すぎるとか、不調や面倒をあけすけに打ち明けあい、友好のしるしとしていた。

ジャージ履いてくればよかったとタタさんが言った。制服のスラックスはスカートと同じ薄いグレーで、生理のときは不安だ。「パンツ買いますか、売ってるかも」とあなたが言ったら、「こういうとこのはちっちゃいリボンがついてるからやだ」とタタさんは眉を寄せた。

あずまやに座ってドッグランを眺めていたらどこかの高校の部活だろう、水飲み場で男の子たちがふざけていた。ぞろぞろバスから出て来た集団。みんな短い髪の、お揃いのジャージの。蛇口に指を押し当て、噴水みたいに跳ねかしていた。

ばか、出しすぎ、量多すぎ、出る出る出る、もう出ちゃう!

そいつらはとてもはしゃいでいた。あなたやタタさんがいるのを意識していたのか、まったく眼中になかったのか、でもどっちでも同じことだとあなたは思った。

一人がみんなに囃し立てられながら蛇口をくわえてフェラチオの真似を始めた。《友》のペニスより小さい蛇口。ひざまずき、深くくわえ、尻を振った。集団は大笑いした。

白い大きな犬がサッサッサッサッと走っていく。同じくらい大きな犬がくっついて、フェンスに体を押しつけ、せっかく広い芝生なのに二匹はおしくらまんじゅうみたいになっている。

やがてタタさんは言った。あずまやの下は影になっていてタタさんの頬が水色に見えた。
「——あの銅像を盗んだのはおれだよ」

だからずっと黙ってたんだ。タタさんは言い、スニーカーのかかとで地面をこすった。誰にも秘密な。ざりっと砂が鳴った。
「チンコのデッサンしようと思って、銅像からチンコとタマだけとった。そしたらあいつもマンコになったよ」

《友》から性器だけとった? タタさんが? 言っている意味がわからないしそんなことできっこない。タタさんはまるでふつうの顔で、冗談を言っているふうでもない。
「マンコになったの、しばらくは誰も気づいてなかった。おれはすごい笑った。ぜんぜん誰も見ないんだもん。ああいうちんぽ丸出しの像なんかじっと見ちゃいけないってことになってるからさ、あんながっしりした、いかにも男って感じの男がマンコにされちゃったのに、誰も気づかない」

うそですよね? 言おうとして唾を飲み込んだ。給茶機の緑茶の味がした。生理の血が、たぶん塊のやつがどろっと出てきたのを感じて、もぞっと座り直した。
「おれは何もなくなった股をあいつのチンコでガンガンぶっ叩いたよ。自分のチンコとセックスする気分はどうだっていじめたんだ。そしたらあいつは泣きながら逃げてった。銅像なのに情けないよな……」

チンコとタマは机に置いておいたら遊びに来た活動ちゃんに見つかってケンカになった。連絡先ぜんぶブロックされた。捨てアカ作って裏アカ覗いてるけど超病んでる。おれはチンコなんか大して好きじゃないから漫画描いてるのに。あのチンコ、おれが生やしたらむしろ活動ちゃんは喜んだ気がするんだけどな。タタさんはぶつぶつ言った。風に何か焦げたようなにおいが混ざって、たぶん野焼きの煙だ。


感電した弟は重度の火傷を負い、足を切断した。子ども相手にひどいという声を、何かやましいことがあったから逃げたんだろうという声が押し流す。すり潰す。一人一人はおとなしかったりやんちゃだったり普通の人たちだってことはわかるけど、集団になると地域に与える刺激が強いよね、不安は仕方ないよね、結果的に治安の悪化につながったのは事実だよね……。

兄弟の母親は強く抗議した。不当な取り締まりだと叫び、泣いた。警察署の前で座り込みをした。深夜に暴行された。犯人は複数人だったとのことだが捕まっていない。じゃあ嘘だろうと、警察署の前でそんなことあるわけないと、みんな信じない。地球の外に移住できるようになり、体をケルベロスにすることができるようになり、人間の生活も形も変えてしまえるようになってなお、こうだ。

あなたはショックを受けている。あなたはケルベロスで、とても腹を立てている。

同じような雑木林を駆けた子どもだからか? それだけではないと思うのだがうまく言えない。遠い町の遠い時間のできごとだ。でも、抗議のデモに行こうと思った。パートナーたちに説明するのに難儀した。抗議の気持ちがあるとして、それをここで言って意味あるのか? ここで大声を出しても責任ある人(、、、、、)には聞こえないんじゃないか? 何度も言い続けて無視されているのにまだ言うのか?

いやそれはあなた自身の中からわいてくる疑ぐりだった。ケルベロスになったあなたたちはトランスとノンバイナリーの三人組だから、おたがいデモとかマーチみたいなものには少なからず慣れていて、今度これに参加するつもりと言ったらいいよとのってくれた。

頭が三つ並んでいるのは思っていた以上に肩も首も凝る。体をどこかにぶつけたらちゃんと三人とも痛いし、うんこや自慰が恥ずかしい。

カントボーイの漫画って、挿入されたい欲に抗えないとか、妊娠させられるかも的な興奮とか、要するにおまえはメスなんだ、チンコに負けるんだって話が多いんですね。とあなたは言い、べつにタタさんに対する批判や文句というわけではなかったのだが、だんだん遊ばなくなった。タタさんの受験とか卒業もあった。

いまここが痛いと、どうしても腹が立っていると、あなたは言いたい。

あたしも言いたい。あたしも声を出す。

あたしは月にいて、あなたからすごく遠くにいて、見えるはずはないのだが、でも見えた。あなたの声を聞いた。声は波だ。波は空気を震わせ、動かす。波はずっと続くわけじゃない。振動はやがて消えてしまう。粘土の原型は崩される。でも粘土を捏ねたことを彫刻家の手は忘れないだろう。忘れたとしてもなかったことにはならないだろう。

あたしはあなたから生まれた。あなたのケルベロスの話を聞いて、正直理解できない。無理だと思って逃げた。ごめん。

デモは、時間になったらおのおのどこかに立つことになっていた。地球で、火星で、月で、宇宙ステーションで、あたしたちはバラバラに散らばって立っている。

あなたたちは台に上がる。スピーチをするための小さい台。《友》の台座に似ていたか? ぜんぜんちがう。手渡されたマイクを握り、おそるおそるしゃべり始める。三人で共有する膝がわなないている。でも一人が言葉に詰まってもまだ二人いると思っている。あなたは本当はデモが苦手だ。みんなで節をつけてコールするのがどうしても好きになれない。でも来た。ダンボールのプラカード、「NO HATE」の文字をあなたが袋文字でささっと書いたので、パートナーたちは頬を寄せて喜んだ。

たがいの髪や髭がいつもちくちくと刺さり、肌の脂が気になり、息のにおいに顔をしかめる。ふざけて噛んだりキスしたり言い合いの喧嘩をする。ずっとハグしているようなものか。自分の体が自分だけのものでなく、三人の共有になり、あなたたちは話し合い、乳房を切除できた。

——あなたは思う。あのころ《友》を撫でてみたらよかった。遠巻きに見ていた裸の肌のでこぼこを、さわってみたらよかった。冷たいのか、熱いのか、それがわかるだけでもきっとちがった。性器をもぎとらなくたってよかった。と同時に、あのときはそんなことできっこなかったというのも、よくわかっている。

あたしも叫ぶ。叫ぶってこと、怒るってことを体に馴染ませ、肌に覚えさせる。

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オカワダアキナ

オカワダアキナ著者

1984年生まれ埼玉県在住queer。小説を書いている。文学フリマなどに出店。代表作は『イサド住み』『人魚とオピネル』など。