
ティファニー・シュエ
ニューヨーク出身の作家。生物工学研究者として働くかたわら、執筆活動を続けている。短編Fish Fear Me, You Need MeがSF雑誌Clarkesmagazineに掲載され、デビュー。現在は夫とともにボストン在住。
原題:FISH FEAR ME, YOU NEED ME
翻訳:堀川夢
10,588文字
マックが帰ってきた。俺たちの住む、ちいさな島をぐるりと走っていたのだ。昔は10周、それから20周になり、今は30周している。汗だくで息を切らして、「釣り日和だ」という。
俺は頷いた。いまのところ、彼のこだわりからいっても、釣りをするかどうかの最終決定権は彼にあるから。母親はよく「愉快な妻がいれば人生も愉快だよ」と言っていたが、俺は結婚しなかった。そして、マックの妻は23年前に水底へと行ってしまった。俺たちはその6ヵ月後に出会ったのだ。マックはちいさくわびしい筏に乗り、洪水が起きて魚があふれる前に用意していた缶詰のサーディンと、釣った魚で生き延びていた。俺はかつては大きな島だったところに立つ建物の、小さな一室に暮らしていた。マックは日焼けした色黒の肌をして、髪は色が抜けてボサボサだった。髪を洗ったり涼をとったりするのには、頭を水に突っ込むので充分だと思っていたから。
俺はショットガンをマックの股間に向け、はじめに「どこから来た?」と訊いた。彼が俺にとって脅威なら、俺も彼にとっての脅威だ。
「スプリングフィールドだ」彼は咳をし、一呼吸おいて、国内にあまたある他のスプリングフィールドに殺されかかったかのように「マサチューセッツの西の方」と付け足した。
「スプリングフィールドは水の底だろう」
「なんで俺がここに来たと思ってるんだ? てめえの汚えケツを掘るためじゃないっての」そして咳き込んだ。彼はずっと、長いこと水を飲んでいなかったのだ。その頃、俺は全ての生活用水を雨水から得ており、もっとよい濾過システムを設置して稼働させるにはまだあと1年ほどかかりそうだった。
「襲撃しようとしてたんだろう」
「何を襲撃するんだよ? 家すらないんだぞ、クソが」
他にどうすることができただろうか。俺はマックが筏から降りるのを手伝い、水を飲ませ、ベッドを提供した。このみすぼらしい男を野良犬のようにつまみ出すべきだったのかも知れないが、そんな勇気もなかった。今では週に一回、日差しが強すぎず潮の高い日に、俺とマックはかつてチャールズと呼ばれていたところへと釣りに出かける。ノスタルジー、あるいは古い習慣といったところだろう。かすかに潮の匂う風のあるところへ行く。水位が高いときには隠れる場所が増えるので魚も増えるし、マックは日差しが苦手だから、そういう日を選んでゆく。俺はいつもサングラスを持ってゆくが彼はいつも忘れ、水のきらめきのまぶしさに耐えられなくなる。そして俺はいつもサングラスを貸してやろうとするが彼はいつも断り、きっと俺も耐えられないのでほっとする。耐えられないからサングラスを持っていくのだ。そして内心、彼がこのくだらないサングラスを俺から取り上げてくれたらこの犠牲者ごっこも終わるのに、と腹を立てている。
俺はドアにかけた布で汗を拭くマックを見つめている。汗を流すには泳ぎに行った方が簡単だろうに、彼は決してそうしない。
「朝食の後で出るだろ?」と訊く。マックは頷き、燻製にしたカモメをとりに行きかけるが、立ち止まって燻製箱をしばし覗いている。
「あと一切れしかないんだが」彼はいった。
「取ってねえよ」彼が俺を責め始める前にいう。マックが魚より鳥を好んで食べるのは知っていたが、ここでは鳥は日に日に少なくなり、魚はどんどん増えている。彼はときおり絶食を試みるが、1、2日で断念して俺の用意したものを食べる。そんなふうに餓死しようとしないでほしい。
「先週1羽獲ってきたばかりじゃねえか」とマックがいう。まるで、そうやっていえば燻製箱に食べ物が増えるかのように。
「2週間前だよ。それにやせこけたカモメだっただろ」釣り糸を切ってニシンごと俺の指を持っていきそうになったカモメだった。逃げおおせる前に首を引っつかんで、背骨をへし折った。そんな真似が自分にできたことに、今もおどろいている。
マックが訊ねる。「食べちまったのか?」
「いつから食う気でいたんだ?」
「知るか。生殖腺があるときはいつも魚といっしょに食っていたじゃないか。うまいんだろ」
「生殖腺は俺のだ。薬なんだよ、マック。俺が精巣をもらって、ほかはお前のものにする約束だったじゃないか。半分の確率で、俺には何も当たらないし、お前には卵巣があたる。どうだ、フェアだろう?」
「卵巣はいらない。お前が分け前を決めたんだろう」
「じゃあさっさとそのカモメを食えよ。長くは待たないからな」
マックはがっかりした犬のように燻製箱を見つめた。まるで妻を見ているかのように。俺はため息をついた。
「今日またカモメを捕まえようぜ。オスだったらタマをやるよ。それかカメを釣ってもいいし、貝も採ってやる」
「そんなものいらないよ」と彼は口ごもった。
「いい加減なにか食べてくれよ」
マックは悲しい顔であたりを見回しているが、釣りの日はいつも悲しそうなのだ。彼が釣り好きなのはまちがいないが、それはこのあたりにはほかに何もやることがないからかもしれない。電気もなければ本も数冊だけ、空き地も小さなもので、できることはあまりない。マックはかつて住宅検査官をしており、コネチカットとニューヨーク、それにマサチューセッツを股にかけて、問題になりそうな事柄や、正しく対処されるべき事柄を探してまわっていた。社用車のトラックを運転していないときはヴィンテージのスポーツカーに乗っているような、車好きの男だった。いまは、全てが水の底だ。いまでは、彼には島しか残っていない。
それと、俺しか。
俺は自分の鱈を食べた。マックは枯れかけたライムの木から果実をひとつもぎ取って皮ごと食べるが、俺は気づかないふりをする。
昼近くになって俺たちは出かけた。予定より遅くなったが、まだ雲は晴れていないので問題はない。マックはサングラスを忘れなかったが、今度は帽子を忘れた。わざわざ指摘しなかった。どうにかして、彼は学ばなければならないのだ。
俺たちは舟で北へ向かい、豪華な建物の上を通り過ぎる。バルコニーに置かれていたであろう家具は波にさらわれた後で、屋根にボルトで固定されている家具も日に当たって色が褪せ、ボロボロになっていた。しばらくのあいだ俺たちは、この建物が荒らされたのかどうかを考えていたが、このあたりで他の生きものを見たことは一度としてなかったし、何十年ものあいだ、他の生きものの立てる音をきいたためしもなかったから、考えるのをやめた。
ハンコックタワーの錆びついた梁を通りすぎ、建物の屋上やかすかな道の跡も見えなくなった。前方はるか向こう側にはケンブリッジの街並み、俺たちがじゅうぶん遠くに来たという証が見えている。
「ここだ」という。マックが櫂を置き、弱い波に揺られながら竿を用意する。うちには、5000フィートの釣り糸がある。数年前、住居の3階にあった開かずのクローゼットをついにこじ開け、かつての住人がなんらかの手芸作品につかっていたのであろう、ナイロン糸の束を見つけた。俺はそれを編んで巻き取った。そして、マックの漂着記念日にそれを見せて、彼を驚かせたのだ。なぜそんなことをしたのかはわからない。100年は持つくらいの量の糸。俺たちは20年も持たないだろう。
チャールズだったところの深みを狙って、俺たちは同時に釣り糸を下ろした。このあたりに大きな魚はいないし、脂の乗った魚も多くはないが、洪水の後には魚がみなここへ集まってきた。マックは彼らが今の自分の姿を恥じているからだと考えているが、単に暗いところが好きだからだろうと俺は思っている。マックは俺のことを、自分は彼より賢いと思っているクソッタレだという。洪水が来たとき俺は大学院生だったから、彼はいつもそういう。でも俺は賢いわけじゃない。留年していたし、プロジェクトもめちゃくちゃだったし、ただ雑用係を必要としているだけで自分に目をかけてくれるわけでもない天才教授のもとで働いていた。俺は賢くない。その前に何者であったとしても、動物は恥を感じることができないのを、ただ知っているだけだ。
釣り糸をおろして、俺たちはくつろいで座った。魚を泳がせる塩水の入ったクーラーボックス、8リットルの飲み水、インスタントコーヒーの入った缶、サーモンジャーキーを持ってきていた。俺はマックのために、塩と小麦粉に庭のハーブを少しまぜたパテを作ってきていた。どんなに手間がかかっても、彼を空腹にさせておくのはいやだった。マックが1日ここにいたいのなら、腹痛とかそういうくだらない理由で家に戻らなくてもよいようにしたかった。
マックは網を手に空を見たり、竿を眺めたりして過ごした。俺は竿を見たり、そっぽを向いているマックを眺めたりして過ごした。当たり前だが会ったときよりは年を取っていて、でもときどき、そのことに今でもおどろいてしまう。悲惨な髪型や頬の傷、くだらないジョークに笑う声、絶食したり酒を飲んだりなにか思い出したりしているときの涙、そして彼以外の人間を見かけない日々を通して、俺は彼がどんな見た目か知っていると思いこんでいる。だがふとしたとき、改めて見た彼は完全に変わり果てているのだ。マックも、俺を見て同じことを考えているのだろうか。以前からとびきり素敵な見た目をしていたわけではなく、今だってもちろんそんなことはない。鏡や水面を見ると、白髪やきたない髭、欠けた眼鏡、耳のシミが目に入った。あごはたるんで、首にシワもある。でもその変化を嫌がっているわけではない。俺は年を取るにつれてより男らしくなっている。
マックは頬の裏側を噛んでいる。
「来そうかい?」と訊ねる。利己的な意図を隠す残酷な言葉、それをさらに覆い隠す優しい口調で。そうせずにはいられない。毎回そう訊くのだ。マックは俺が、彼を傷つけるためだけに訊ねているのをわかっていて、毎回返事をする。
「どうしてわかるっていうんだよ」釣り餌を手に取りながら彼がいう。
「第六感とか。超能力とか。奥さんが呼んでるんじゃないか?」
「馬鹿いえ、水中じゃ話せないだろう」
「鯨は歌うよ」
マックが動きを止める。「彼女が鯨になったっていうのか?」
「いや。鯨は哺乳類で、魚じゃない。つじつまが合わないよな」
「でも、海にいるじゃないか。ありえるよ」
「初めのうちは魚にしかなっていなかっただろう」
洪水の後、はじめの数年は、その魚が魚であるか、人間であるかは容易にわかった。臼歯をもつ魚がいた。つま先や肘の痕跡がヒレに残る、あるいは耳の軟骨を身体に持つ魚がいた。あとは、命の危機に怯え、助けてくれ、元に戻してくれと懇願するように目をぐるぐるまわすものもいた。真意は決してわからなかった。どの魚も話すことができなかった。俺はより人間らしくない魚を食べていたが、食べ物がなくなると、もう少しだけ人間らしい魚も食べた。人間の部分を切り落とし、邪魔な目をえぐり出せば、そう悪いものではなかった。マックはその頃、俺を嫌っていた。魚が魚に見えはじめ、人間と魚の見分けがつかなくなるまで、俺たちは別々の部屋で食事をした。その後、彼は俺と一緒にいられるくらいには克服したが、食事という営みを楽しむまでには至っていない。
「きっとまた変化が始まったんだ」マックはいう。「きっと、彼らは──」
「きっと彼らは、きっと彼らは、きっと、きっと、きっと。きっとそうだ、といいつづけるなら、そのうち世界中全部が人間に見えてくるぞ。そうしたら何を食うんだ?」
5年ほど前、赤ワインでクソほど泥酔していたときに、マックはかつて、夕飯にするドブネズミを追いかけてウスター鉄道の線路を駆けくだったことがあると話してくれた。それで、ここにくるまでに彼が乾いた大地を何マイルも横切ってきたことを知ったのだ。ネズミを腹一杯食べることもできたはずだし、今からでもここを立ち去ればそうできるはずなのに、彼は妻がいるかもしれない場所で餓死することを選ぶのだ。俺も言及を避けた。よりよい暮らしを追い求めることなんてどうでもよくなってしまった今となっては、たやすいことだった。
マックは肩をすくめた。「そうなったら何か見つけるさ。ワカメとか、海藻とか」
「そういうのは沖の方に生えてるんだよ。1日じゃたどりつけない」
「だったら旅に出るよ。1週間くらい沖に出て、ワカメとか海藻とかをたくさん集めて、ボートの後ろに繋いで引っ張って帰ってくる」
「いいじゃないか、で、昆布は腐って魚に食い尽くされるし、お前は食べ物が手に入らずに錯乱して、腹ペコで帰ってくるんだ」
マックは何も言わなかった。
「マック、ジャーキーを食えよ。タンパク質が要るだろ」
「いらないよ」
俺もそれ以上食い下がりはしなかった。「じゃあ小麦粉のパテだ」
彼はパテを食べた。明らかにまずそうな顔をして。がっかりだ。良質な食材の無駄遣いだ。
「それで、なにか新しい説はあるのか?」マックは訊き、魚釣りのときにいつも話すことへと話題は移っていった。俺の機嫌をとり、考え込ませて、妻について訊ねさせないようにするための話題だ。彼は優しく、俺と同じように自分勝手だ。マックが汗をかき、額が赤くなっていることに気づいて、帽子を貸してやる。マックはひととき逡巡してから、受け取る。
「シラミをうつさないでくれよ」
「俺にシラミがついてたら、少なくとも食料にはなるんじゃないか」
マックは顔をしかめた。「ゲロ吐かせようってのか、それとも話を聞かせたいのか」
「今日はふたつだけだよ」俺はいう。「まずひとつめだ。もうきいたことのある話だったら教えてくれ。化学薬品がどこかから……」
「それはもう話してたぜ。遺伝子組み換えだろう?」
「違うんだ、これは別の話。化学薬品の流出だが、この薬品が放射性で……」
「それもいってた。覚えてるよ、お前フクシマと比べてたじゃないか」
「わかった、じゃあひとつめは新しくない。でもふたつめは新しい話題のはずだ」
「どうしてだ?」
俺はため息をついた。マックはこの話題になるとちょっと意地悪になりすぎる。「聖書を読み始めたからだよ」
思った通り、マックは笑った。俺は彼の笑い声を聴くのが好きだった。ここ数日ではめったに聞かなかった声だったし、そもそも最初からあまり笑わない男だった。「お前が? 何をどうしてそんなことを」
「クソ退屈で仕方がなかったんだよ。お前はジョギングしてたからいいだろうけど……狂ってるよな、カロリーを無駄にするんじゃなくて節約しろよ……俺は家に閉じこもっているしかなかったんだぞ」
「お前も一緒に走ればよかったじゃないか」
「走るわけないだろ。100歳までカロリーを貯金してるんだ」自分の腹を叩いていう。
「他の本を読めたんじゃないのか」
「地下室でまたクソみたいなミステリ小説を見つけた日にゃ、自殺してやるよ」
マックが大笑いする。「それで、今や信心深くなったおまえはその素晴らしい本についてどう思うんだ?」
「物語は面白かったよ。映画みたいでさ。ジェリコの壁、モーゼがやったロクでもないこと、ノア、ソロモン、シバの女王、ロトの妻、あの妻はなんて名前だったかな……」
「名前はない」
「何もないのか?」
「何も。ただの“ロトの妻”だ。夫の方を振り返ったから塩になっちまった、よくある話さ」
「ひどい話だな。誰だって持ってる名前を持っていないなんて」
「彼女は意思にまつわる話の偶像に過ぎないからな。学びたいのなら、まずは……」
「学びたくなんかないさ、ただ読みたいだけだ。楽しんで、気を紛らわしたいだけ」
「なにか取り組むものがあればいいのにな」
「俺は生きることに取り組んでるんだ。邪魔しないでくれよ、マック」
マックの名誉のためにいっておくと、彼は俺の邪魔はしていない。「で、お前の説は?」
「アルマゲドンだよ、マック。終末戦争だ」
マックが何も言わないので、俺は思い当たった。
「イエス様が戻ってきて正しい行いの者たちを天国に引き上げ、残りの者は苦しみの中にとどめおかれるのが終末戦争だってことはわかってるよな」
「ああ、わかってる」
「考えてみろよ、もしイエス様が魚で、天国が海を指していたら」
「で、俺たちは唯一の“正しくない行いの者たち”ってことか」
「その通り」
「しかし、俺たちは……殺人者もレイプ犯も、小児性加害者やDV男だって魚になったんだぜ。そいつらも天国ゆきの資格ありっていうのか?」
「魚基準だと、そうなんだろうな」
「俺たちは善き人間だろう」
「一緒にするなよ」俺は鼻を鳴らした。俺は悪い人間ではない。盗んだこともあるし、嘘をついたことも、ズルをしたことだってあるが、大きな悪事を働いたことはない。嫉妬の感情を別にしたらだが。しかし、俺の意見では、嫉妬は大きな悪事ではない。
「俺は善き人間だよ」マックは言い張った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。俺はお前のことを知らなかったんだからな」苦々しく返す。
「一生懸命働いたし、公平だし、隣人に親切にした。妻を愛していた」
また彼女とのことだ。俺の頭は燃え上がり、黒い髪が熱した油のような灼熱にひたっている。だから話題を変えたのかもしれない。釣りの旅では決してしないが、夜遅く、泥酔した夜、それから彼のことも俺自身のことも憎く思えた朝にしてきたことをする。いい結果に終わった試しはない。それでも、そうするのだ。
「奥さんについてもっと教えてくれよ」
「何を気にしてるんだよ」彼は正しい。俺は妻のことなんて気にしておらず、彼自身のことを気にかけているのだ。でもそのままいうことはできない。
「おいおい、俺たちは、お前が結婚していた期間よりも長く知り合いだろう。何も教えてくれないのか」
「妻と出会ってから洪水まで23年だった。結婚してからは12年」マックが口ごもる。
俺は口笛を吹く。「ということは、幼なじみと結婚か。大したもんだ」
「やめてくれよ。調子に乗るな」
「なんだよ。俺が知ってるのは、お前が彼女を愛してて、彼女は緑の眼で、お前は彼女について話したがらなくて、お前が彼女に戻ってきてほしがってるってことだ。だから俺たちはここにいるんだろう、違うか?」
「黙らないと怒るぞ」
「彼女の名前は? 性格は? 笑い声とか笑顔とかについて、くだらないことを教えてくれよ。どんなふうに気にかけていたんだ? シェリルかな、エイミーかな。それとも外国人? いや、お前はこのあたりの出身だもんな、そうだ。幼なじみの恋人は同じ出身地じゃないとおかしいよな」
「どうしてそんなくだらない質問ばかりするんだよ。気にかけてなんかいないだろう、彼女に会ったことすらないくせに」
“ああ、俺はたぶん、お前がなぜそういう人間になったのかを知りたいんだよ。お前のどこが妻ゆずりで、彼女のどこがお前ゆずりなのかを” そうはいわず、俺は「彼女、美人だった? くびれはこのくらい細くて、脚はこれくらい長かった?」という。
「黙れ。いい加減にしろ、黙れ」
「ベルベットみたいな声してた?」俺は猫なで声で続ける。「ああ、マック、ベイビー、どこ行っちゃったの? 私を釣り上げて、エメラルド色の眼を見て、前みたいに食べてちょうだい……」
「黙れ!」マックが怒鳴り、俺の顔を殴った。近くにいたカモメたちが怯えて飛び立つ。俺は彼の襟、ダサいネルシャツの襟を掴み、こちらへと引っ張る。すり切れた糸で留められていた、やぼったいプラスチックのボタンが綿の生地からはじけ飛んだ。俺は血を流している。着ているTシャツを赤く染めるだろう。俺はマックに殴りかかったが、ほんとうに殴ることはしない。そんな状況でも、傷つけたくはないからだ。彼を殴れることを、殴りたいことを、男になれることを、拳を振り回して殴り、戦えることを見せてやらないといけない。間違っていて、やりすぎだとわかっているときでも。彼はもう殴ってこず、顔色は真っ青で、自分がひどい状態であることをわかっている。それでも、まるで俺が自分の子であるかのように、俺が自分の子であったらと願うように、俺の腕にしがみついている。俺たちは叫び、舟を揺らし、どちらかは舟から落ち、どちらかは溺れ死ぬのかもしれない。俺が溺れているなら、そのままでいい。溺れているのがマックなら、俺はその後を追う。
そのとき、俺の釣り糸がぴんと張った。マックを押しのけると、彼は俺を離した。素早く動けるようになったので、魚が逃げる前に捕まえることができる。糸を巻こうとしばらく格闘するが、いつもよりも時間がかかり、切れそうな音をたてて糸がきしむ。たたかっているのだ、と気づく。魚は、逃げようとしているのだ。
「彼女を捕まえてくれ!」マックが肩を掴む。俺が彼の救命筏であるかのように、ボートから落ちかかった俺を引き上げなくてはならないかのように。そして、水面に魚がいたら怯えて逃げてしまいそうなほど大きな声で、バンシーのように叫ぶ。離してほしい、揺さぶるのをやめてほしいと思った瞬間彼は俺を手放し、俺は彼が恋しくなる。彼はボートの側面から身を乗り出して、水面下30センチよりも深いところが見えるかのように、海を覗きこんでいる。
「おいで、ベイビー、おいで。お前は気が強かったもんな、いまも闘っているんだよな。お前じゃなきゃダメなんだ。俺はここにいるよ」マックは海に向かって話しかけている。そしてこちらを振り返る。「もう彼女を引き上げてやってくれよ!」
「引き上げようとしてるだろ、マック!」俺は叫んだ。そして、逃してしまうことを、釣り糸ごと、水面下に潜むだれか、もしくは何かに明け渡すことを考える。マックはすべての獲物が妻だと確信し、いつも俺はその確信が正しいかもしれないと思う。そして二度と釣りをしたくなくなるのだ。俺には必要ない。食べる必要がない。俺は飢えて衰弱し、もしも(彼なら「いつか」というだろう)俺たちが彼女を見つけたときに起きることを目の当たりにしなくて済む。おそらく彼は釣りをやめ、妻を元の姿に戻す方法を見つけることに夢中になるだろう。見つけられなかったら彼はおかしくなってしまって、そして、人間と魚は同じものだと考え始めるのだろう。ペットの魚みたいにバケツで妻を飼って、自分が食べるはずの食べ物を妻に与え、俺とは二度と口をきかなくなるし、こちらを見向きもしなくなる。妻を抱き上げて水に戻すのを忘れ、それで妻が死んでしまったら、マックは自分のことをひとりぼっちだと思うのだろう。なぜなら、彼にとって俺は決して特別な誰かではないから。妻が見つかったらマックがどうなってしまうのかを考えて恐ろしくなった夜もある。そんなのは嫌だった。俺たちに、俺に何が起きるのか知りたくないのに、どうして俺はマックの釣りを手伝っているのだろう。どうして俺がマックの妻を見つけて、その魚を捕まえなくてはならないんだ?
それでも、いつものように俺は魚を釣り上げた。60センチくらいの鱈で、クーラーボックスに入れるのにマックに手伝ってもらわないといけなかった。魚を見つめるマックを見つめる。彼は何も言わず、とうとう自分の釣竿のところに座り込んだ。俺もそうした。日没までに、俺たちは魚をもう5匹釣ったが、カモメは捕まらなかった。
俺たちは帰路に着く。岸に戻ると、マックが俺の鼻に絆創膏を貼ってくれたが、何も言わない。申し訳なさそうな顔をしながらも不愉快に思っているのはわかっていて、俺はそれを受け入れる。妻と再会し損ねたから、あるいは俺を憎んでいるから不愉快なのだとしても、受け入れる。その不愉快さは、俺が受けられるなかで、もっとも謝罪に近いものだから。
獲物のほとんどは燻製器に放り込む。例の鱈は夕食にとっておいて、包丁を取り出しながら目をチェックし、緑の斑点や人間らしい部分がないか探した。マックはふてくされて2階にあがった後だったが、もしも鱈の瞳のなかに彼が見逃した何かを見つけたら、階下に呼び戻して確認させただろう。これは彼の妻じゃない、とてもそうは思えないが、マックには別の考えがあるかもしれない。もう一度この鱈を見て、これが妻だという妄想に納得したとしたら、俺たちは喧嘩になる。もう喧嘩はしたくなかったので、俺が正しいことにした。
鱈の頭を落としてさばき、塩を振って蒸す。夕食を食べていると、もうカモメのジャーキーが残っていないことをまたしても忘れたマックが降りてきて、俺の鱈を何口かかじる。呑み込むときにひどくむせるので、俺も残りを食べるのに難儀した。マックは疲れたといって早々にベッドへと向かう。俺はおやすみをいう。彼がおやすみと返す。俺はひとり。いつも、問題を蒸し返してしまうことを後悔している。でもきっと、またやってしまうだろう。どちらかが死ぬまでは終わらないのだ。
赤ワインのボトルを持ってベランダに座り、波の音を聞きながら星を眺める。マックのいびきが聞こえてくる。寝室の、俺のベッドから。いつか戻れるのだろうか。
マックは妻を見ればわかると思っているが、俺にはわからない。海には幾億もの魚がいる。もし彼女を見つけていたとしてももう食べてしまっているだろうし、まだ見つけていないなら、永遠に見つけられないだろう。マックの意見が正しくて、妻を他の魚から見つけ出せることを願っている。きっとこの次、俺の食べている魚を一口かじったときに、彼はその味の中にかすかにひそむ彼女の香水や体臭に気づくだろう。その後に良いことが起きるとも思えないが、もうやめにしてはくれないだろうか。四六時中妻のことを考え、探し求めるのをやめてくれないだろうか。俺たちの生活から、妻が去ってはくれないのだろうか。もちろん、もとのマックに戻るには時間がかかるだろう。今よりも世話を焼かなくてはならなくなるだろうし、食べて、飲んで、息をすることを覚えているか確認しないといけなくなるだろうが、そのうち元の自分に戻るだろう。俺のところにマックが帰ってきたら、また魚を釣りに行ける。きっと、もっと釣りが好きになるはずだ。もう誰かを探し求めなくていいのだから。俺たち二人だけで。ただ釣りをするために、釣りをするのだ。
◇
"Fish Fear Me, You Need Me" by Tiffany Xue
First published in Clarkeswold, 2024 ©Tiffany Xue
Translated with the permission of the author.
先行公開日:2025年1月25日
カバーデザイン:VGプラスデザイン部
翻訳・堀川夢
1993年北海道出身。VGプラス所属の編集者、ライター、翻訳者。得意分野は海外文学。フェミニスト。
「おじさん」特集 掲載作品
ニューヨーク出身の作家。生物工学研究者として働くかたわら、執筆活動を続けている。短編Fish Fear Me, You Need MeがSF雑誌Clarkesmagazineに掲載され、デビュー。現在は夫とともにボストン在住。