
やめたくなって
10,364文字
もう人間やめたい。やめたい。
「あ、やめる? じゃあ準備するよ」
ほがらかに探査体がいうので、あわてて打ち消す。
「やめないよ。やめない。心の声をいちいち真に受けるなよ」
「そのように機能する存在だから、受け入れるといいよ」
スマートスピーカーの筐体に擬態した姿でテーブルのうえに鎮座し、スマートスピーカーのような声で話すけれど、口調はもっと軽い。このエイリアンがうちに居座ってもう一週間になる。
「どうして人間をやめたいの?」
「やめたくない」やめたい。
「どっち?」
「声に出したほうだけを受け取ってよ……」
「観測内容に反応するよ」
脳の言語野を観測しているのだという。
言葉にならない考えまでは読めないけれど、言語野にひらめく言葉のうち、とくに強いものは、太陽の表面に噴きだす炎を観測するように読み取ることができる。らしい。はじめのうちは読まれまいと必死になったけれど、どうしようもないのであきらめた。
「どうして人間をやめたいのか、話してみるといいよ」
質問がカウンセリングじみてきた。人間全般のことを教えてやるのはいいが、プライバシーの詮索には応じられない。そんな約束していない。
「言葉の綾だよ。〈理解不能〉のラベルをつけるかなんかして忘れてくれよ」
「この探査体は理解をやめる仕組みを持ってないよ。理解の手がかりを得るために、まずはプリミティブな質問で率直な回答を引き出そうとしているよ」
「カウンセリングいらないから」
「結果としてカウンセリングになるなら、あなたの利益が増えるよ」
「そんな取り引きしないよ」
逃げるように風呂に入る。
平日の夜は、何も考えずただ心を休めていたい。
シャワーの音に包まれると、ちょっとだけ心が緩んできた。思索に沈んでいくにつれ、苦い思いがわきあがる。
こんな歳にもなって、急に人間をやる難度が上がった。
社会のハードルが急に跳ね上がった。
自分たちだけが人間だ、みたいな顔しやがって。
「自分たちって、どういう人たちのこと? あなたと近い関係の人たち?」
磨りガラスの向こうから質問が飛んできたので、両手で顔を覆ってしまった。
「もういいよ……少しはリラックスさせてよ」
「音楽かける?」
なんで急にスマートスピーカーぶるのか。
「いらん。しばらくほっといて」
「じゃあ、いまから一時間ほっとくよ」
時間を区切るな。
ようやくの静寂だが、体を洗いながら、けっきょく憂鬱な記憶を延々と反芻するはめになった。
自分が「古い人間」になっていくことは受け入れられる。しかたないことだと思う。
でも、「悪い人間」にされるのは……
はっきりと言葉にして批判されたんじゃなかったのがまたきつかった。
自分が発したひと言で、なごやかな雑談が止まる。
目配せの素早いパス回しが自分のまわりで展開し、さりげなく話題が変えられ、部屋の温度が急激に下がる。つまり、自分という人間へ向けられていた温かさがはっきりと減る。
それが二度目となれば、さすがにこちらもなにが起こっているのかわかる。
若い同僚たちと話すのが怖くなってしまった。
たぶん、あちらにも避けられている。ああ……
人間やめたい。
社会をやめたい。
心の叫びがまた迸ってしまい、あわてて磨りガラスのむこうに目をやる。探査体の声は飛んでこなかった。ちゃんと放っておいてくれているらしい。
エイリアンが自分の家にいるという、考えてみればこんなに異常な状況もないのに、いまはとにかく職場でのいたたまれなさがつらい。そのことしか考えられない。
探査体が予告した一時間が過ぎるまえに布団に入ってしまうことにした。
もう寝る。とにかく寝る。
「あ、それはこっちでやりますね」
そっけない声とともに、本間さんに紙束を目の前から持っていかれてしまった。
結果、おれが若手と対面で話さなきゃいけない、こわい時間がひとつ減った。
本間さんは、おれとほぼ同年代だと思う。でも、いつも若い社員たちと男女関係なく楽しく世間話に興じている。そういうのって、やっぱり女性だからこその気安さなんだろうか。
おととし入社した四人の若手はいまも仲良しで、男ふたり、女ふたりがいつもひとかたまりになって楽しくやっている。それ自体はいいことだと思うし、見ていても心がなごむ。
みんないい人たちだ。いままでで一番居心地のいい会社だと思っていたんだけど……
おれ自身は、ふりかえってみれば流浪のエンジニアで、ひとつの会社に五年以上勤めたことがない。べつにふつうのことだと思っていたけれど、それが人生にはよくなかったのだろうか。居心地よかったのは、リモート勤務が許される時期が長かったからなのかもしれない。会社が出勤を強制するようになってから、いっきにつらさが増したような気がする。
……ふと気がつく。
おれが若手に避けられていて、だから本間さんが面談を引き受けたってこと?
え、そういうこと?
どう考えてもそうじゃない?
訊けないけど。怖くて。
「おかえり」
「……」
きょうこそは帰ったら消えていてくれないかと思ったが、いる。
「人間やめる?」
「やめないっつってんの。いまおれそんなこと考えてなかっただろ?」
「これまでの観測によれば、それがあなたの最大の望みである可能性は高いので、念のため質問してみたよ」
「違うから。ほんとにやめて」
映画に出てくるようないわゆる宇宙人かと思ったら、そもそも物質でつくられているものですらなくて、根本的に、なんだか知らんけどすごく根本的に、存在の基盤が違うのだという。それがこの世界を通過しながら情報を収集しているところなのだと。
いわく、
「この探査体は侵略も友好も意図してないから気にしないで。純粋な知的欲求の矢のようなものが、ほんの一瞬あなたの世界を通り過ぎるだけだから」
「一瞬?」
「あなたの主観では三十七年」
けっこう長いな、と思った。
いま、自分の三十七年後を思うと、心がずんと沈む。
そこまで生きていなくてもいやだし、生きていてもいやだ。
人間をやめるってどんなことなのか、何日かまえに訊いてみたのだった。
「人間をやめるのはそれほど難しくないよ。あなたの脳からいくつかの情報を抽出して、この探査体と同じような情報基盤に配置するよ。不可逆なので、いちどやめれば元にもどってしまうことを心配せずにすむよ」
「そうなっても、元のおれと同じだっていえるの?」
「なにも感じなくなるので、あなたの価値観に照らせば、人間をやめることはあなたではなくなることだよ。でも、それがあなたにとって喜ばしい変化である可能性があるよ」
「……それ、勝手にやらないでくれよ。おれが寝言でやってくれっていっても絶対にやるなよ」
鬱々としつつ、めしを食う。最近はとにかく野菜をとるようにしている。高いけど仕方ない。味はもうどうでもいい。
「……!」
「咀嚼の最中に、誤って口のなかを噛んだの?」
「そうだよ……」
こちらが急に顔をしかめたのを「観測」したのか。そんなところをいちいち見なくていいんだよ。
食事中にうっかり口のなかを噛んでしまうのはいやなものだ。今回もそうだったが、ちかごろは昔は噛まなかった場所を噛んでしまうようになった。上唇の両端、口角に近いあたりの内側。どう気をつけたら防げるのかわからないし、なんでそうなるのかわからない。
……なんでなのかがわかった。
老化とともに、顔面全体が張りをなくして下がっている、ずり落ちてきている。だから、上唇の一部が歯のあいだに巻き込まれがちになる。そうだ、そういうことだ。
歳をとるにつれ、できなくなることが増えてくるし、したかったことを諦めもする。それは当然のこと。嬉しくはないが、そういうものだと思って受け入れてきた。でも、老いは予想外の方向からやってくる。ほんとうに予想外の、そしてたくさんの方向から。小さなことがいくつも重なって、受け入れられるつもりだった線よりもずっと先までおれを押しやる。
どでかいため息が出た。
人間やめ……いやいやいややめたくない。
「いろいろなフィクションを観測したところによると、あわてて打ち消すような言明は内心の真実を反映している可能性があるよ」
「フィクションを鵜呑みにするのやめて」
「観測によると、評価の高いフィクションは人間のふるまいをよく模式化しているよ」
「そもそも、おれを観測対象にして大丈夫なの? 偏りすぎじゃないの」
「まったく異質な知的存在を、個体のバイアスを通さずに理解する方法はないよ。どのみちすべてを知ることは不可能だから、ほどほどのところで次へ行くよ」
変にサバサバしている。
「次ってなに? つぎの星?」
「惑星という概念は、ほぼ確実に、次にいくところでは意味をなさないよ」
……なんかぞっとする。
いつも手遅れになってから気づくのだ。
気を遣わせてしまった。また。
打ち合わせの最中、ちょっと変な空気になった……ところですぐ対応していればよかった。ダメージコントロールに失敗した。
技術用語を間違えたまま話し続けてしまった……
自分が若いころにも年長者がしたやつ。あれ。
若手のほうも、訂正せず、おれが口にしたとおりの言葉で打ち合わせのあいだじゅう通した。いちいち指摘しても角が立つだけだから、ここは合わせておこう……そう思っているのが手に取るようにわかった。昔のおれもしたことだから。
気づいたときにすぐ訂正、ができなかったことがショックだった。ハンドルを切れず壁に激突するみたいに。ハンドルの重さに愕然としたまま。
「おれの利益になることとしてさ……」
探査体の青いライトを見つめながら切り出す。
「いや、あくまでも仮定の話だけど、職場の人たちがおれのことをどう思ってるか、観測して教えてもらうわけにはいかないの?」
「できるけど、あなたは観測結果を受け取らないほうがいいよ。この社会の一般的な通念に照らして不当と思われる手段で情報を取得すると、最終的にあなたの社会的地位が不安定になる可能性が高いよ」
正論すぎる。
でも、それをいったら、おまえが「観測」すること自体の是非はどうなの?
「この探査体自体はこの社会の通念と無関係なので、とくに制限なく情報を取得するよ」
それ、ずるくない?
「この宇宙の外に持っていくだけだから、プライバシーの侵害にはならないよ。この宇宙の外には人類もプライバシーの概念も存在しないよ」
ああ、そう……
「フィクションから学ぶことには一定の効果があるかもしれないよ」
「ええ? 映画を見たりとか?」
「この探査体が観測したところによると、人間がフィクションを求める気持ちには、窃視の欲望が少なからず含まれているよ。フィクションには、現実には不可能な形で他者の生活や内面をつぶさに観察したいという欲求を、現実の人間を傷つけずに満たせる側面があるよ」
「言い方がなんか気持ち悪い……」
「いろいろなフィクションを観測したところによると、この探査体のような存在は、あなたのような孤独な存在に他者としての視点を提供して、よい変化をもたらすものだと考えられるよ。地球外の存在とか、日常の感覚から大きくかけ離れた存在であるほうが高い効果が見込まれるよ」
「フィクションいらないよ……現実しかいらん」
「フィクションも現実の一部だよ」
「ええ?」
「この探査体も現実の一部だよ。現実の外から来ているけど」
そもそも、孤独な存在ってなんなんだよ。べつに孤独じゃないし、孤独だったらだめなわけでもない。ひとりで暮らしてたら孤独だろうという決めつけがあまりにもステレオタイプすぎる。
そう、あまりにもステレオタイプなんだ。そんなところへ押し込められるいわれはない。
雑談が怖い。怖くなってしまった。
たとえば、エレベーター。
気まずいのは、とくにエレベーターが来るのを待つ時間。乗ってしまえばあとはたいした時間じゃない。ホールにたまたま自分ともうひとりしかいなくて、エレベーターがなかなか来ないという状況が一番つらい。若手たちが数人いるなら、そちらで楽しく談笑していてくれるから、こちらはほどほどににこやかに空気のふりをしてればいい。
きょうは本間さんとふたりになってしまった。
本間さん、眉間のあたりにキリッと厳しい印象があって、いつも気おくれしてしまう。
同年代なら気軽に話せるんだよねー、みたいなのも、まあ幻想ですよ。おれはもうよくわかってる。
と、本間さんが、
「小田さんの提案、よかったですよね」
こちらが必死で話題をさがしているあいだに、すっと出る。この呼吸。おれにはない。
「あっ、そうですね……」
「やっぱり、若い人は吸収が早いなって、うらやましくて」
そういって苦笑をうかべ、
「歳とると、つい自虐に走っちゃってよくないですね」
ひとつ息をつくと、腰のあたりから埃をはらうようなしぐさをして、背をのばした。
そうですね、自虐……
つい自虐を口にしてしまう。そして気を遣わせてしまう。
「そこを越えたらすごく楽になるよ」
十年後からのアドバイスだ。
利根山さんには、ふたつ前の勤め先ですごくお世話になった。いまもたまにこうして飲みに付き合ってくれて、つい漏らしてしまった悩みに、ちょうど十歳年上の立場から知恵をさずけてくれる。
昔、ウィスキーの広告に、おじさんのキャラクターがいたんだけど、知ってる?
当時はまだ広告会社に勤めてた、のちに芥川賞をとったりする、ある作家が広告のコピーを考えてて。
人間らしくやりたいな、っていうんだよ。
その広告のキャラクターがね。
人間なんだものな、って。
「『にんげんだもの』みたいな感じですか」
そうそう。まあ、ちょっと違うところはあるけど。
いまあのコピーのことを考えると、いまの自分たちは、昭和三十年代の日本の社会でああいうおじさんがいうような意味では、もう「人間」じゃないんだなって思うんだよね。
「ああ……」
ようするに、あのころのお酒の広告コピーでいうようなそれは、基本、男だけを想定していたわけでしょ。
一定の教養があり、酒とタバコをたしなみ、女の扱いを心得ている、みたいな。そういうことがまっとうな「人間」としてパスする条件であった時代だよね。ここでいう教養も、当時の男性のサークルのなかでのみ重要性を持つような知識のセットでさ。歴史とか古典とか多岐にわたりつつ、主体としての女性の存在とか女性の視点がごっそり欠落しているような……
「あー、はい」
その宣伝コピーを書いた作家は、世のいろんなことについて蘊蓄をかたるエッセイをたくさん残してるんだけど、女性について書くとどうも変になるっていうか、急に偏見まみれになって、落差にびっくりしちゃうんだよ。ほかのことも同じくらい間違ってるんじゃないかという気がしてくるくらいで。
「ああ、いかにも昭和の男性作家って感じですね……」
そうそう。だからさ……
ふむふむ、と拝聴しなきゃいけないこの時間はなんなのか。
いや、利根山さんの言ってることはわかる。そういう時代から見れば、おれだってそれなりに新しい価値観を持ってる。そうなんだけど……
自分より高齢の男性が得々と語ること自体に、なにか引っかかるものを感じなくもないんだよな。
この人はいま大学で教えたりしていて、本を出していて、人望がある。たぶん金もある。
おれがつまずくところで、この人はたぶんつまずかない。つまずかなかった。
「良くも悪くも、みんなそんなに他人のことを気にしてないからさ。くよくよしなくていいよ」
そういって利根山さんは笑った。
「はい……」
がんばって、と肩を叩かれて頭を下げた。
ありがたい。ありがとうございます。
「人と会うのはいいよね」
「疲れるよ。人と会うのは疲れる、と記録しといてよ」
「他者は異なる視点を提示してくれて、あなたの現実認識を拡大してくれるね」
「ああ、そうね……」
結果として劣等感を抱えるのはどうなんだ。
おれが悪いのか。
うまくやれてるやつの話を聞かされたって意味がない。
「あなたもうまくやれている群に属している可能性が高いよ」
気休めか。
「わずかに役に立つ可能性も考慮して、気休めをいってみたよ」
「ありがとう」
ある程度は、年齢なりに、うまくやれていると思っていた。でも、どうやら足りなかったんだよ。
なにが足りないんだろう。謙虚さだろうか。若さをなくして、身の程を知って、十分謙虚になったつもりだったのに。
人間らしく、か。
湯船のなかで考える。
利根山さんの話が頭のなかで反転する。おれのほうが、もはやいまの「人間」ではないってことなんだろうか。
あの人たちだけが「人間」なんだろうか。
「あなたも人間だよ」と声が飛んできた。
まあ、そうだよ。さすがに自分が人間じゃないとは思ってない。
利根山さんの話をもうひとつ思い出す。
人間を、光の帯だと思うんだ、といっていた。
ある小説に、そういう絵を描く画家が出てくる。極端に抽象化された絵で、単色で塗られたカンヴァスに一本、垂直な明るい色の帯がある。それが人間の精神、魂を表現したものだという。
利根山さんがいうに、むかしはピンとこなかったけれど、歳を取るとあの意味がわかるようになってきた、と。人間はみんな、輝く光の帯なんだということが。どんな人間でも。ひとりひとりみんな。
光の帯か……
そういう見方をできるのは「上級者」だという気がする。
自分が十年後にそういうふうに考えられている気がしない。
トイレに入り、スマホで画像を眺める。人の写っている写真。……人間。
人間には瞑想の時間が必要で、この種のプライバシーを破られると人間の精神は崩壊する、と脅して探査体には観測をやめさせているけど、こっそり観測されていそうな気はする。だが、人間じゃないものに観測されたところでなにが困るわけでもないだろ、と居直る気持ちにもなってきた。
人間じゃないものか、とすこし心に引っ掛かりが残る。
人間。
これって、まずなによりも、人間の体なんだ。
それは個人のもちものであって、被写体になっているこの個人が日常いつも使っている、生きることのすべてのために使っているもの。階段を上り下りしたり、棚から食器をとりだしたり、自動車を運転したりする。体とはそういうことをするためのものだし、呼吸や発声や食べ物の消化のためのものだ。カメラのまえでポーズをとるのは、仕事であり、人生のほんとうに短い時間のことでしかない。
いま、画面のなかにいる被写体は、対象物であるだけでなく、ひとりの人間だった。
そう考えても、べつに欲求を満たす妨げにはならないし、逆に欲求が強まるということもない。街の中でふと足や胸元に注意をひかれ、ひかれてしまう気まずさと、ひかれたことへのくやしさや腹立ちを覚える、そういった瞬間とは対極にあるような感覚だった
人間。
そこに人間がいる。
人間には体がある。
あたりまえのことなのに、いままで知らなかったかのような気持ちになる。
これも、ようするに老化による衰えなのだろうか。見ているのがたまたま静止画像だからそう思うんだろうか。
「瞑想は終わった?」
「うん」
……人間。
「人間っていいよね」
「どこがいいと思ってんの」
「クリシェ的なことを言ってみただけだから、気にしないで」
「なんなんだよ……」
人間って、いいな……?
いや、べつにいいも悪いもない。人間。
行き帰りの電車、つらい。
自分の体が、いやな声を出しているように思う。
職場でだって、自分が必死に喋るよりも雄弁に、大声で、自分の体がなにかいやなことを喋っているし、そっちのほうをみんなは聞いていて、自分だけそれを聞くことができない。そんなふうに感じずにいられない。
この体から逃げることができない。
「おかえり」
「……」
この体を黙らせたい。
「人間やめる?」
「やめない。絶対やめない。こっち見んな」
人間をやめたいんじゃないんだ。
無害になりたい。
というより、無害だとわかってもらいたい。
「あなたは無害じゃないよ」
「ありがと……えっなに?」
「あなたはいろいろな点で有害だよ」
「……地球環境に、とか?」
「半径数メートルの社会的に」
どんな根拠でそんなことを断言できんの?
「人間はみんな有害だよ」
「そんな一般化されても意味がない。個別の具体例として自分の有害さをどうしたらいいかなんだよ」
「一般化して個人の責任を減らすといいよ」
「それはずるいんじゃないの?」
「究極的には自由意志は存在しないから、個人に責任はないよ」
「そんな極端な世界で人間は暮らしてないんだよ……」
ああ、人間。社会。
「無害であることにこだわりすぎないほうが精神状態が向上するよ」
でも、せめて無害でもなかったら……
「観測によれば、あなたは、自分が有害であることを、正しくないことだと考えているよ」
そりゃそうだよ。
「そして、正しい側にいないことを、社会において低い地位に置かれることであると理解している可能性があるよ。そこにはヒエラルキー的な価値観があるよ」
「……」
うん。そう。そうだよ。
おれは負け犬になりたくない。
現実にはもう負け犬なのにな。
ひとつひとつ明け渡してきた、捨てさせられてきた、なくしてしまった。
無害であることだけが残された矜持だった。無害であるというセルフイメージにすがって崖っぷちに留まっていた。
「あなたの思考のフレームワークのなかでそういうふうに価値づけされているけれど、人間が使えるフレームワークはいろいろあるよ」
おれの思いこみだけじゃなくて、世の中が実際にそうなってるんだよ。おれはそのなかに埋め込まれてる。
「たしかにあなたは埋め込まれているけど、出るといいよ」
そういうことを、ほんとに軽くいうよな……
おもわず身を起こした。
午前四時。
「瞑想の必要性を感じたの?」
「ちがう」
わざわざ探査体に話す必要もないような気はするけれど、話す。
「おれはさ、人として謙虚でありたいと思っていて、その考えの大元には、無害でありたいという気持ちがあるんだよね」
「そうだね」
「でも、無害でありたいという気持ちの底には、負け犬になりたくないという気持ちがあって、そのせいで謙虚になれない。無意識にやらかしちゃう。間違いを認めることは、負けることだから。自分を低いところに置くことだから」
……だから、とっさにハンドルを切れなかった。
「そうである可能性が高いよ」
「本当にバカみたいだな」
「その可能性もあるよ」
ほんとうに。
若手たちはほんとに仲がいい。
だれかが冗談をいったのか、どっと沸いたところに近づいていくと、四人が一斉にこちらを向いて、どの顔にもたったいまの会話の楽しさが残っている。
それに乗せてもらうような気持ちで口を開く。
「あの、こないだ、用語まちがえちゃってて……」
いちばん近くの小田さんは、もうなんのことかわかったような顔だ。
こちらはもごもごと説明し、
「申し訳ない。気をつけます」と頭をさげた。
小田さんのこの顔は、なんだろう、ほっとした笑顔だと思えばいいのか。
「そうなんですね。教えてくださってありがとうございます」
「いやいや、ほんとごめんなさい」
あ、これはこれで気を遣わせることになっちゃってるな……
ああ……
……
まあ、いいか……
「この探査体はそろそろ次にいくよ」
「え、そう?」
探査体は、スマートスピーカーに擬態した姿のまま、空中に浮かんでいた。ほんのり発光している。
「べつの人間のところに行くってこと?」
「ううん、この宇宙からつぎの領域に行くよ。そこにはたぶん物質とかはないよ」
それって……
「もう三十七年経ったってこと?」
そんな、「今日が千年目でした」みたいな?
「この宇宙に物質というものがあることを知るのに三十五年、地球を認識するのに一年半、人間の観察を始めて約半年、インタラクトするのに数週間を要したよ。なんの手がかりもないまま通過してしまうこともあるから、今回は収穫が多かったよ。あなたというひとつの個体を観察することで、膨大なことを知るためのリファレンスを得たよ」
ああ、そう……それなら、まあ、よかった。
「最後に念のため確認するけど、人間やめる?」
「やめない」やめない。
「じゃあ、この探査体はこの宇宙を去るね」
スマートスピーカーが少しだけふくらんで、白く光る玉に変わった。
ふわふわ浮かんで窓のほうへ進むので、サッシを開けてやる。
ベランダを越えて出て行ったところで、ひとつ瞬いてから、まっすぐに上に飛びあがっていった。
この宇宙の外へ出ていくといったけれど、天に昇っていくような去りかただ。流れ星が真上に打ち上げられていくような。
小さくなっていきながら、光のかたまりは、光る輪をいくつか生んだ。
光る輪は、夜に散歩する犬がつけている首輪のように色とりどりの光をはなち、広がりながら落ちてきて、細かい光の粒にばらけて、おれのまわりに降りそそぐ。ひとつ、差し出した手のひらの上に落ちる。
きらきらと瞬いている。意外と長く。
そして唐突に消えた。
また見上げると、もう空にはなにもなかった。
いつもの朝、いつもの通勤列車。
窓のむこうを流れていく景色をながめる。
通過駅で待つたくさんの人を見る。
人間。
光の帯。
いや、違うな。
人間には体がある。そう思っていることもたぶん大事なんだと思う。
それぞれの体があって、それぞれの事情がある。
おれの心はこのおれの体のうえにしかないし、ほかの人もそう。
そこから出発するしかないんだという気がする。
人間。とにかく、人間なんだ。おれも、みんなも。それを本当にはわかっていなかったのかもしれない。
なにかの端をつかんだような気がしていた。
なにか、めまぐるしく動いて、輪郭のわからない、でも確かな実体をそなえているもの。
これを掴んでおくんだ。
利根山さんに説明したとして、わかってもらえるような気はしないな。
でも、おれにはこれが必要なんだろうと思う。
これだけ掴んでいればたぶん大丈夫。
いや、大丈夫なんてことはなにもない。それでも。
──人間っていいよね。
探査体の声がきこえた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます!」
◇
先行公開日:2025年2月22日
カバーデザイン:VGプラスデザイン部
「おじさん」特集 掲載作品
- ティファニー・シュエ「魚を釣るからそばにいて」
- 倉田タカシ「やめたくなって」
-友田とん「上映会のおじさんたち」 - 特集「おじさん」の趣旨
作品をより楽しみたい方は、小説に加えて、おじさんにまつわるコラムやブックレビューを収録した『Kaguya Planet No.5 おじさん』をお読みください。

倉田タカシ
倉田タカシ
1971年、埼玉県生まれ。2009年に文学フリマに出品した「紙片50」がその年の年間SF傑作選に収録されたことをきっかけに、『NOVA2』(河出文庫/2010年)に「夕暮にゆうくりなき声満ちて風」を寄稿しデビュー。『うなぎばか』(早川書房/2018年)で第1回細谷正充賞を受賞。
2023年には『すばる 2023年8月号』の特集:トランスジェンダーの物語に「パッチワークの群島」を寄稿。デビュー以来の短編をまとめた短編集『あなたは月面に倒れている』(東京創元社/2023年)には、一見荒唐無稽な設定やナンセンスな展開の中に切実さが滲む作品が多数収録されており、『SFが読みたい! 2024年版』(早川書房)の国内ランキングで5位を獲得した。