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サイレント・ヴァース

サイレント・ヴァース


あの夜のことならよく覚えている。

西の連中とのビーフはひっきりなしだったけど、はっきりと抗争に発展するような利害の衝突はなくて、この国じゃ銃弾ではなく、ささやかな感情のすれ違いやら、消耗品にもならない罵詈雑言が飛び交うだけ。いわゆるストリートのリアルとやらをラップしてのし上がったあの手の連中のうちじゃオレは飛び抜けて商才に長けていたし、ポリに捕まって箔をつけようなんて安いマインドとも無縁で──つまり賢く出し抜くことがガキの頃からすっかり身についてたから、危ない橋を渡ったふりをして別の橋を爆破することで、ヘッズどもの話題に事欠かないようにしてやったんだ。

そうさ。誰よりもそつなく立ち回ってきたはずだった

キャリアの絶頂ってやつに手がかかってたはずだった。

栄光への階段を上りつめる、そんな目と鼻の先じゃ、酒でもドラッグでもない強烈な何かが人を酔わせるもんだろ? きっとオレは距離感がバグってたんだろう。いかついヴィブラムソールのブーツは階段を踏み外した。あっけなくも滑稽に。

サードアルバムのセールスが10万ダウンロードを突破し、気の遠くなるような全国ツアーを完遂した晩にオレはそれまで築き上げてきたすべてを失ったんだ。祝杯を上げたあとオレは仲間たちとはぐれ、最後のツアー地だった沖縄の見知らぬ路地をひとり彷徨った。

生温い潮風が肩越しに吹き抜けた。

錆びた駐禁標識の一本足の根本にオレは何かを見つけた。

酔った眼を擦るまでもなくそいつの正体はわかった──ネズミの死骸だ。
「ざまあみろ、オレはそうならなかったぞ。オレはおまえじゃない」

愚かなことにオレは死んだ動物に死にかけていた昔の自分を投影し喚き散らした。

ひどく酔っぱらってたんだ。

さらに恫喝めいた暴言をたっぷり吐き出したとき、息絶えたかと見えたネズミがゆっくりと薄目を開いてこちらを見つめた。どちらにしろ瀕死だったから、遅かれ早かれくたばるはずだったけれど、オレはそのちっぽけなネズミの濁った眼に怯えた。

あんなに恐ろしかったことはねえかも。

いや、ずっとオレにつきまとっていた惨めに死ぬんじゃないかという恐怖が凝集したシンボルがあのネズミで、だからオレは、オレは──そのときだった。
「あッああッ? な?」

喉に違和感が走った。痛みと痒みと熱のぴったり中間みたいな。

なんだ? 何が起きたんだ?
「ノイズ・カルトに粉かけんじゃねえ、おまえらは本物じゃねえ、フェイクだ」

イヤーマフ付きのキャップとマスク、それにサングラスで顔を隠した男が、捨て台詞とともに走り去る。オレはそいつのパーカーのフードを引っ掴むが強引に振り払われた。

おい、待てよ、忘れ物だぞ。オレの喉におまえの──何だろう?

喉のあたりに手をやると覚えのある形状と血のぬめりに触れた。

鋏の柄だった。大きさからすると布切り用の大ぶりの鋏だろう。シングルマザーだった母親が洋裁の内職をしていたからよく知ってる。知ってるぞ、と血と一緒に言葉を吐き出しながら、オレはネズミの隣にうずくまった。ネズミは薄目を開けたまま今度こそ息絶えていて、血でベトついたオレもそれに続くべきだったかもしれない。

やがてオレを探しにきた仲間たちが、小動物の屍骸を守るように手の平に包んだオレの姿を見つけたそうだ。救急車に付き添ってくれたのはトラックメーカーのFRAKTALØ(フラクタルオー)だ。オレは本名でアラタって呼んでる。仲間たちはオレの喉を刺した相手を血眼になって探すつもりだろう。きっと無駄だよ。あのネズミ(、、、)は逃げおおせるだろう。少なくとも今夜だけは。
「大丈夫だ、心配ない、ジオ」

涙ぐみながら必死に呼びかけるアラタのこんな面は、何十年も腐れ縁だってのに見たことがない。誰かこいつを撮ってインスタにアップしろよ。ほら、バズらせろよ。

救急隊員は止血と気道確保とにてんてこ舞いだ。鋏は抜いちゃダメなんだろ?
「ジオ、喋るな、もう喋ろうとしなくていい」

ああ、そうだった。おれの名前はGEOMETRIQ 1/4(ジオメトリック・クォーター)刻吟(コーギー)のそこそこイケてるラッパーだ。

今夜だって最高のステージをぶちかましてきた。

これからだって──絶対に。
「もう喋るな。いいから、頼むから」

ああ、わかったよ。

他でもないアラタの頼みだったから、それからオレは喋るのをやめたんだ。



 
「リハビリである程度回復する可能性はありますし、人工声帯という手もありますが、どちらにしろ以前のような複雑な発声は望めないでしょう。ラップというとあの早口でペラペラまくし立てるアレですか? はぁ、ちょっとそれは、ねえ」

ふざけたことばかりほざく沖縄の医者に見切りをつけて、横浜の専門医にかかったが、どっちみち診断は似たり寄ったり。どんだけ長ったらしく釈明しようが、つまるところ絶望を言い換えた長台詞のバリーションだ。声帯をひどく損傷したオレにはもうラップは無理。韻を踏むどころかしりとりだってできやしない。クソ寒いダジャレだって、この身の上じゃ手の届かない贅沢品になっちまった。

オレというラッパーの価値はブラックマンデーばりに下落した。

アホな仲間どもは、どうしてあの夜ひとりになったりしたんだといまさらながらに問い詰めるが、答えは「おまえらのバカ面に飽き飽きしたからだ」とか「鋏でズタズタにされたいくらいいい夜だったからだ」とか、いずれにしろ穏当な返事はできそうになかった。

もともとオレら刻吟(コーギー)にはMCがぞろぞろ居る。

オレひとり抜けたからって支障はないはずだ。

みんな動揺を隠せてなかったが、どのみち受け入れるしかない。中学の頃に組んだクルーが、いい歳していつまでも一緒ってのが、むしろ不自然なんだ。ここらでルート分岐発生。ジオの悲劇と脱退を乗り越え、スリム化してなお大人気ラップグループ刻吟はますます攻めの姿勢を崩さず、シーズン2に突入ってことでいいだろ?

伝説は終わらないぜ──たとえオレ抜きでも。
「犯人が捕まったみたいだ、ジオ」

病室に駆け込んできたのは耳たぶの欠けた巨漢アイだ。3MCで構成されるオレたち刻吟のラッパーのひとり──KOMPLEXX(コンプレックス) i(アイ)──アイは虚数単位のiから来ている。義務教育もろくすっぽ受けていないオレたちは劣等感(コンプレックス)の裏返しでクルーの名前を数学っぽく統一したんだ。バカみたいだろ。
「いや、まだ容疑者か。十六歳。ノイズ・カルトのヘッズだったよ」

──そうか、とオレは子供用のマグネットお絵描きボードに文字を綴る。

いろいろ試したが、筆談にはこれがぴったりだった。
「オレらとノイズのビーフを真に受けちゃったんだよ」

刻吟とノイズ・カルトとの対立は半ば仕組まれたものだった。界隈を盛り上げるための話題作りの一環。本気でいがみ合っちゃいない。しかし狂信者めいたファンはオレたちを敵だと認識し、暴挙に及んだ。自業自得。バカげた演出をでっちあげたオレが悪い。
「きっちりカタをつけるっしょ?」

──そいつには知恵の輪とダイスのタトゥーがあった。
「本当に見たのか? でもあいつはもう……」

あの夜、襲撃者の首元を確かに見たんだ。

知恵の輪と骰子のデザイン。オレは警察の事情聴取でもそのことを話さなかった。オレの知ってるあのタトゥーの持ち主はもうこの世にはいない。それに見通しのよくない夜の裏通りのことだ。見間違えだってことも考えられる。

やはりオレたちを敵視する行き過ぎたヘッズの仕業なんだろう。
「そのガキが未成年で罪に問われなかったとしても、やられっぱなしじゃ具合悪いだろ。大人がきっちりシメてやんねーとよ」

──間違いない、とオレは書いた。

本心じゃガキなんかにヤキ入れてどうなるってんだと思った。

奪われた声は戻ってこない。とはいえ、そいつをかばいだてする義理もない。仲間たちの気が済むなら煮るなり焼くなり好きにしたらいい。オレは悪ぶった虚勢のリリックを繰り出すジオでいられるのか? ストリートのリアルが行きついた先は、非現実的なほどに真っ白な集中治療室だった。これから稼ぐはずだった金は宙にかき消えた。転がすはずだったベントレーも、ヒアルロン酸で膨れた女たちの唇も全部沖縄の裏路地の排水溝を流れてったんだ。借り押さえしてた未来を取り戻す? バカ笑える、どうやって?
「殺したって飽きたらねえぞ」

と、いきり立つアイにオレは頷いて見せた。

好戦的な人間を演じ続けるのは肩が凝る。

わからなくなる。もともとオレは……オレはどんな人間だったんだ?

鏡の中のオレは無精ひげのむさくるしい三十四歳の男だ。十代のシザーハンズに穿たれた喉の穴はガーゼで覆われて、まだご対面は叶っていないが、どうせ傷痕はジジイのアナルみたいにシワシワだろう。
「おまえはまだ終わりじゃねえ。仕事だって抜けさせねえぞ。おまえがリーダーなんだかよ、ラップは無理くてもさ、手がありゃリリック書けんだろ」

これからのことなんて考えられない。一秒先だって見えねえ。

とにかく今は静かにしていたいのだとアイに伝えたかったが、リリック以外で文字を書くのはひどく疲れる。
「ぼちぼち退院だろ、どっかみんなで遊びに行こうぜ。身体を治して、まずはそれからだ」

海か川がいい、とオレは思った。

子供の頃、よく仲間たちと釣りに行ったものだ。ラップなんかせずに釣りをしていたらよかったのに。泥臭い雷魚を釣る。決まりだ。

アイと入れ替わりにナースが検温にやってくる。
「調子はどうですか?」

オレは頷きながら、首のガーゼを指差した。
「まだ先生の許可がないと取っちゃダメですよ。痒いんです?」

傷口が見たいのだと伝えたかったが、鏡を使わないと見ることはできない位置のそれを直視すんのはやっぱビビる。ガーゼなら何度も取り換えているのに、まだ頼んだことはなかった。ためらいブルったあげく、もういいよ、とオレはジェスチャーで示した。
「きっとそんなに目立たないですよ、傷口」とナースはぶっきらぼうに言った。「ああ、榊さん、明日退院なんで荷物まとめておきましょう」

わかった、と本名を呼ばれたオレは視線で応じる。

用事が終わってもナースが出ていかないので、オレは不審に思った。
「ええと、こんなことになってしまって、もうラップはできないかもしれなくて、だからわざわざ言うべきじゃないかもって思ってたんですけど、ボク、刻吟のファンなんです。これからも応援してますなんて残酷かもしれないけど、でもやっぱりずっと応援してます……ジオさんの曲に何度も救われたんで」

サインを要求されなかったことにオレはホッとした。

驚きもあった。オレらのライブにやってくるファンのタイプとはちょっと違っていたからだ。どうやらオレらの活動も裾野を広げつつあったらしい。こんなにも控え目な好青年が聴いてくれてるなんてな。ファンだってんなら早く言ってくれよ、でも、やっぱりこれからなんて存在しねえ。オレは過去の栄光をしゃぶって過ごすだけの誰よりもダサいネズミ以下の男になって無様に生きるんだ、いや、本当に生きんのか?

──刻吟、ジオ、ラップ、夢、ゴールド、BPM、未来、セルアウト、ルーツ、仲間、プロップス、刺傷、ミュート、沈黙、死。

マグネットお絵描きボードは、思いつくまま書き殴ったワードで溢れ返る。

ボードが陳腐な文字でいっぱいになると、ツマミをスライドさせて一気にすべてを消そうと思ったけれど、酷使し過ぎて壊れたのか、そもそも安物だったのか、途中で引っ掛かってそれ以上ツマミは動かなくなった。オレは苦笑した。

消しそびれた文字は、ミュート、沈黙、死。



オレを刺したヘッズは駆け出しのラッパーでもあるらしい。

──MC MUTE

饒舌であるべきラッパーが「無音(ミュート)」とは気が利いている。

取り調べにも「黙秘(ミュート)」を貫いているのだというのがキナ臭い。あのガキの背後に誰かがいるのかもしれない。オレをこんなふうにしろとけしかけたヤツが。

ところで病院に居たはずのオレはいま留置場にぶちこまれてる。

おぼけとけ、人生の場景転換ってのはレーサーのギアチェンジよかスムーズなんだ。

釣り三昧の予定が、大麻の不法所持で引っ張られた。こんなありがちなやらかしはしでかすまいと気を張ってたつもりだったが、強制ミュートされたストレスからは逃れられなかったみたいで、さして上等でもないウィードをポンプでブクブク、アヘ顔吸引してたクラブのVIPルールにお巡りさんがドタドタ雪崩れ込んできた。
お勤めご苦労さんです、なんてオレはハイになって手を振ったんだ。

お野菜に含まれるTHCだかCBDだかには鎮痛効果があって、すでに完治しているはずの首の傷が疼痛を発するときには重宝した。初犯だから不起訴か執行猶予がつくはずだったが、有名人だと世間への見せしめに拘留期間が長引く場合もあった。

つまりオレは現在進行形で落ち目ってる最中ってこと。

絶望の底は二重になってて、踏み抜いたと思ってもまだ底があるっていうだろ?

それは違う。底はミルフィーユ状の生地になってて、サクサクした踏み応えでオレたちはどこまでも落っこちていける。声を出せないオレは留置場で下らないコネクションを作らなくて済んだ。ベラベラとお喋り好きの特殊詐欺の下っ端や下着泥棒と仲良くなったところで面白いわけでもなさそうだしな。

二週間目にようやく留置場を出たオレをD-VYDE(ディバイド)が迎えに来てくれた。

こいつの本名はユージ。中学で出会った他のメンバーと違って、ドブ川で釣れるすっぽんによく似たユージとは高校で出会った。親譲りのレコードをたくさん持ってたから、高卒で溶接工になるところを口車に乗せてDJに仕立てたんだ。金属をくっつけるより音を溶接する方が向いてそうだったから。なのに、DJネームは「割り算(ディバイド)
「ジオさんがぶちこまれてる間にオレらは新技を開発してたんすよ、ほら!」

十代の頃から変わらない無防備な笑顔に意味不明なジェスチャーを交えながらユージは言った。オレは首を傾げた。なんだよ、あぶねえだろ、ちゃんと前見てハンドル握っとけよ。思ったそばから、ユージのハイラックスは危うく目の前の霊柩車に追突しかける。

急ブレーキでガクンと首が前へと折れた。
「ジオさんも刻吟を抜けるなんて言っちゃダメっすよ。たとえステージでパフォーマンスできなくても、ジオさんはとっかえの利かねえピースなんすから」

オレはユージのストレートな物言いが嫌いじゃなかったが、こいつの危なっかしい運転は苦手だ。そのうち道路を横断するヌーの群れに突っ込むだろう。

いつものたまり場である地元のお好み焼き屋でクリームソーダを注文した。

クリームをストローで突き崩しながら、他のメンバーの到着を待つ。
「お勤めごくろうちゃん」とFRAKTAL Øことアラタが暖簾をくぐりながら言った。
「元気そうだな」長身のRADYKAL √2(ラディカル・ツー)がふわりと片手を挙げた。

メンバーたちはオレの知らない謎のハンドサインを交わしながら目配せをした。

さっきからなんだってんだ? 業界の一過性の流行か?
「サプライズはまだあるっす」とユージが言った。

すると、スタッフがケーキを運んできた。
「ハッピーバースデー、ジオ」

どうやら留置場の中で誕生日を迎えていたらしい。まったく幸先がいいぜ。

オレはむっつりとロウソクの火を拭き消した。メンバーはまたよくわからない手振りをこれ見よがしに繰り返す。こうなってくると新手のイジメかもしれない。
「さっきからそれなんだよ」とオレは聞いた。
「ユージが説明しなかったか? 市民センターで習ってんだ」

いたずらっぽくアラタが言った。
「ちょっとオレらなりにアレンジしてっけどな」

だからなんだってんだよ。はっきり言え。オレは眉をひそめた。
「わかんねえっすか? 手話っすよ。まだ挨拶程度なんすけど、なかなか悪くないっすよ。ジオさんも覚えたらさ、いままで通りサムいギャグとかかませるでしょう?」

手話だって、どういうことだ? わざわざオレと喋るためだけにそいつを齧ってるってことか? 哀れみか同情か知れねえが、余計なお世話だった。

やめろ、んな気休め。誰がやるかよ。

耳も聴こえる口も聞けるガラの悪そうな連中が大挙して手話の授業を受けているなんてシュールな光景だ。冷やかしどころかもう恐喝。オレは聴覚に障害はねえわけで、他者の話を聴き取る分には不便はない。よくわからないが、オレのような発話に不具合のある人間も手話を学ぶもんなのか? オレはメモ書きやスマホのテキスト機能やお気に入りのボードでコミュニケーションを取ってきたし、ずっとそうするつもりだった。
「ジオ、文字をいちいち書いて暮らしてくつもりか。仲間ってのは阿吽の呼吸が大切だろ? 長年培ったタイミングとスピード、コール・アンド・レスポンス。ツッコんだり、切り返したり、スカしたり、それができなきゃバカ詰まんねえ。だったらオレらが互いに手話を理解してりゃ、リアタイでベシャれんだろ。中学んときのマラソン大会みてえにおまえを周回遅れにゃさせねえよ」
「たかが200そこら単語を覚えたくらいで何威張ってんだアラタ」とアイが煽った。「おう、こっちはとっくに300語超えてんだ。いまや名詞だけじゃねえ、ロールシフトという新天地に上陸したぜ、偉大なるはじめの一歩、デンプシーロールだ」

ロールシフト? それって手話の用語か?
「抜け駆けっすよ、ズルいっす」と言った拍子にユージはビールをこぼす。

黙って聞いてりゃ──黙ってるしかねえわけだけど──勝手に話を進めやがって。

誰がそんなもんやるっつったよ?
「そこで、もうひとつプレゼントがある。ある人を紹介しよう。オレらの師匠にして最強のネイディブ・サイナーにして才色兼備の手話通訳、雪見先生だ!」

ずーと気になっていた。バースデーのオレを差し置いてお誕生日席に陣取ってる女子が居たからだ。チャラいアラタの新しい彼女かなんかだとばかり思っていたが、どうやらこれが雪見先生らしい。大ジョッキのビールをグイと飲み干すと彼女は口を開いた。
「わたしの名前は雪見だいふくの雪見と書きます。こんがり小麦肌のわたしが雪見なんて名前なのは親の神経を疑うぜ、なんて言いたそうな顔してるねジオメトリック」

ブルブルとオレは首を振った。癖のあるうちのメンバーが崇拝の眼差しと一緒にビールを注いでいるところを見ると、なかなか気合いの入ったお姉さんなんだろうと察するが、とにかくすべてが急展開過ぎてオレは目を白黒させるばかりだ。
「こいつらがうちの教室に乗り込んできたときは、冷やかしどころか恐喝かって思ったよね」と雪見先生は言った。「いや、襲撃かもってさ」
「雪見先生はさ、通訳だけじゃなくて手話教室の手伝いもしてんだ」とアラタ。

しかし手話ってのは、誰が学んでもいいものなのか?

オレの疑問を察した雪見先生はあっけらかんと、もちろんと頷いた。
「手話は障害のある人やその家族だけのものじゃない。日本で最初期の手話サークルにはね、当時地方から就職のため上京したのに方言のせいでバカにされて孤立した聴者も加わっていたんだ。そこでなら訛を気にせず、対等なコミュニケーションができた。手話は世間にキャンセルされた人間をつなぐツールなの。だからBボーイだってなんだって大歓迎。それに蓋を開けてみりゃ、こいつらバカなりに真剣で、聞けばあんたのために手話を学んでるって言うじゃないの。近頃のチンピラには珍しい見上げた友情じゃんか。わたしは涙したね、うん。ってことで、かわいい生徒のたっての頼みでもあることだし、ネイティブのわたしがひと肌脱いでやろうってことになったわけ」
「ネイティブ・サイナーってのは手話のある環境で生まれ育って母国語みたく使える人のことっス」ユージが知ったかぶった合いの手を入れた。

雪見先生は深々と頷きながら、イカ玉にソースをぶちまける。
「耳の聴こえないろう者の両親のもとに育ったわたしは日本語より先に手話を身に着けたってわけ。一口に手話って言っても、国ごとに体系が異なるし、日本手話、それに日本語対応手話ってのもあってややこしいんだけど、おいおいそのあたりのことは勉強したらいい。うまく活用すればラップ表現の幅になるかもだし」

なんだってラップ? 話の流れが見えない。

どうして手話がラップの話になるんだ? 最高に雲行きが怪しいぞ。
「なぁに鳩が豆に撃ち殺されたみたいな顔してんのよ。“むさぼれ吸血鬼どもオレの大動脈流れるリリック、切れば吹き出す深紅のブラッド・ミュージック”なんて歌ってたじゃん。あんたは生まれついてのラッパーなんでしょ? 他にマシなことできんの?」

いや、ない。実は雷魚だって釣れたことはなかったんだ。

でもミュートのヤツに刺されたとき、血管の内側を流れるリリックがみんな流れ出しちまった気がしたのも確かだ。オレはガス欠でエンストしてる。
「雪見先生、いくら先生だって、言っていいことと悪いことがある。ちゃんと説明しただろ? こいつは話せないんだ。もうラップは……」とアラタが口籠った。

気まずい沈黙の中、ジュージューとお好み焼きの焦げる音だけが取り残される。
「んなことはわかってる」と雪見先生はコテを振り上げた。「でもさ、誰が決めたの?」
「ほへ、あっつ!」空気の読めないユージが押し込んだ豚肉の熱さに呻き、ついで焼けた鉄板に手をついてしまい、八つ裂きにされたカラスみたいに悲鳴をブーストさせる。

でも、オレにはユージのドタバタは目に映っていなかった。

拭き消したはずのロウソクにもう一度火が灯るような錯覚に震えていたから。

雪見先生は、お好み焼の刺さったコテをマイクにして、はっきりと繰り返した。
「手話でラップができないなんて、ねえ、誰が決めたの?」



〈続〉

十三不塔

十三不塔著者

    2020年『ヴィンダウス・エンジン』にて第8回ハヤカワSFコンテスト優秀賞を受賞。近著に、『氷鉄のフロンティア ~転生ロボット工学者、ゴーレム直してたら技術革命起こしちゃった~』や軌道エレベーター上で開催される恋愛リアリティ番組とその背後の極秘計画をめぐる『ラブ・アセンション』などがある。井上彼方編『SFアンソロジー 新月/朧木果樹園の軌跡』、日本SF作家クラブ編『AIとSF』、大恵和実・藤吉亮平編『宇宙大将軍侯景SFアンソロジー 梁は燃えているか』などにSF短編小説を寄稿。専門学校講師で、芝居やラジオドラマなどの執筆もしている。