サイレント・ヴァース Ⅱ
4
それからというものアイの実家の寺でオレはトレーニングに勤しんだ。
世間的にはオレは終わったラッパーだ。声を失った矢先にドラッグで逮捕されちまったからなけなしの同情も吹き飛んで、このまま忘れ去られていくはずだった。業界の移り変わりは早い。明日にだってもっとリアルでドープなラッパーが、オレが取り逃がした金と名声を鷲掴みにするだろう。オレはひどく焦っていたが、同時に諦めてもいた。それに手話の訓練は生易しいものじゃなくて、とっくにオレの心は折れかけていた。手話の動作と日本語のワードが直観的に結びつかないのだ。
「ケンジ、本堂の掃除もやっとけよ、タダ飯食わせてやってんだからな」
手鏡をかざしたアイの親父はスキンヘッドに剃り残しがないかチェックに余念がない。
僧侶ネームを「慶雲」という生臭坊主は素行不良のガキどもを更生させる事業をやっていて、ガキの頃、オレたちメンバーはみんなここに放り込まれて意気投合したんだ。だからみんな出身地は微妙に違っててレペゼンしようにも共通の地元はなかった。
強いて言うならレペゼン徳安寺か。クソダサい。
「畜生、うちもペット供養やっとけばよかったな、知ってるか、アレは儲かるんだ。カッコつけてガキの更生なんて乗り出したばっかりに息子はラップなんかにうつつを抜かす始末」
今日は法事もねえから昼キャバに行ってくるからな、と臆面もなく言い置いて、袈裟のままホンダジムニーで街へ繰り出していく。お気に入りのキャバ嬢のペットが死んで、何十万もかけて納骨供養したという話を聞きつけたアイの親父は、ビジネスチャンスを逃したことに腹を立てていた。貧乏人を供養するより金持ちのペットだぞ。有名弁護士の嫁が可愛がっていたモモンガが死んだあといくらに化けたと思う?
「よぉ、やってるか?」
オレが本尊の阿弥陀仏にせっせとハタキをかけているとき、アイが顔を出した。
ぼちぼちだよ、という意図を込めてオレは顎をしゃくった。
手こずっている手話の習得を投げ出さないでいられるのは、仲間たちがへこたれないからだった。アイがこの寺でオレを寝起きさせるのは、またドラッグに手を出さないか見張るためだろうが、もう子供じゃないんだ。好きに転落させてくれよ。
──どうしてそんなにオレに構うんだ?
オレは手話でそう示そうと努力してみる。慣れないぶん、声で意味を伝えるより、ずっととっ散らかって、ぎこちなくなったけど、だとしても諦める気にはなれなかった。
たとえばこんな感じだ。
相手を指差し、眉をひそめる(おまえ)。自分を指す(オレ)。
親指と人差し指を立てた「L」の形を横に向け、手首を半回転させながら水平に移動させたのち(色々)、両手を向かい合わせ、器を持つような形で交互に前後に揺らす(世話)。
さらに右手の指を軽く開いた状態で手のひらを左に向け、後ろから前へ強く振る(やり過ぎ)。片手の人差し指を立てて軽く下へ向け、後ろから前へ動かす(なぜ?)。
直訳すれば『おまえがオレにいろいろ世話をし過ぎるのはなぜ?』といった具合だろう。疑問形は眉を上げて表現する。手話といっても手の動作だけじゃない、表情や視線、首の角度、すべてが重要なニュアンスを生成する。
「そんなこともわかってねーのか、手のつけられねえガキだったオレらは、おまえのおかげで音楽なんぞで食っていけるようになったんだろ。面白そうなことの言い出しっぺはいつもおまえだったろ? ひでー目に遭ったことのが多かったけどな」
アイは台詞の後半を手話で語ると、呆れたように笑った。
──そうだったっけ?
右手で同じ側の肩を後ろへ軽く払うと、他の指を握った状態で人差し指を立て「何?」と問うように前へ出して首をかしげる 過去、事実、確認。覚えた手話単語を拙いなりにおずおずと繰り出していく。スムーズとは言い難いが、新しい言語が伝わるという喜びは新鮮だった。
「無責任なヤツだぜ」とアイはかぶりを振った。
「なに、けっこううまくなってるじゃない。さすがセンスあるんじゃない?」
振り向くとウータン・クランのヴィンテージシャツを着た雪見先生が履物を脱ぎながら本堂に上がるところだった。オレのリリックを知っていたことからわかるとおり、ヒップホップには一家言ありそうだ。
──お世辞はやめてくれ。
「お世辞なんて言わない。ラッパーは言葉だけじゃなく、ステージ上でさまざまな身振りやハンドサインを加えるでしょ? 身体で表現することには慣れてるんだろうね。まだぎこちないけれど手話はそのうちあんたの肉声になる。自信持ちなさい。さ、宿題だった指文字は覚えたでしょうね?」
指文字ってのは、五十音一文字ずつに手の形をあてはめたものだ。
単語単位ではなく、一字ごとに言葉を表現するときに使う。
これは、ひとつひとつ地道に記憶するしかなく、オレにとってはもどかしい苦行となっていた。まださ行までしか覚えてない。
オレの辛苦を労わるように雪見先生が言った。
「ほら、見なよ、仏さんだって手話をしてる」
その視線の先には、年季の入った阿弥陀如来が立っている。
上下に差し分けた両掌をこちらに向けて、もう百年も微笑を湛えている。
「右手の施無畏印は何も怖れることはないのだというメッセージ、左手の与願印は人々の願いを聞き届けるというアティチュードの表明なの」
「すげー雪見先生、ラップだけじゃなく仏教にも詳しいんだな」とアイが驚く。
「わたし仏女なのよ、こう見えて休日にはひとりで寺巡りよ。ひとりで、ひとりで」
御朱印帳はもう十冊目、彼氏いない歴も十年目、と雪見先生は遠い目で言った。確かに仏像は何かしらの手の形をキメている。陰陽師や忍者だって術を使うときに印を組むしな。
「指文字だって印みたいでカッコいいと思えばモチベも湧いてくるもんよ」
オーライ、仏は強そうだ。パンチパーマもドープだし。
生来お調子者のオレはこうしてやる気を漲らせる。
「さて」と雪見先生は一息つくと、眼を輝かせて切り出した。
「わかってる。交換条件だろ。オレらを特訓する代わりにあんたが要求したもの」
アイもまた仁王みたいな面構えになった。
なんだろう、オレが言うのもなんだが、イリーガルな取引をするんじゃないだろうな。
「ついてこいよ。親父のいねえいまがチャンスだ」
オレと雪見先生はアイの促すままに本尊の裏手に入っていった。
灯台下暗し、アイのヤツ、本尊の裏側に極上のウィードを隠してるとか?
「これだ」とアイの示したものはちっぽけな箱だった。「十年にいっぺんしか御開帳しない当寺の秘仏、十一面観音菩薩がこの厨子の中に入ってる」
「やった! ずっとずっとこれが見たかったの!」
雪見先生は灯火に照らされた薄暗いスペースで小躍りした。
本当に仏像が好きなんだな、とオレは思った。
アキの説明によると、鎌倉時代から伝わる貴重なもので、数々のご利益があるという。
「さあ、目ん玉見開いて拝めや!」
威勢のよさとは裏腹にしずしずとアキは観音開きの扉を開けた。
「すげーたくさん顔がある!」とオレは言った。
まあ十一面観音だからそりゃそうか。神々しい仏像を期待していたけれど、現れたのは、小さくみすぼらしい木像だった。
「はぁ、なんて素晴らしいの! 素朴で趣があって、とてもやわらかで神々しいお顔をしてらっしゃるわ! さすが超秘仏!」
うっとりと伏し拝む雪見先生を見習ってオレも手を合わせた。
ガキの頃、アイの親父に無理やりやらされて以来仏像に頭を垂れたことなんてなかったが、いまなら素直に身を屈することができた。自分のために祈る気になれなかったオレは雪見先生にハイスペックな恋人ができますように、と祈ることにした。
「裏側も見てみろ。十一面菩薩のパンチラインはこっちだ」
アキは無造作に秘仏を背中向きに回転させる。後頭部にはおよそ菩薩にふさわしくない歯をむき出しにした悪そうな顔があった。「こいつは暴悪大笑面っていうんだぜ。悪を暴く笑いだ。迫力あるだろ? 慈悲深き仏のイルネスさ。右手には滅罪の印を掲げてる。うちの親父はこいつを見て、悪ガキを預かって更生させる事業を思いついたんだと。複雑な事情で心がささくれた思春期のガキはみんな笑うことを忘れちまってるからってな」
虚心になって仏像を眺め直してみると、事件以来忘れていた笑みが、ゆっくりと強張った顔の筋肉を緩めていく。神経性のものだと診断され、ドラッグに逃げるほど悩まされていた喉の疼痛が拭い去られるように消えた。
「どうしたの? ジオ、あんた笑いながら泣いてるじゃん、キモ」
──なんでもない、とオレは首を振った。
不思議なものだ。誰かのために祈ったのに自分が癒されるなんて。
もうひとつわかったことがある。平気なフリをしていたけれど、オレはあの夜の出来事が物凄く怖かったんだ。ビビってブルってた。考えてみれば、当たり前だが、いきなり喉を刺されるなんて経験は心に大きなトラウマを残す。それが恐ろしくたまらないという事実を認めようとしなかったことが、喉の疼痛という症状として発現したのかもしれない。しかし相手が仏像なら虚勢を張らなくて済む。この恐れを受け止めてくれる気がする。
雪見先生はオレの涙を手話学習の苦悩と勘違いしたようだ。
「あなたがこれまで繰り出してきたラップみたいにスムーズにいかないのはわかる。あなたは自分の声を手足のように操ってきたけど、手話を声として扱うのは一筋縄じゃいかないわよね。外国語と同じよ。はじめは頭の中で母国語に訳しながら考えたり話したりするけれど、いつの日かそれがダイレクトに理解できるようになるでしょ?」
──わかんねーよ。オレは日本語しかできやしないから。
「わたしが手話でラップをしたらと提案したことは安易な思いつきなんかじゃないの。音声語でないものをラップと呼べるのかって問題は定義としてあるでしょう。でもね、手話がラップにならないと決めつけるのは、手話を軽んじていることでもある。手話はね、内部に規則的な構造を持つ記号体系、つまりれっきとした言語なのよ。さまざまなニュアンスや多義性を宿している。ろう者が意志疎通のためにおっかなびっくりでっちあげた間に合わせのジェスチャーなんかじゃない。だから簡単に諦めないで欲しいの。あなたはコトバの天才、そしてわたしはラップをリスペクトしてる。ラップは音声語を超えて拡張する可能性を秘めている──ジオメトリック1/4によって」
厨子が閉じられると、本堂の表にがやがやと人の気配がした。
参拝客に似つかわしくないガサツな声は刻吟の連中だろう。
「さ、ギットギトに脂ぎってる君たちの心が洗われたところで、特訓を再開するよ!」
仏が憐れむほど、めちゃくちゃしごかれた。
でも、ヘトヘトになるまで練習したのに、この日は夜になってもうずうずとエネルギーがオレの中で渦を巻いておさまらなかった。この感覚は久しぶりだ。沖縄の夜に血といっしょに流れ出ていったはずの言葉たちが立ち騒ぐ。風呂上りに安徳寺の裏手にあるクソ不気味な墓場でタブレットを開くと、オレははじめて手話で歌うための新しい曲を書き上げたんだ。
タイトルは──暴悪 大笑面。
5
「いいか、微細なドローンが隊列を変形させながら空中でジオの手話を光の字幕にする。ジオの手に設置したセンサーによってこいつらは動く。これで声はなくともジオのリリックを客に伝えられるだろう」
アラタが大枚をはたいてプログラムさせたドローンサイネージはオレのもうひとつの声だ。ステージに復帰するならオレの手話のムーヴに即応しつつ、日本語に翻訳して表示させるツールが必要だった。ただし、あくまでオレの手話ラップがメインだから、ドローン文字が悪目立ちしないように調節しなくちゃいけない。プロジェクションマッピングやホログラムなんかもアイデアに上がったが、もっとオレの身体と直結するような仕掛けにこだわったんだ。この方式では、オレが手話をしくじれば、ドローンの文字も乱れてしまう。
「ツアーのアガリが吹っ飛んだぜ、まったく」とアラタがぼやく。
「親父を説き伏せて寺フェスすんのだって骨が折れた」アイもまたぼやく。「新しい檀家と参拝客を獲得するには若者にリーチしなきゃだぜって見栄を切ってやったから絶対に成功させねーとな」
「それよか聞きました? ジオさんを刺したあのミュートってガキは証拠不十分で放免になって、のうのうとラップしてるんですって。しかも取り調べでは黙秘を貫いてたくせにいまになってジオメトリックを仕留めたのはオレだなんて吹いてるみたいで、ふざけやがって」
ユージが憤懣やるかたない感じで耳障りな報告をする。
──やめとけ。待ってろ、ちゃんとぶっ飛ばしてやる。本番前に気を散らすな。
と、オレは言ったつもりだったが、テスト中のドローンたちは次のように表示された。
──お待ちなさい。きちんと成敗致しましょう。大事を成す前に心乱すべからず。
なんだよこれ? カタいし古臭い。それに手話と文字構築のタイムラグが気になる。もっと調整すれば実戦で使い物になるのか? ちょっと心配だったが、使い心地はガンダムのファンネルみたいで悪くない。見てやがれ、ミュート。ヤツが静寂の宇宙にオレを埋葬したと信じているなら、それは間違いだってことを思い知らせてやるだけだ。
「でも、あいつの回りの連中もそれを持て囃してやがるらしいっすよ。一言言ってくれりゃオレが全員まとめてぶっ刺してきますよ」
いいから、やめとけ、とオレは繰り返す。
それにユージ、おまえのニュースはフレッシュじゃねえ。あの夜の襲撃の一部始終を捉えていたカメラの映像が見つかったから、もう証拠不十分なんかじゃない。通りに路上駐車してイチャついていたカップルのドライブレコーダーにミュートがオレに手をかける瞬間が、おぼろげながら映っていた。AIの画像認識は、粗い解像度を補正し、ミュートの歩行の癖、重心のかけかたまでをも解析し、襲撃者と同一人物である可能性は98%以上だと判断した。遅かれ早かれあいつは捕まって罪を償う羽目になるさ。
「にしても、ジオ、おまえの成長はすげーな。雪見先生もベタ褒めしてたっけ」
先に学んでいたアラタたちを追い抜いてオレは手話に習熟した。
当たり前だが、必要に迫られているオレの方がモチベーションは高い。おかげでいまや日常のアレコレを手話で伝えるのは各段にスムーズになった。ただ、発語障害とはいえ聴者のおれが使う手話は、ネイティヴ・サイナーやろう者の使う手話とは隔絶があるように感じる。ろう者の両親の間に生まれて手話を母語のようにして育つコーダ、つまり雪見先生とも違う。外国人の日本語が訛っているような感じ? 飛び越えられない大きな溝。
でも、そんな違和感をおぼえるようになったのも手話を学ぶ過程で、聴覚障害やオレと同じく発話に困難を抱えた人たちのコミュニティと交わることができたからだ。ドローンサイネージを開発してくれたのも耳の聴こえない技術者の蓬原さんという人で、これでも格安で請け負ってくれたうえ、毎回、オレらの練習にも付き合ってくれている。
高齢の蓬原さんは、幼児の頃の脳髄炎のせいで失聴した。
多くを語らないが、辛酸をたっぷり舐めた人生だったのは想像に難くない。かつてのろう学校では、驚くことに手話での教育が禁止されていた。話者の唇の動きを読み、残存聴力を鍛えるという方針で、彼らのものではない口話を強いられた。つまり聴者と同じく振る舞うことを奨励されたのだ。手話は野蛮な少数言語だと見なされており、ろう者はありのままの姿でいることを許されなかったという。蓬原さんはそんな最後の世代だった。
初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった、とだしぬけに雪見先生は囁いた。そいつは聖書の1ヴァース目だったはず。
あんたは仏教ヘッズだとばっかり思ってたのに、がっかりだぜ。
「これは歴史。ラッパーならアフリカ系アメリカ人の事情には明るいかもしれないけど、抑圧と抵抗の歴史は無数にある。ろう者をめぐる環境は西洋でも似通っていた。神である言葉とは音声語でありスピーチだと見なされていたから、音声語を話せない人間は神のいとし子ではないという見解がキリスト教圏のろう者を苦しめた。手話を通して母語を学ぶというルートを阻害されれば、どの国であれ、ろう者の教育は立ちいかなくなる。いえ、むしろ手話こそが母語なのに」
蓬原さんは、口話教育によって立ち遅れた学習を苛烈な努力で取り戻したのみならず大学で工学技術を習得し、誰もが知る有名企業を定年になるまで勤め上げた。数え切れない特許だって取得したという。キリストのように笑みを絶やさない蓬原さんからはそんな苦労は見えない。でも、オレは誰かの傷跡、それが囁く声に、耳を澄ますことを学びつつある。決して語られることのなかった声なき声を聞き分けるなら、オレにはストリートのリアルとは別の新しいリアルを歌うことができる。かつては視野に入らなかった人たちの心の実感をリリックに託すことができるだろう。
もしお前が本当にあの夜の襲撃者ならミュート、とオレはあいつに呼びかける。
きっちり教えてやるよ。静寂は沈黙とは違うってことを。
オレはまだ歌うのをやめちゃいない。
〈続〉
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十三不塔著者
十三不塔著者
2020年『ヴィンダウス・エンジン』にて第8回ハヤカワSFコンテスト優秀賞を受賞。近著に、『氷鉄のフロンティア ~転生ロボット工学者、ゴーレム直してたら技術革命起こしちゃった~』や軌道エレベーター上で開催される恋愛リアリティ番組とその背後の極秘計画をめぐる『ラブ・アセンション』などがある。井上彼方編『SFアンソロジー 新月/朧木果樹園の軌跡』、日本SF作家クラブ編『AIとSF』、大恵和実・藤吉亮平編『宇宙大将軍侯景SFアンソロジー 梁は燃えているか』などにSF短編小説を寄稿。専門学校講師で、芝居やラジオドラマなどの執筆もしている。